印刷用PDF(A4版2ページ)
聖霊降臨節第16主日 高齢祝福合同礼拝
  説教 「(てん)(かみ)さま、(おし)えてください」

日本基督教団藤沢教会 2017年9月17日

【新約聖書】マタイによる福音書  18章10~14節

(てん)(かみ)さま、(おし)えてください」(要旨)
 本日は、 高齢祝福合同礼拝として、 老いも若きも幼子も共に礼拝を献げることが許されておりますが、天の御国の様子を伝える本日の御言葉にふさわしく、ここに神の民、神の家族の姿があるように思います。そして、イエス様は、その私たちに向かい、小さき者を受け入れよ、幼子のごとくなれと、天の御国に入るための必要をこう説くのです。ところで、イエス様が、ここで仰る「いと小さき者」、「幼子」とは、どういうものなのでしょうか。

 幼子というものが、聞き分けのいいばかりでないことは、皆さんもよくご存じのことと思います。模範的で、徳のある、高潔とはほど遠い存在であり、また、未熟さゆえの自己中心さを合わせ持ち、そのため、身勝手な振る舞いばかりが目立つ、そういう存在が幼子というものでもあるのだと思います。ただ、その幼子を見て、私たちの多くは、かわいいと思う。場合によっては、目に入れても痛くないとさえ思う。イエス様は、その幼子のようになれと仰るわけですが、これは一体どういうことなのでしょうか。

 恐らく、イエス様は、幼子の未熟な面を捉え、それに倣えとは仰ってはおられないのだと思います。そしてまた、未熟さゆえに放つあどけなさ、かわいらしさに倣えとも仰ってはおられないのだと思います。そうした、私たちの感じ方、受け止め方におもねり、イエス様が何かを仰っているわけではなく、子供たちと共に礼拝を献げる私たちだからこそ、「幼子のように」と仰っているように思うのです。このことはつまり、自らを飾ることなく「ありのまま」に生きるこの小さき者、神様に与えられた「そのまま」の命をただ喜びの中に生きる幼子、この小さき者、幼子の持つ「ありのまま」、「そのまま」に倣うようにと、イエス様はそう仰っているということです。そして、この日、私たちが考えるべきところは、まさにこの点にあるように思うのです。

 幼子が幼子のまま、小さき者が小さきままでいいとは、どういうことなのでしょうか。それは、私たちの命が、無理を重ねて、「こうあらねばならない」、「こうせねばならない」というものではないということです。ただ、もちろん、だから何もせずにそのままでいいということでもありません。ありのままでいれば、それでいいといった、そんな野放図さを、イエス様は勧めるわけではないからです。「ありのまま」、「そのまま」でいいと仰るのは、その状態のままでの成長を、神様とイエス様が約束してくださっているということであり、また、それを信じているのが、私たち主の教会に連なる者でもあるということです。

 私たちは、大人も子どもの幼子も、共々に天の御国に向かい行く者として、今を過ごしています。そして、その私たちの元に、この幼子を送り出してくださったのが、私たちの神様であり、つまり、神様の元から私たちの元に来たばかりの幼子は、それだけ神様に近い存在だということです。それゆえ、神様によって、「ありのまま」、「そのまま」でいいと言われていることについては、私たち大人と比べ、もっとよく分かっているということです。ですから、先日あった幼稚園のお誕生会の際、子どもたちに対し、私が「お母さんのお腹から出てくる前のことを覚えている子は手を上げてください」と、こう尋ねたところ、ほとんどの子が、元気よく「ハイ」と手を上げてくれました。そして、私たち大人も、もう忘れてしまったのかもしれませんが、この幼子と同じようにこの世へと送り出された者の一人なのであり、まただから、イエス様も、「いと小さき者のように」、「幼子のように」と仰るのです。ただし、イエス様がそのように仰るのは、私たち大人に天の御国の余韻をもう一度思い起こさせたいからではありません。

 本日は、高齢祝福合同礼拝として、私たちは、「敬老」という観点からも礼拝を献げているわけですが、この「敬老」ということと、イエス様が「ありのまま」でいいと仰ることとは、直接関わり合っていることです。ただ、敬うべきは、ご高齢の方々が、天の御国の余韻に長く生きてこられたからではありません。神様によって生きる者とされた私たちは、いずれ、再び、全員が神様の御許へと戻っていくわけです。そして、その私たちが、こうして一緒にに過ごすしているわけですが、このことはつまり、その私たちが、老いも若きも幼子も、同じように一つの部屋の中で暮らしているということです。従って、私たちが同じように神様のお恵みを受け、生かされている以上、年の差によって、何かが変わるということはありません。このことはつまり、私たちが共に生きるこの部屋は、神の国の余韻を引きずるところなどではなく、同じように同じ神様の恵みを分かち合うことが許されている所であり、神の国という、この大きな家の中に同じように置かれ、一つ部屋にこうして一緒に過ごすことを許されているのが私たちだということです。ですから、入る前も出て行く前も、そして、こうして一緒に暮らす今も、私たちは、何も変わらず、等しく同じ神様の恵みによって生かされているのです。ですから、ご高齢の方は、それだけ神様のことを知っているわけで、それゆえ、この知っているというところにこそ、私たちの敬うべき理由があるということです。

 従って、幼子が幼子のまま、小さき者が小さき者のまま過ごすことのできるこの部屋の中には、幸せな暮らしが満ちあふれています。ただ、その部屋の中には、聞き分けのいい子もいれば、手のかかる子供もいます。天気の悪いときには、あっちでもこっちでも、喧嘩が起こり、子どもたちの泣き叫ぶが聞こえてきたりすることもあります。そうした中で、大人も、ついいらいらし、声を荒げてしまうこともあります。でも、神様によってこうして結び合わされた私たちの暮らしが、今こうしてあり、神様は、その私たちを天の御国の住人として、どんな時にも御国へと向かい行くための恵みを約束くださっているのです。

 イエス様がここで神様の御前にある小さき者の天使について触れていますが、そこに現されていることは、私たちの幸せな暮らしそのものを、神様の視点でもって語ってくださっているということです。そこで、私たちは、この小さき者とは誰なのかと気にするのですが、小さき者とはつまり、それが誰なのかと気にせざるを得ないほどの小さき者、つまり、いくつになっても親を求め、泣き叫ぶ幼子のような者だということです。そして、そのような者とどこまでも、そして、いつまでもか関わり続けてくださるのが、私たちの神様であるということです。

 神様の所からやって来て、やがて神様の元に向かうことになる私たちの命とは、余韻を引きずり、また、余韻を思い起こさなければ、そこでどうかなってしまうようなあやふやなものではありません。部屋の外と内との違いはあっても、外と内とは、同じように神様の御心の中に置かれているわけですから、どちらにいても、私たちは神国の住人であるということです。それゆえ、その命を命として楽しみ、喜ぶために、神様は、私たちがこうして一緒に暮らすため、この一つの部屋を用意して下さたのです。

 高齢者祝福合同礼拝のこのとき、老いも若きも幼子も、こうして一緒に礼拝を献げることで、私たちは、私たちの命の本質に触れることが許されているのです。その中で、私たちは、聞き分けのいい姿を現すこともあれば、その逆の姿を現すこともあるのでしょう。けれども、その私たちが、天の御国の住人として、こうして共に歩むことが許されている。この共にあるというところに神様の恵みがあり、まただから、ここに私たちの幸せがあり、そして、この幸せの中で全うされるものが私たちの命でもあるということです。ですから、この高齢祝福合同礼拝のこの時、この神の民としての姿をもう一度思い起こしつつ、与えられた命を喜びの内に全うする私たちでありたいと願います。

祈り





雨 20℃ at 10:30