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聖霊降臨節第15主日礼拝 説教 「信仰という知恵」

日本基督教団藤沢教会 2017年9月10日

【旧約聖書】列王記上         3章 4~15節
【新約聖書】マタイによる福音書  13章44~52節

「信仰という知恵」(要旨)
 本日の礼拝後、「神の家族をもっと知ろう」と題して、修養会が行われますが、その私たちに向かって、この日、イエス様が仰っていることが、天の国についての、この三つのたとえ話であります。このことはすなわち、私たちは、神の家族として、今日のイエス様のお話を間近で聞いているということです。そして、そのイエス様が、すべてを語り終えるに際し仰ったことが、「あなたがたはこれらのことが皆分かったか」という問いかけであり、また、それを聞いた弟子たちの「分かりました」という返事でもありました。それゆえ、神の家族である私たち一人一人にとって、この三つのたとえ話は、分けの分からない話などではなく「分かりました」とそうはっきり答えることのできるものだということです。

 ただ、 今日、こうして共に礼拝を献げるすべての方が、午後の修養会に参加するわけではなく、また、全員が洗礼を受け、教会員とされているわけでもありません。ですから、家族であるからといって、全員が同じことを考え、同じことをするのではなく、そこには違いがあるわけです。ところが、御言葉は、イエス様の言葉を聞いた全員が声をそろえて「分かった」と、そう言ったというのです。それは、だから、全員が同じように考え、行動にしなければならないということではありません。そこで言われていることは、イエス様を中心とした関係性への気づきが与えられたということであり、つまり、イエス様と自分たちとが無関係ではなく、それゆえ、イエス様のお言葉に聞く者同士もまた、無関係ではないということです。従って、無関係ではないがゆえに、互いに共通する部分や相違する部分についても、互いに関わり、触れ合えばこそ、気がつかされることにもなります。つまり、互いに受け止め合う家族であればこその気づきが、この「分かった」と言った弟子たちの言葉に表されているということであり、また、イエス様がこの三つのたとえ話において仰ったことも、弟子たち、神の家族のそのような関係性についてでありました。

 天の国の価値にたまたま気づいた者も、自ら進んでつかみ取った者も、そこで手にするものは同じです。しかし、手にするものは同じであっても、それを手にする過程は同じではありません。つまり、それぞれの価値観は同じではないとうことです。ところが、価値観の異なる者同士が、何物にも代えがたい価値あるものに気づかされ、それゆえ、この新たな気づきが、価値観の異なる者同士を新たに結びつけることにもなるのです。ただ、そこで手にしたものだけが、それぞれの共通部分ではありません。持っているものすべてを売り払い、この大切なものを手にしたということはつまり、それぞれが、その価値あるもののために丸裸になったということです。従って、天の国という、この価値あるものを手にした者は、この世においては丸裸であり、それが、弟子たちはじめ、神の家族でもあるということです。

 ところで、丸裸になるということは、この世の常識に照らせば、人に褒められることではありません。けれども、イエス様は、それを私たち神の家族に連なる一人一人に求めるのです。それは、私たち神の家族が、神様の前では隠すものはなく、また、そのような隠しようもない関係性にすでに生きているからです。けれども、このことはまた、だから、私たちは、かくあらねばならないということではありません。丸裸は、すでに丸裸であるということであり、私たちの個性やその価値観が、そのために押さえ込まれ、無視されていいということではないからです。

 この価値あるものを手にするにあたり、それぞれのプロセスの違いが尊重されているように、どこにも隠れようもない、この神様との関係性は、抑圧的に働くものではありません。だから、私たちは、隠れる必要もないし、何も隠す必要もないということです。ところが、三つ目のたとえ話によると、その私たちが二分されることとなる。それは、神の家族であっても、この関係性に安住できない者がいるからです。それゆえ、安住することのできない者は、自分自身を取り繕おうとします。時折、見え隠れする人の意外な顔に、私たちが驚き、また、人を戸惑わせもするのは、それゆえのことであり、終末における神様の最終決定について語る三つ目のたとえ話が問題としているのも、まさにその点であるということです。

 ただ、だから、臭い物には蓋をせよと、イエス様は仰りたいわけありません。良い者も、悪い者も、それぞれを網の中に招かれたのは神様だからです。ですから、私たちが、個々の主観で、その良し悪しを決めつけ、排除するのは間違いです。けれども、一方で、良し悪しを口にしてしまう現実があるのも確かなことです。従って、この三つ目のたとえ話が言っていることは、神の家族、教会といえども、良し悪しを口にせざるを得ない、暗く重い現実があり、様々な顔を持つ人々が集まって生じる、救いようのない網の中の現実を、イエス様が明らかにされているということです。しかし、そのような現実を、イエス様が事実として語りつつも、イエス様がそこで仰りたいことは、私たちが見たくもないそんな現実ではありません。

 神の家族の中に置かれている私たち一人一人は、様々な顔を持っており、家族と言えども、そのすべての顔を知っているわけではありません。また、「新しいものと古いもの」を取り出すということが語られているように、家族が世代を繰り返すものである以上、ご高齢の方もいれば、生まれたばかりの赤ちゃんもいるわけです。それゆえ、皆が皆、同じ動きをするわけではありません。様々な一面を持つ人たちが同じ所にいる以上、そこには、様々な姿が見え隠れすることになり、そのためにまた、いろいろな問題が生じることにもなるのです。しかも、家族は解消することはできません。そのため、そこから抜け出すことができず、そして、その私たちが、やがて決定的な時を迎えることになると言われているわけです。ですから、その備えのためにも、不都合な面は隠しておいた方が得だとも言えるのでしょう。「悪い人」が、様々な仮面を使い分けて、上手に問題をやり過ごそうとするのは、そのためでもあるのです。けれども、まだからこそ、網の中には、神様とイエス様の救いそのものが現されてもいるのです。

 光に集まる魚を捕らえるための漁は、夜に行われるものです。そして、イエス様が三つ目の譬えで語るところの漁も、明るい日差しの中で行ってはいないように思います。なぜなら、神様ご自身が網を打ち、網の中へと人々を招かれたのは、闇の中にある人々を救うためでもあるからです。そして、その網の中には、自ら進んで入った者もあれば、たまたま網に引っ掛かってしまった者もおります。ただ、私たちの入っているその網は、今も暗い海の中に置かれたままであり、しかも、網の外と内とは繋がってもいるわけです。そのため、網の中にいることが分からないと、そのことに安心することができず、それゆえ、丸裸であることが、とても危険なことのようにも思えてしまうわけです。まただから、将来に備えるためだけではなく、そんな今をやり過ごすためにも、自分自身でその身を守る必要があると、人は、そんなことを考えてしまうわけです。

 けれども、それで何かが変わることはありません。丸裸であるということは、鰺は鰺のまま、鮪は鮪のまま、そこにいるということであり、いていいということです。けれども、網の中にいることに安心できない者は、そのために可笑しな格好をし、不自然に動き回わろうとします。そして、この不自然な動きがまた、将来の決定的な違いに繋がっていくことにもなるわけです。ただ、そうであるからこそ、そこで、私たちは、忘れてはなりません。網はまだ引き上げられたわけではなく、そうである以上、その良し悪しの決定については、まだ下されたわけではないのです。

 網の中には、様々な姿をもって生きる、様々な生き物がおり、それゆえ、おおよそ聖書的、信仰的、教会的ではない姿と雰囲気を醸し出すことにもなるのでしょう。聖書の御言葉が、ソロモンといえども、その様々な顔と様々な姿について語るように、「中間時」に生きる私たちもまた、神様の御前にあっては、様々な顔と姿を現す者なのです。そして、そうしたことが起こるのは、私たちが神様を知らないからではなく、知っているからです。それゆえにまた、一つの顔、一つの姿だけを堂々と神様の御前に現すことに恐れを抱くことにもなるわけです。鰺が鮪を羨み、鮪になりたいと思うのは、そのためでもあるのでしょう。

 けれども、様々な姿を見せるそのソロモンのことを、その私たちは、知恵の王と呼び、その知恵に学ぼうとします。それは、私たちが学び取ろうとする知恵とは、神様の知恵であって、神様の御心に背き、誤魔化すための方便ではないからです。なぜなら、神様を畏れることが知恵の始まりであると、御言葉が語るように、隠れようもないし、隠しようもない、丸裸のそんな自分自身を受け入れてくださっているのが神様であり、その神様を畏れ敬う知恵を持てばこそ、私たちは、丸裸のままでいることに安心できるからです。ただ、海の中にある以上、丸裸が危険なことだとどうしても思えてしまう。ソロモンといえども、そんな一人だから、失敗や過ちを繰り返したわけです。けれども、まただからこそ、網の中が一番安全な場所であることを、ソロモンは知ることにもなったのです。

 丸裸である私たちがこうして向き合いつつ、互いを知り、そして、その私たちが一緒に天の御国の訪れを待ち望むことは、もしかしたら、網の外にいた頃よりももっと大変なことなのかもしれません。そのため、見たくない現実、聞きたくない現実に触れることにもなるのでしょう。けれども、イエス様がいる以上、救いは、私たちが生きる網の中にすでにあり、そこで生かされているのが私たちなのです。聖書的、信仰的、教会的という決めつけとその思い込みによる装いが、私たちを天の御国へと導くわけではありません。丸裸であること、神様によりそのありのままを受け入れていただいている私たちであることに感謝したいと思います

祈り





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