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聖霊降臨節第14主日礼拝 説教 「この木、なんの木」

日本基督教団藤沢教会 2017年9月3日

【旧約聖書】ハバクク書        3章17~19節
【新約聖書】マタイによる福音書  13章24~43節

「この木、なんの木」(要旨)
 未熟さや矛盾、誰もが抱えるそうした問題を、少しでも小さくすることができたら、どんなにうれしいことでしょう。そして、そのとき、人は、自らの成長を実感することにもなるのでしょう。それゆえ、未熟さや矛盾を抱えつつ生きるしかない私たち信仰者が願うことは、そんな自らの信仰的成長です。そして、そんな私たちに対し、イエス様は、この三つのたとえ話を通し、大胆にその成長を約束してくださっているのです。

 昨日、卒園した子どもたちとそのご家族をお招きし、みくにの集いが今年も行われましたが、久しぶりに会う子どもたちは、まさにイエス様の子どもとして、その成長を実感させてくれるものでありました。このように、年を重ねる毎に、様々な意味で、確実に成長させられるのが、イエス様に繋がる命であり、従って、からし種の譬え、パン種の譬えでイエス様が仰りたいことは、私たちとはつまり、そういうものだということです。それゆえ、イザヤは、そんな私たちのことを次のように語ってくれています。「私の民の一生は木の一生のようになる」と、一つ所にしっかりと根を張り、年輪を重ねる木の一生に譬え、神様の約束の元に生きる私たちのことをそう語るのです。

 しかし、すべての人が、このことをなるほどと思えるわけではありません。終末への恐れからなのか、喜びの感度が下がり、成長を他人事のように感じてしまうからです。ただ、そうなるのは、理由がないことではありません。イエス様が「その時、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く」と仰るように、神の国に入る上で必ず問われることが、そのふさわしさでもあるからです。そしてまた、恵みへの感度が下がる理由はそれだけではありません。パウロが「私は、福音を恥としない。福音は、ユダヤ人を初め、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、始めから終わりまで信仰を通して、実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」と語るように、正しさ、ふさわしさこそが、私たち信仰者そのものを現しているからです。

 そのため、終末を意識しつつ生きる私たちは、正しさを身につけようと強く意識するのですが、ところが、なかなか思うように身につけることができない。そこで、身につけねばとの思いがますます強くなるのですが、けれども、その気持ちの強さが、返って、その感度を下げる結果をもたらすことにもなるのです。なぜなら、私たちに求められる正しさとは、矛盾などの種々の問題点を整理しさえすれば、それで身につくものではないからです。

 そこで、皆さんに伺いたいのですが、では、皆さんが納得する望むべき信仰者の姿とは、どういうものなのでしょうか。また、矛盾を抱えつつ生きる私たち一人一人が集められているのが教会である以上、あるべき教会の姿というものは、どういうものなのでしょうか。先ほどのパウロの「正しい者は信仰によって生きる」とある言葉が、ハバクク書2:4からの引用であることを考えますと、望むべき信仰者の姿、あるべき教会の姿というものは、ハバクク書3:17-19で語られている今日の御言葉の中に現されているように思うのです。そこで、このハバククという預言者について、少しお話ししますと、バビロン捕囚の直前、世界史的に見て、イスラエルの没落寸前でもあったその最後の瞬間に活躍したのが、預言者ハバククでありました。それゆえ、このハバククの目には、当然のことながら、そのイスラエルの滅亡、つまり、愚かさとその罪、罪の結果としての苦難、それに伴う破壊と暴力、争い、対立、一つの終わりに際し起こる暗く醜く人間の姿がその目にしっかりと映し出されておりました。けれども、理屈抜きに、それでも必死になって神様の御心を伝えようとしたのが、このハバククでもあります。このことはつまり、そんなハバククの姿が示すように、私たちの信仰は、理屈だけで生きるものではないということです。ただ、ハバククは、残念なことに期待した成果を何一つ上げることはできませんでした。ですから、そんなハバククのことを思いますと、さぞ無念であったろうと思うのですが、ところが、ハバククは、空しさだけに苛まれていたわけではありません。それは、彼の目に映し出されていたものが、罪人らの悲惨な末路だけでなく、神様の約束には破れがないという、この現実そのものでもあったからです。つまり、言葉を尽くし、神様と同胞のために働いた彼の背後には、いつも言葉を超える力が力強く働いたということです。

 ですから、悲惨な現実を語りつつも、ハバククが、なお軽やかなステップを踏み、その信仰を喜んでいるのは強がってのことではありません。ハバククは、心の底から喜んでいるのです。そして、ここに、信仰者としての誠実さが現されているように思います。従って、私たちの望むべき信仰者の姿、あるべき教会の姿とは、喜び踊り、軽やかにステップを踏む、このハバククの姿にあると言えるのでしょう。またそれに倣えばこそ、私たちの成長も約束されているのです。それゆえ、イエス様が「耳のある者は聞きなさい」と仰るように、私たちがなすことは、そのお言葉を素直に聞いていくだけでいいということです。また、それが嘘でもなければ、まやかしでもない、事実であるからこそ、私たちもそのことを身をもって証しすることができるのです。

 そこで、それをなすために、一つこつのようなことを申し上げるなら、それは、力まないということです。なぜなら、余計な負荷を感じながら、いくら踊ったところで、それで軽やかなステップを踏むことなどできるはずもないからです。むしろ、力を抜くことが大事なのであり、そのためにも、余計な力を抜いて、イエス様にすべてをお任せすることが大事なのです。けれども、体の重い私が言うのもおかしな話なのですが、それが一番難しいことなのだと思います。

 矛盾を抱えつつ生きるしかない私たちが、確証がないまま言葉の上に安住することも、また、そういう私たちが集まった教会に身を置くことも、力めば力むほど、耐え難い苦痛をもたらすことがあります。だから、苦痛に耐えかね、私たちは、自分自身の苦しみの原因となる、「毒麦」をすべて抜き取ろうとするのでしょう。けれども、それに対し、イエス様はなんと仰っているのか。そのまま放っておけと仰るのです。けれども、だから、何もせずにいいということではありません。種々の問題を解決へと導くのはイエス様であり、神様だということ、仰りたいところは、この点にあるわけで、だから、そのままじっとしていても、解決は自ずと与えられることになるのです。

 交わりを意味するコイノニアという言葉が「汚れ」という言葉から派生したように、私たちも、また、その私たちの集まる教会も、シミ一つない清らかさに包まれて欲しいと思うのですが、現実はそういうものではありません。なぜなら、信仰をもってしても、目障りな汚れが消えることはないからです。ですから、冒頭で申し上げた成長の実感が伴わなくなるのは、そんな「交わり」に身を置きながらも、目に見えて分かる達成感が得られないからでもあるのでしょう。それゆえにまた、私たちは、「ふさわしさ」を求めてしまうのでしょう。ただ、イエス様が三つのたとえ話を通し伝えようとする「ふさわしさ」とは、私たちが考えるようなものではないのです。

 聖書において、パン種とは、汚れたものでもあります。そして、そのパン種を粉に混ぜ合わせると、全体が膨れると、イエス様がこう仰るように、イエス様が仰る成長は、汚れを取り除くことで達成されるものではありません。むしろ、その反対で、私たちが汚れたと考えるものこそが、まさに「交わり」というこの言葉が明らかにするように、私たちにとっての不都合なものが、私たち自身の成長にとって欠かすことのできないものなのです。従って、イエス様の求める「ふさわしさ」とは、汚れすらも有効活用し、その成長を促す力なのであり、つまり、この何だか分けの分からないところに置かれればこそ、それでいいと安心することのできるもの、イエス様が伝える「ふさわしさ」とはそういうものであり、だから、その成長は、放っておいても約束され、また、そのことにだけ信頼していれば、臆するものは何もないということなのです。

 従って、どんなに矛盾を感じ、どんなに破れが見えようとも、私たちを一つに混ぜ合わせた方がイエス様である以上、そこには、何一つダメなものはなく、また、すべてがダメなものではない以上、イエス様の仰ることに信じない理由はありません。なぜなら、信仰によって私たちとイエス様とが同じ一つの命に生きている以上、私たちの信仰的成長は、このイエス様と同じであるという一点に尽きるものでもあるからです。

 9月を迎え、クリスマスに向かっての歩みが、その視野に入ってきますが、その間に与えられる一つ一つの行事が、私たちを信仰的に大きく成長させる機会となることでしょう。ただ、毎年のことでもありますが、その中で明らかにされることは、主の恵みだけでなく、私たちの矛盾や未熟さであり、それがまた、私たちの成長を阻害していると感じられ、そのため、そうした目障りなものを取り除きたいとの衝動に駆られることにもなるのでしょう。けれども、そこで忘れてならないことは、それが取り除くことのできない、私たちにとって必要なものだからこそ、イエス様によって、私たちは、成長を約束されているのです。腹の立つことや悲しくなることもあるかもしれません。けれども、成長を約束されている私たちとイエス様が同じ命に生き、同じ所に生きている以上、私たちを包む神様の正しさとイエス様のふさわしさに信頼することで、私たちは必ず成長へと導かれることになるのです。従って、私たちがそのことをしっかりと胸に納め、クリスマスに向かっての歩みを進めていくなら、結果については、何も心配する必要はありません。軽やかにステップを踏み、喜び楽しみつつ、終わりまでを歩み続ける私たちであることを願います。

祈り





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