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聖霊降臨節第13主日礼拝 「確かな土台」


日本基督教団藤沢教会 2017年8月27日

 説教:原口 尚彰(たかあき) 師(フェリス女学院大学 国際交流学部 教授)
 
 
イザヤ書      28章14~18節
マタイによる福音書   7章24~27節
 

確かな土台(要旨)
 本日はマタイによる福音書7章24-27節の言葉が新約聖書の朗読箇所として選ばれています。この箇所は所謂「岩の上に家を建てる」譬えを語っており、新約聖書の中でも最も有名な箇所の一つなので、皆さんも覚える位に親しんでいる言葉ではないかと思います。特に長い信仰生活を続けている方は、この箇所に基づいた説教を何度も聞いたことがあるのではないかと思います。

 この箇所はマタイによる福音書5章から7章に及ぶ山上の説教の最後のところに出て来ており、その締め括りの言葉となっています。直ぐ後に、「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」(マタイ7・28-29)と書いてあり、山上の説教全体に対するガリラヤの人々の反応が描かれています。聴衆である民衆は山上の説教の言葉に非常に驚きました。それはイエスが律法学者のように旧約聖書の戒めについての単なる解釈や説明を与えるだけでなく、神の子の権威に基づいて全く新しい教えを与えたからでありました。

 マタイ福音書の4章の終わりのところによるとイエスがガリラヤで宣教活動を始めると、教えと癒しを求めてガリラヤのみならずユダヤ全土、さらにはシリアから人々がやって来ました(4・23-25)。イエスはこの群衆を見ながらガリラヤの山の一つに登りました。イエスが山上に腰を下ろすと弟子たちが教えを聴こうと近くに寄ってきたのに対して語った教えが山上の説教です(5・1―2)。従って、山上の説教の第一次的聴衆はイエスの弟子たちであるということになります。しかし、最初に紹介した7章28節以下の箇所には山上の説教を通して聞いていた聴衆として群衆が突然姿を現します。これはどういうことでしょうか?恐らく、山の上に座るイエスの近くに弟子たちが腰を下ろし、その周りに群衆がいて教えの言葉を聞いていたということでしょう。

 昔から、山上の説教の言葉は誰を念頭において語られているのかという議論がありますが、その答えは弟子たちと民衆の両方、つまり、イエスを信じて従うキリスト教徒と必ずしも信徒ではない一般の人々との両方だということになります。山上の説教の言葉の中にはキリスト教信仰を前提にした信徒向けの言葉という側面と、社会生活一般に妥当する勧めの言葉の側面の両方があるということになります。

 例えば、5章9節に、「平和を創り出す者は幸いである、彼らは神の子と呼ばれるであろう」という言葉があります(私訳)。主イエスを信じ、その教えと生き方に倣おうとする信徒だけではなく、世界のあらゆる人にとって平和ということは大切な関心事であり、キリスト教徒以外の人々の中にも、平和のために尽力する人々は沢山います。「幸いである」とされている「平和を創り出す者」の中にはキリスト教徒以外の人々も当然含まれています。山上の説教の言葉は、キリスト教徒に向けられた言葉ですが、それに限らず教会外の人々もその射程の中に収めていると言えます。

 さて、今日の聖書箇所である、「岩の上に家を建てる」譬えですが、この言葉はキリスト教徒に向けられていると同時に、教会外の人々にも向けられた招きの言葉です。譬えの内容は単純明快です。ここでは賢い人の振る舞いと愚かな人の振る舞いが対照されています。「賢い人」と訳されているギリシア語には「思慮深い人」というニュアンスがあり、行動の前にそのもたらす結果を良く考えてから慎重に実行に移すという人というイメージが根底にあります。賢い人は家を建てる時に土台が大切であるということを知っており、固い岩盤を選んでその上に家を建てます。岩を掘って家の土台を据えるのは大変ですが、一旦完成すると家はしっかりと建っており、少々の嵐にはびくともしません。

 これに対して、「愚かな人」とは、将来の結果を良く考えずに、目の前の安易な道を選ぶ人のことであり、現在の愚かな行為の結果、自ら災いを招き、困窮することになります。この譬えでは、愚かな人は軟弱な砂地の上に家を建てています。砂地は柔らかく、そこを掘り下げて家の土台を据えることは容易く、短期間に家を完成することが出来ます。家が建っている土台の部分は目に見えないので、何もない時には、岩の上に立てられた家も、砂の上に立てられた家も余り変わりがないように見えますが、悪天候の時になるとその違いが出て来ます。

 イスラエルは非常に乾燥した土地であり、雨は余り降りません。夏のイスラエルに行って天気予報を聞くと、「晴」とか「曇り」とか「晴のち曇り」とか「雨」とかいう言葉は一切なく、「エルサレム35度」「ハイファ31度」「テルアビブ33度」というように各地の予想気温のことだけが語られます。イスラエルでは夏場は雨がほとんど降らず、毎日が晴だから各地の想定気温の違いさえ予告しておけば十分だからです。このように乾燥したイスラエルの気候ですが、冬から春にかけての時期は別で、ある程度まとまった雨が降ることがあります。乾燥して干上がった土地にも急に大量の雨が降り、水が川のように流れることがあります。「岩の上に家を建てる」譬えが想定しているのも、そのような急に訪れてきた集中豪雨の場面であり、洪水が押し寄せ、風が吹いても、しっかりした岩の上に立てられている家は、土台がしっかりしているので、びくともしませんが、砂地に立てられた家は、立っている土地そのものが流動化しますので、家の土台が傾いてしまい倒壊してしまうことになります。

 家を建てる際に土台が大切だということは、万古不易の真理であり、どの時代のどの国にもあてはまることですが、世界でも有数の地震国である日本のような国では特に大事なポイントではないかと思います。そのことに関しては私自身が体験したことがあります。もう30年以上前のことになりますが、私は神戸市の灘区にある教会の牧師をしていました。神学校を出たばかりの新米牧師だったのですが、教会は古く、教会堂は戦前の建築ですっかり老朽化していました。建築士の人を呼んできて、教会の建物の鑑定をして貰うと、盛り土の上に建てた部分が陥没し、建物の土台が傾いて危険な状況だということでした。この調査結果を踏まえると、建物を修理して使い続けるのは難しく、全面的な建て替えをする他はないという結論を役員会で得たので、臨時の教会総会を開いて会堂改築の決議をしました。その後、1年を掛けて建築計画、予算計画を練り、さらに2年掛けて募金と業者選定を終え、改築を実行しました。

 実際の建築は建築士や建築業者と協議しながら進めて行きましたが、私たちが最初に注意を払ったのは建物の土台が立っている土地の強度でした。神戸市は背後に六甲山を控える港町であり、日本でも有数の美しい街の一つに数えられています。しかし、東部は六甲山の麓から海岸まで延びる傾斜地に立てられており、地盤が堅牢ではありません。実際に旧会堂は軟弱な盛り土の上に立てられていたので、年を経るうちに建物の土台が傾くことになりました。そこで、新会堂の建築に先立って私たちは土地の調査会社に頼んで、教会の敷地の地盤のボーリング調査をしてもらいました。するとその土地は非常に軟弱で、15メートル以上地面を掘らなければ固い岩盤に突き当たらないことが分かりました。そこで、私たちは建築の際に不可欠な条件として建築業者に岩盤にまで届く長い杭を打って貰うことにしました。建物は文字通り「岩の上に立てられて」いなければならないからです。土台の杭打ちの段階では、私は毎日のように建築現場に足を運んで、工程が頼んだ通りになっているかどうか確認しました。新会堂はまもなく完成し、教会の新しい歩みが始まりましたが、その数年後に私は留学のために離任して研究者の道を目指すことになり、以後は教会の歩みを遠くから見守ることになりました。

 新会堂の完成から丁度10年後の1995年の1月17日の早朝に、神戸は大きな地震に見舞われました。阪神淡路大地震です。関西は関東に比べて地震が少ないと言われていたので、神戸がこのような大きな地震に襲われて壊滅状態になったのを見て、私たちは大きな衝撃を受けました。神戸の町の建物の多くは壊れ、高速道路も陥没し、支柱が傾いてしまいました。長田区では火事が起こっても消火できず、戦災の後のような焼け野が原になりました。教会があった灘区の高台の辺りには古い日本家屋が沢山建っていましたが、ほとんどが倒壊しました。ところが、私の時代に建て替えた教会堂は、玄関のアプローチの辺りに多少ヒビが入った他は全く無傷でしたので、震災後の半年間、家を失った近隣の人々の避難所として使われることになりました。このことを当時の主任牧師から聞いて、その十年前の会堂建築の時に岩盤に達するような長い杭を打っておいたことの正しさを確信しました。「岩の上に立てられた家」は集中豪雨だけでなく、大地震にも耐えることが出来ることが実証されました。

 イエスの山上の説教の教えにおいて、「岩の上に家を建てる」ことは人生を送る際の心構えについての譬えとして語られています。岩の上に家を建てる賢い人とは、イエスによると山上の説教の教えの言葉を心に銘記して、日々の生活の中で実践する人のことです(マタイ7・24)。砂の上に家を建てる愚かな人とは、イエスの言葉を聞いてもそれを聞き流し、実践することがない人のことです(7・26)。イエスの言葉を心に留めて実行する生活を送っている人も、聞くだけでその内容に心に留めず、実行に移すこともしないような生活を送っても日常生活においては大差ないように見えます。しかし、イエスが言うには、風水害のように突然予告なしに襲ってくる人生の試練の時に大きな差が出て来ます。主イエスの言葉に日々耳を傾け、その言葉の上に立った生活を送っている者は、キリストという固い土台の上に立っていますので、倒れることなく乗り切ることが出来ますが、イエスの言葉を聞き流している者は、しっかりした土台の上に立っていないので試練に耐えることが出来ずに折れたり、倒れたりすることになります。

 では、大雨や大風に喩えられるような人生の試練の時とは何でしょうか?それは時代や人によって異なりますが、多くの場合、水害や地震のような自然災害の他に、重い病気になるとか、職を失うとか、親しい者が病や事故によって天に召されるといった困難や不幸が訪れる時のことを考えれば良いでしょう。そのような今まで歩んできた人生の枠組みそのものが脅かされるような試練の時は、それぞれの人生が立てられている土台が問われます。キリストの言葉を聞いて行う者はキリストという岩の上に立てられているので、試練にも耐えることが出来るけれども、聞いても行わない者はキリストという土台を欠いているので耐えることが出来ないと、主イエスは語られています。

 聖書の言葉は基本的な生き方の方向を与えるものであり、直ぐに役立つ処世訓を与えるものではありません。イエスの言葉の通り行ったから、社会で成功するという訳でもありません。聖書のことを良く知っている聖書学者の人たちが世渡り上手な人たちかというとどうもそうではないように思います。人生において手早く成功する道を求めるならば、聖書よりも町の本屋の棚に沢山並んでいる実用書や成功者の言葉の類いを読んだ方が良いと思います。聖書に書かれているイエスの言葉は社会の常識とはかなり異なっていますので、社会における成功する道を示すよりも、一般社会の人々の考え方や感じ方とは違う独自の視点を与えることの方が多いと思います。特に、日本のような非キリスト教社会においては、キリスト教信仰を持つことは考え方や生き方において少数者の道を歩むことを意味しています。

 信仰を持てば人生の困難がなくなるかというと、そういうことはありません。自然災害は信じる者であるかどうかを問わず、誰にも等しく訪れて来ます。また、旧約聖書のヨブ記の主人公ヨブや預言者のエレミヤのように、敬虔な信仰者であっても人生の試練や不幸に見舞われることはあります。しかし、信仰によって試練がなくなることはありませんが、信仰は試練に耐える力を与え、将来に対して希望を与えるとは言えるのではないかと思います。それは困難や不幸を神が与えた試練として理解し、神は必ず試練から逃れる道を用意して下さるということを信じることが出来るからです(第一コリント10・13)。また、信仰者の人生の土台であるキリスト自身が、地上の生涯において十字架に向かう苦難の道を歩み、その死と復活の出来事を通して永遠のいのちに至る道を切り開いた方であるからです(ヘブライ2・14-18、4・14-16)。そのことを信じて、御言葉に励まされながらキリストと共なる人生の旅を歩んで行きたいと思います。


祈り





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