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聖霊降臨節第12主日礼拝 説教 [平和月間]
  「蛇のように賢く、鳩のように素直に」

日本基督教団藤沢教会 2017年8月20日

【旧約聖書】エレミヤ書      20章  7~13節
【新約聖書】マタイによる福音書  10章16~25節

「蛇のように賢く、鳩のように素直に」(要旨)
 神様に託された言葉を神の民に伝えたのが預言者であり、エレミヤは、その代表的な一人でありました。ただ、預言者としてのその役割は、神様の言葉を運ぶだけではありません。御言葉の前に立つ生き方そのものを伝えることも、その大切な務めであり、それゆえ、今日、御言葉が語るエレミヤの姿は、私たち信仰者にとって、重要な意味を持つことになります。なぜなら、ここで語られているエレミヤの姿と自分自身とを、私たちがもし重ね合わせることがなければ、私たちの信仰は、信仰としては不完全なものとなるからです。そして、それは、ここでイエス様が仰りたいことにも通じることです。イエス様が、弟子がその師に、僕がその主人に勝ることはないと仰るのは、神様の完全さを身につけたいとの思いから信仰を受け止めることが、返って聖書の信仰から遠ざけることになるからです。

 思い通りにならないこの世の現実の中で、不完全なままの私たちは、その信仰をもってしても、理屈通りに動けるものではありません。その真面目さゆえに苛立ち、なお神に仕えようとするエレミヤの姿がそのことを明らかにしてくれています。そして、このことはつまり、神様を讃美し、喜びの声を上げる姿だけが、神に仕える者の姿なのではなく、その一方で神様に仕える苦しみが恨み辛みとなって現わされるその姿も、神に仕える上でのその姿であるということです。このように、私たち信仰者には、こうした二面性があり、それゆえ、エレミヤのここでの姿を理解することは、殊の外大事になってくるわけです。なぜなら、エレミヤは、強いられて神様に文句をいっているわけではないからです。自らの意思、その思いに従って、自由に神様にその思いの丈を訴え出ているのであり、つまり、この自由さの中にこそ、我々に与えられている信仰の恵みが溢れ出ているとも言えるからです。

 ですから、エレミヤのその姿が示すように、私たちには、信仰によって、神様の御前でいい子でいたいと思う自由と、神様なんてという、聞き分けの悪さすら現すことのできる自由が、神様によって、許されているということです。このことはつまり、神様には、私たちを思想統制する意思はないということです。従って、神様に正面切って不平や悪口を言えないものは、聖書が語る信仰ではないということなのですが、ただ、だから、何でも許されるということではありません。それが許されてるのは、主にあってという一点においてであり、それゆえ、主にあって悪口を堂々と口にする私たちは、険しい顔で毒を吐くことはありません。笑顔で毒を吐けばこそ、笑えない話も笑える話にすることができるわけで、ですから、そういう意味で、私たちは、堂々としていなければなりませんし、全員が敵ではなく、家族の一員であるとの理解がしっかりと収まっていなければならないということです。

 このように、神様と私たちの関係性においては、主にあって、良いことも悪いことも互いに言葉にできるし、していいわけですが、このことはまた、イエス様が、狼の群れの中に送り出される弟子たちに向かって、「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」と仰っていることからも分かります。それは、蛇の賢さが、機を見るに敏であり、また、鳩の素直さが、その帰巣本能にあるように、立場を弁え、状況に応じて自由にその役割に徹することのできる、そういうこの世に生きる上での正常な他者感覚を身につけているのが、私たちクリスチャンでもあるからです。ただし、そのためには、鳩が脇目を振らずに一直線に巣へと戻るように、また、蛇がそのテリトリーの外と内とを明確に区別するように、自分自身の帰るべき場所、いるべき場所、それがどこなのかをしっかりと弁えておく必要があります。

 エレミヤやイエス様の弟子たちの置かれた場が過酷な環境にあるように、神様の懐深くに収まることは、口で言うほど簡単ではありません。ましてや、そう仕向けたのが、神様とイエス様であり、しかも、傍観者のように振る舞っているとしか思えないとしたら、エレミヤのようにゲンナリとさせられるのが当然だと言えるでしょう。けれども、御言葉が私たちに伝えたかったことは、傍観者としての神様とイエス様の姿ではありません。喜ぶものと共に喜び、悲しむものと共に悲しむ方が、私たちの神様であり、そこに神様の真実な姿が表されているわけで、エレミヤの独白はまた、エレミヤが、この視点を見失っていなかったことを示してくれているのです。なぜなら、そこで感じるであろう絶望的な気持ちを通し、なお、失われることのない神様の御心に触れているのがエレミヤであり、このエレミヤを通し現されているのが、共に喜び共に悲しむその神様の御心でもあるからです。そして、この御心は、私たちがどのような状況に置かれようとも、決して、消えてなくなることはないものです、喜ぶものと共に喜び、悲しむものと共に悲しむと言われる所以はこの点にあるのです。

 パウロは、ロマ書の中で、「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」と語るのですが、それは、いたずらな忍耐を私たちに求めてのことではありません。聖書の語るところの神の愛、慈しみとはつまり、神様が私たち一人一人に拘り、離れないという所で現されるものだからです。まただから、私たちは忍耐し、その力を高め、希望をもって、御心の現れを待ち望むことができるのです。ただ、希望を持たない者は、違います。他者への共感、感覚を欠いたその振る舞いが、周りを困らせ、しかも、困ったことに、それでいいとさえ、大まじめに思い込むのは、そうした人々が希望を見つめてはいないからで、ですから、閉鎖的で独善的な集団が、自分の力で希望を生み出そうとして言葉を操り、贅沢は敵だと言って憚らない窮屈さを人に強要するのはそのためなのです。従って、そのような閉ざされた世界観が支配する中で、用意された希望以外のものを見つめ続けることはとても辛いことです。言いたいことも言えない、したいこともできません。忍耐だけが要求される状況下で、では、もし私たちが今日の御言葉に自分自身を重ね合わせようとしたら、今日の御言葉はどのように聞こえてくるのでしょうか。

 すべてが闇に閉ざされたとしか思えない中に、人は置かれることがあります。その中で自分自身をも消し去りたいと、そう思い、そして、その思いに神様が、直ぐに応えてくださらないということがあります。エレミヤのここでの姿が、信仰者といえども、その例外でないことを物語ってくれているわけですが、けれども、そうした中で希望を見失っていないのがエレミヤなのです。エレミヤは、こう語ります。「主に向かって歌い、主を讃美せよ。主は貧しい人の魂を、悪事を謀る者の手から助け出される」と。これについて、学者は、前後の文脈には合わないことから、エレミヤの言葉ではなく、後の時代の人々の加筆であると言いますが、その真偽については学者に譲るとして、ただそこで、一つだけはっきり言えることがあります。それは、どれほどの闇に包まれようとも、善なる瞬間を備えてくださる方が私たちの神様であり、その神様を信じているのが私たちの信仰であるということです。そして、イエス様をキリスト救い主として信じる私たちは、共にいます十字架のイエス様を思うことで、常に、絶えず、神様の善なる御心に触れているのです。それゆえに、だからまた、絶望の極みにおいて、私たちは、希望を見出すことができるのです。

 ただし、それを信じる私たちの姿は、格好のいい、勇ましいばかりではありません。エレミヤがそうであり、また、イエス様が「他の町に逃げて行きなさい」と仰るように、敗北を噛みしめるしかない立場に置かれることでもあるのです。けれども、そこで、希望を見失わないのがその時の私たちの姿であり、また、だから、逃げるしかない中で、傍らを振り向き、私たちは、共にいてくださるイエス様に気づかされることにもなるのです。蛇のようなしたたかさ、鳩のようなしなやかさとは、このように、絶望の中に希望を、闇の中に光を見る、私たちだからこそ、許されることなのです。

 詩編102編の御言葉には、そんな私たちの姿が次のように語られております。「主はすべてを喪失した者の祈りを顧み、その祈りを侮られませんでした。後の世代のために、このことは書き記されねばならない。主を讃美するために民は創造された」と。つまり、闇の中にあって、希望に生きるその姿は、自分のためだけにあるのではないということです。後の時代に生きる人々のためでもあり、それゆえ、私たちが、希望を見つめ、光の中を歩み続けることができるなら、その私たちをして、後々の世の人々もまた、主を讃美し、祝福の内に希望に満ちた新たな歩みへと導かれることになるのです。信仰者のしたたかさ、しなやかさは、そのために与えられているということです。

 信仰が、自分の気持ちだけが満たされればいいというものですと、闇に支配されたとき、私たちは、自分自身をも呪い、自分の手でその命をも消し去りたいと思ってしまうものです。けれども、大きな障害に直面したとき、こうして聖書の御言葉に聞き、希望の中に生きることの許されている私たちは、そこで、神様に愛されている自分自身の姿を見出すのです。そして、それは、これがなければ、あれがなければと言うものではありません。一切が失われ、闇に包まれたとしか思えないそのような状況の中で、二人三人の集まる所に共にいますイエス様を見つめる私たちは、だから、欠け多きままでも、世界と人類全体のために、生きることができるのです。未完成ゆえに、絶望し、また、絶望の虜になろうとも、エレミヤとイエス様のその弟子たちがそうであるように、絶望すればこそ、その先に待つ新しさの中へと、希望の中に進み行くことができる、それが、私たちクリスチャンなのです。私たちは、そのような状態に置かれることを主にある平安、安息と呼んでいますが、この主にある平安は、私たちの置かれているところで実現しているのです。そこにしっかりと自分自身を置き、この収まりの中で生涯を歩む。希望はその私たちのために備えられていることを常に忘れずにいたいと思います。

祈り





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