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聖霊降臨節第17主日拝 説教 「夜明け前」

日本基督教団藤沢教会 2017年9月24日

【旧約聖書】創世記        45章  1~15節
【新約聖書】マタイによる福音書  18章21~35節

「夜明け前」(要旨)
 神様とも、人とも、破れを抱えながら生きるしかないのが人間であり、そんな私たち人間にとって、愛が貴いものであることは、誰もが知るところでもあるのでしょう。それゆえ、赦しと密接に結びつく愛は、互いに赦し合う関係性の中で形あるものとされることになります。イエス様が赦し合うことの必要をここで説いておられるのは、愛を形あるものにしようとしてのことでもあるのですが、しかし、赦し合うということがいかに難しいことか。そのため、私たちが赦し合う関係を築くためには、神様とイエス様の力をお借りしなければならないのですが、それについては、イエス様もよくご存じでありました。なぜなら、イエス様がそのことをご存じであるからこそ、この直前で「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」と仰ったわけです。

 ただ、ペトロのイエス様への問いかけとイエス様の今日のたとえ話が明らかにするように、赦し合うことは、それでもなお困難なことだということです。なぜなら、イエス様の求めることは、私たちの限度を遙かに超えるものであり、それゆえ、その求めに応え、人に対しても、また、時に自分に対しても、無制限に赦しを与えることは、私たちにはとてもできないと、そう決めつけているところがあるからです。ただ、イエス様が実行不可能なことを私たちに求められるはずはありません。ですから、この赦し合うことを余計に難しくしているのは、イエス様の思いと私たちの思いとが、別々のところに置かれているからであり、それは、ペトロの「何回赦せばいいでしょうか」とのイエス様への問いかけが、ここで意図せずになされていることからも分かります。

 それゆえ、「赦しを語りつつも、赦しがない」などと、私たちクリスチャン、主の教会を揶揄する声が内からも外からも聞こえて来ることにもなるのですが、そこで、その説明として、私たちがよく耳にすることは、教会も罪人の集まりであるということです。そして、この返答は、正しく、間違ってはおりません。私たちが罪人であるがゆえに、そのような矛盾を抱え込まざるをえないのは間違いないことだからです。ただ、そうした説明がいくら正しくとも、そのような言い訳を繰り返すことで、その罪が許されることはありません。罪人であるとの言い訳を繰り返す、自己中心的にしか生きられない者の末路がいかなるものかは、イエス様がたとえ話をもって語られているように、神様に通用するものではないからです。

 そのため、人は、最初から逃げ道を設け、イエス様に従おうとするペトロのような者について、否定的な評価を下そうとするのでしょう。しかし、ペトロのこの無意識な言動を愚かだと、そう性急に決めつけることは、慎むべきです。なぜなら、それが人間というものだからです。ですから、この視点に立ってペトロの発言を聞くならば、ペトロは、人間の分というものをよく弁えていたとも言えるのでしょう。また、同じようにこの視点に立って、イエス様の仰ることを見て行くならば、私たち人間にとっては、イエス様の仰ることの方が、よほどおかしなことだとも言えるのでしょう。しかし、イエス様が無理難題とも思える要求を突きつけるのは、イエス様が分からず屋な方だからではありません。むしろ、その逆で、イエス様が私たちのことをよくご存じであり、私たちに哀れな末路を辿って欲しくはないから。無理難題とも思える要求は、だからこそのものだということです。

 ただ、このように、イエス様が私たちに寄り添い、教え諭すように語りかけてくださっても、それでも、私たちは、イエス様のその要求に尻込みしてしまう者なのだと思います。それは、イエス様ではなく、どうしても自分自身に拘ってしまうからです。ですから、私たちが堂々巡りを繰り返すのは、 自分への拘りを捨て去ることができない、その弱さゆえのことだとも言えるのですが、 けれども、私たちが懲りずに同じことをし続けるのは、そんな私たちと、イエス様がどこまでも付き合ってくださるからであり、このことはつまり、イエス様は、この無理難題とも思える課題を私たちだけに一方的に求めてはおられないということです。イエス様自らが率先して赦しに生きておられるということであり、また、それができるのは、イエス様ご自身が、神様の赦しの中に生きているからです。そして、イエス様が懲りない私たちにどこまでも寄り添おうとしてくださっているのは、イエス様が置かれている神様の赦しの中に、私たちを招こうとされているからで、また、それが神様の御心でもあるからです。ですから、そこで、私たちがなすべきことは一つです。何一つ条件付けられてはいないこのイエス様のお言葉を信じ、ただ従えばいいということなのです。

 では、どうすれば、イエス様の仰ることを、私たちは、安心して受け止めることができるようになれるのでしょうか。それには、兄弟姉妹を赦すことができるかできないか、それをするしない以前に、あることに私たちが気がつく必要があります。それは、赦す、赦さない、するしない、やるやらない、という、自分自身に拘っているところに、堂々巡りを繰り返す私たちの問題の本質があるからです。ですから、もしかしたら、イエス様のここでの求めは、本当は難しいことではないのかもしれません。いや、難しいことではなく、本来は難しくないことを私たちが、難しくしてしまっている。実のところは、そういうところなのではないかと思います。また、そうであるからこそ、イエス様の声のする方に向きを変えて、真っ正面から、イエス様のその思いを受け止める必要がある。イエス様の愛を真っ正面から受け止める必要があるのです。

 ですから、そのためにも、私たちは、イエス様の声の良く通るところ、イエス様のお顔をしっかりと見ることのできる場所に身を置く必要があるのですが、では、私たちが、神様の愛を一番感じることのできる場所とはどこなのでしょうか。それは、今私たちがこうして集められている教会、もっと言うならば、イエス様と共に、神様と直接相対することの赦されている礼拝の時、礼拝の場、これこそが、私たちが神様の愛を最も深く、強く、はっきりと知ることのできる場所だということです。ですから、そういう意味で、私たちは、間違いなく神様の愛を知っているわけです。ただ、知りながらも、その具体的なイメージがつかめずにいる。イエス様と同じところに生かされながらも、そのイメージがわいてこない。そのために、堂々巡りを繰り返すことになる。それが、私たちであるということです。

 愛するということは、抽象的なものの見方、考え方などではなく、具体的なものです。だから、当然、愛の置かれているところには、具体的なイメージが伴うことになります。ただ、具体的なものは一つだけではなく、しかも、人それぞれ、その感じ方、受け止め方も同じではないため、ヨセフの家族のように、赦し合えない状況がそこで生まれることにもなります。それゆえ、このイメージの違いは擦り合わされなければならないのですが、ただ、思いの深さ、その拘りゆえに、問題が入り組み、直ぐに解決が与えられるものではありません。そこで、待つことのできない者は、性急に答えを探そうとして、ヨセフの兄弟、家族のように、大きな過ちを犯すことにもなるのでしょう。ですから、赦しを見失った関係性において現される愛は、細く、歪んだものとなり、そのためにまた、愛したい、愛されたいとの思いにしがみつこうとして、ヨセフの家族のように絶望を深めることにもなるのです。しかし、御言葉が明らかにし、また、イエス様の無理難題とも思える要求が明らかにするように、赦し合うことのできない関係性の中にあっても、私たちの足下にしっかりと置かれているのが、神様の愛であり、イエス様の愛なのです。そして、それと同じことを、以前、ある老夫婦の仲むつまじい古い写真を拝見し、私は、その中に感じたということがありました。

 ヨセフとその兄弟たちとが和解へと導かれ、本来あるべき家族の姿を取り戻すことが許されたのは、ヨセフが語るように、神様を信じる人々、神の民全員の命を、神様ご自身が支え、その命を命として輝かそうとされているからです。今申しました写真に映し出された老夫婦も、愛と赦しを求めつつも、その願いが叶えられず、深い絶望を幾度となく経験されるものでした。けれども、神様は、そこで何もないままに終わらせるのではなく、夫婦が夫婦として、家族が家族として歩み続ける道を備えてくださるのが私たちの神様であり、その私たちを導くべく寄り添ってくださっているのがイエス様というお方であるのです。そして、私たちがこのことを必ずや知ることになるのは、神様とイエス様に伴われ辿り着くその先が天の御国と、そう決まっているからです。

 従って、私たちがそのような関わりの中に生かされている以上、煮え切らず、堂々巡りを繰り返すことは、やはり赦されることではないのかもしれません。しかし、その関わりの中に置かれ、私たちがそれでも歩み続けるからこそ、神様とイエス様の愛と赦しを我がこととして経験し、ヨセフの家族がそうであったように、必ずや、神様の愛と赦しを具体的にイメージすることになるのです。私が心引かれた、穏やかで仲むつまじい老夫婦の写真が、このことを具体的に現してくれていたように思いますし、また、それが、愛と赦しを身に負い生きる教会に生きる者の姿であるようにも思うのです。ですから、赦す赦さないというところに囚われるのではなく、イエス様ゆえに神様の赦しに生かされていることに感謝し、そのイエス様を思い起こしつつ、一巡りの新しい歩みを進めて参りたいと思います。

祈り





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