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世界聖餐日・世界宣教の日礼拝
 説教 「先の者が後になり、後の者が先になる」

日本基督教団藤沢教会 2017年10月1日

【旧約聖書】出エジプト記     20章  1~17節
【新約聖書】マタイによる福音書  19章13~30節

「先の者が後になり、後の者が先になる」(要旨)
 私たち藤沢教会の属する日本基督教団行事暦では、本日、10月の第一主日を世界聖餐日と定め、時を同じくして世界中の教会と礼拝を献げ、主の聖餐に与るものであります。そして、この世界聖餐日が始まったのは、1936年、アメリカでのことで、また、日本に伝えられたのは、敗戦直後の1945年でありました。以来、破れ多く、一致とはほど遠い世にあって、主にある一致を覚え、世界中の教会と共に、この世界聖餐日の礼拝は守り続けられてきたのです。それゆえ、この日の礼拝を通し、私たちは、礼拝の豊かさと信仰の豊かさとを世界中の教会と共に分かち合うものなのですが、それは、「分かち合い」こそが、キリスト教信仰における最も本質的な事柄だと言えるからです。ですから、私たちが、イエス・キリストの恵みの分かち合いを通し、世界を見て行くとき、世界は、神様の救いの外にあるのではなく、内にあることが分かります。そして、今日の御言葉の中で、イエス様ご自身が仰っていることもこのことについてなのです。

 イエス様が、「子どもたちを来させなさい。私のところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである」と仰るように、当時のものの見方からすれば、物の数にも数えられない子供という存在をも積極的に招かれたのがイエス様というお方でありました。それは、分かち合いを前提とする信仰の豊かさというものが、物事を弁えた大人だけの専有物ではなく、すべての人々に開かれたものだからです。しかし、そうであるにもかかわらず、私たちには、そうは思えないことがある。分かち合いを前提とした信仰の豊かさを喜べない。富める青年の姿が、そんな私たちの別の一面を現しもするのです。それは、私たちの目に映るところは、豊かな信仰の世界だけではないからです。

 私たちの目には、諸々のこの世の事情が映り、そのために、私たちの気持ちも様々揺れ動くこととなります。そしてまた、そこから御言葉に聞いていこうとするために、「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と、イエス様がこう仰るような事態を自らに招いてしまうのです。それゆえ、その影響は、一つのところだけに留まるものではありません。一度芽生えた御言葉に対する感覚的なズレは、他のものにも影響を与え、私たちに躓きをもたらすることになります。そして、その結果、私たちは、信仰の豊かさそのものに躓きを覚えることになるのです。

 ただ、それについては、誰も責めることはできません。なぜなら、目に映るこの世の現実は、豊かさとはほど遠い場合が多いからです。それゆえ、その延長線上で信仰の豊かさを捉えるために、私たちの分かち合いの前提が個々の心の中で崩れ、持てる者と持たざる者との違いのように、信仰の豊かさをも分けて捉えるようになるのです。そして、誠実で真面目な者ほど、豊かであることに恥ずかしさを覚え、また、自信のない者は、羨ましく思ったりと、豊かであることがまるでいけないこと、恥ずかしいことのように感じるようになるのです。

 そこで、そうした感覚のズレに気づいた人は、我先に正さなければと思うのでしょう。けれども、前のめりな言葉によって、人の気持ちが変えられることはありません。ですから、その難しさを知っている人は、面倒なことから自分を守るために、距離を置き、やり過ごそうとします。ただ、分かち合うことを忘れたそのようなあり方は、それがどんなに正しくても、どれほど共感できたとしても、それで、御言葉の伝える豊かさが、さらに豊かにされることはありません。なぜなら、分かち合うことを忘れ、分かち合うことを避け、結果、その手に残るものは、豊かさとはほど遠いものだからです。ですから、結局は、信じていても、信じたって、と、同じように豊かさに躓くことになるのです。けれども、また、そうであるからこそ、御言葉はここで弟子たちに「一体、誰が救われるのか」とイエス様に質問を投げかけさせるのです。

 イエス様のお言葉に対するこの弟子たちの反応は、理屈に合いません。イエス様が金持ちをやり玉に挙げているわけですから、すべてを投げ捨ててイエス様に従った弟子たちは、良かったと単純に喜べばいいのです。けれども、それを聞いた弟子たちは、「それでは、誰が救われるのだろうか」と、まったく正反対の反応を示すのです。これは一体どういうことなのでしょうか。

 神様から多くの祝福を受けるということは、多くの恵み、多くの賜物を与えられ、結果、必ず豊かになるということです。ですから、この富める青年が神様から多くの祝福を受けていたのは間違いありません。けれども、同時代の人々と比べ、多くを与えられたこの青年は、与えられた豊かさを豊かなものだとは考えていなかったのです。永遠の命を手にするためには、どんな善いことをすればいいのかとの問いかけが、そのことを現しています。けれども、イエス様は、感覚的にズレたこの青年を門前払いすることもなく、もの数にも数えられない幼子と同じように受け入れ、その悩みを聞き、丁寧にアドバイスを与えるのです。しかし、イエス様のその思いは伝わらず、この青年は、悲しみの中にイエス様を後にすることになったのですが、それは、イエス様が、御言葉を持ち出し、この青年の悩みをはぐらかしたからではありません。むしろ、その悩みをよく理解していたからこそ、イエス様は、自由と尊厳を保証する十戒の徹底的な遵守をこの青年に求めたのです。ところが、完全なる解放をなお執拗に求めるこの青年にとって、イエス様の答えは、実行不可能なことのように思えたのです。

 ところで、そもそも十戒とはいかなるものなのか。神の民に十戒を与えるに際し、神様はこう仰いました。「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」とあるように、十戒という神様の御言葉の内に生かされている者は、神様の導きによって、一切の束縛から解放され、その自由と尊厳が守られているのです。だから、すべてを手放すことができるし、手放していい。ただし、それは、手放せば、この世において、もっといい何かを手にすることができるということではありません。神様の言葉を信じ、その言葉の示すところに留まるということはつまり、言葉の内に留まる者には、すべてが与えられ、守られるということです。まただから、私たちは、神様の恵みを分かち合えるし、また、分かち合えばこそ、ますます豊かにされていくのです。自由と尊厳をもって、与えられた命を生きるために、だから、御言葉の内に留まることを、イエス様は、この青年に求められたのです。

 ところが、神様の祝福という点で先頭を走るこの青年は、イエス様のお言葉を受け入れることができなかったわけです。では、御言葉が私たちに伝えたいことは、イエス様のお言葉に飛び込むこのできなかったこの若者が、残念なことに、信仰の豊かさからはみ出ることになったということなのか。もしそうであるなら、イエス様の仰る「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」というこの御言葉は、教訓的な響きをもって人々に聞かれることになります。そして、信仰の豊かさが、神様の御言葉の内に置かれてこそのものであることを考えると、そう理解することが、ある意味で正しいことなのでしょう。けれども、そこで、一つ疑問が湧いてきます。では、イエス様のお言葉に聞いて、すぐに従えない者は、救いようもないほどダメな人間なのかということです。

 信じつつも、御言葉に従い得ない自らを見つめるのはとても辛く悲しいことです。この青年は、そんな一人でありましたが、ただ、この悲しみについては、罪ある私たちにもよく分かることです。そして、それはまた、人間の自由と尊厳が深く傷ついた大戦下、信仰の豊かさからはほど遠い現実の中で、世界聖餐日礼拝を守り続けた人々も同じようにこの悲しみを味わったに違いありません。けれども、戦時下世界聖餐日を守り続けた人々、イエス様を信じる人々は、それでも信仰の豊かさを信じ、この豊かさを分かち合うことを止めなかったのです。そして、それは、強いられてのことではありません。彼らがそれでもというところに立ち得たのは、十戒が示すように、神様の言葉によって、その自由と尊厳が守られていたからであり、つまり、信仰の豊かさとは、待つことのできる豊かさであり、分かち合えばこその豊かさでもあるということです。

 このことはつまり、イエス様の御前から悲しみつつ立ち去ることになっても、私たちの信仰は、豊かであるがゆえに、そこから始めることができるということです。だから、悲しみつつ立ち去ったとしても、再びイエス様の御前へと集められ、イエス様の命を分かち合いを通して、私たちの命は保たれ、その交わりもまた、築かれていくのです。ただ、この交わりは、まだ完成したわけではありません。そのために、私たちは、「誰が後で、誰が先か」が気になって仕方ないのですが、誰が後でも先でも、それは、どちらでもいいのです。なぜなら、イエス様が私たちのことを待ってくださっている以上、悲しむ者の悲しみは必ず喜びへと変えられることになるからです。

 ただ、イエス様がこのように言っても、この富める青年のように、どうしても納得の行かない人はいることでしょう。しかし、それでも、私たちは、イエス様の待つ天の御国へと進み行くことができるのです。なぜなら、地上を離れ、私たちが天の御国へと向かうとき、私たち全員は、家、血を分けた兄弟姉妹、父母、子供、畑などの財産の一切、地位や名誉など、私たちが拘りを捨て去ることのできずにいるもの一切を後に残して、天の御国へと向かわねばならないからです。だから、後でも先でもどちらでもいいということになるのですが、けれども、その時、一つだけはっきりと分かっていなければならないことがあります。どこに行くかに加えて、自分がどこに生かされてきたのかということです。つまり、自分は、神様の御言葉の内側にあるのだということです。後でも先でもどちらでもいいのは、私たちが御言葉の内に置かれているからであり、そこで信仰の豊かさを分かち合い、神の家族として歩みを共に続ければこそ、恵みを恵みとして分かち合い、神の家族である幸いを味わい知ることになるのです。神の家族としての歩みを喜びの中に続ける私たちでありたいと思います。

祈り





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