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神学校日礼拝 説教 「天国勤めの雇い銭」

日本基督教団藤沢教会 2017年10月8日


説教:狩野進之佑神学生
    (東京神学大学 大学院1年生)
【旧約聖書】コヘレトの言葉 3章1~8節
【新約聖書】マタイによる福音書 20章1~16節

「天国勤めの雇い銭」(要旨)
 夕暮れのブドウ園、賃金を受け取る前の、最後の一時間、それはどれほど騒がしく、どれだけ色々な人がごった返していたのかと思います。朝から夕方に至るまで、このブドウ園の主人が集めた人々の中には、ブドウ園で働くのに適していた人々だけではなかったでしょう。普通一日の労働の契約を結ぶならば、早朝にするものです。このブドウ園の主人が初めにしたように、夜明けの時間に労働者との仕事の契約を結びます。9時に未だ広場で仕事を探している人々は、もうほとんど、その日は仕事につけないものだと思っていた人だったでしょう。12時、3時の人たちは、よっぽどの急用でもない限り、もう一日の働きの見込みはなかったでしょう。5時まで残っていた人たちは、失意のうちに帰り支度を始めざるを得なかったでしょう。ほかの雇い主が雇おうと思わないような人々がそこにはいました。多くの雇い主たちが、この人は仕事に適さない、たとえ雇ったとしても十分に働けない、この人に報酬を払うのはどう考えても金の無駄だと当然判断されるような人々が居たでしょう。今にも倒れそうな枯れ木のような人が、見て分かるような怪我を負っている人が、働きに適さないほど老いた人や小さい子供が含まれていたことでしょう。このブドウ園の主人は、たとえそういう誰からも必要とされないような人さえも、彼らが働きたいと願う限り、相応しい賃金を払うから、自分のブドウ園へ来るようにと言います。あるいは朝にやとわれた人達もまたそういう人たちであったかもしれません。たまたま雇われたのは早朝だったけれども、全く人から見れば能力のない人たちもまた、この主人のことですから、やとわれていたのかもしれません。ブドウ園は初めから変わった仕事場だったでしょう。素晴らしい働き手が居て、その一方でほとんどさぼっているように映る人が居る。てきぱきと仕事をこなす人が居て、一方どんくさい人が居る。もくもくと手を動かしている人とひたすら誰かとしゃべっているような人。払う賃金は同じだから、出来るだけ働ける人を雇う、というのはこの主人の眼中にないように見えます。最後の一時間となれば、ブドウ園はおよそ仕事場とは思えないような場所であったことは想像に難くありません。老若男女問わず、仕事に対する適正を問わず、とにかくこのブドウ園の主人に集められた人々の群れです 。そこはもはや仕事場とは思えない奇妙な人々の集まりとなっていたでしょう。

 この最後の一時間、夕方にやってきた人たちは当然一時間と働けなかったでしょうし、中にはどう働けばいいものか分からないまま、右往左往して一日を終えた人々さえもいたでしょう。そうした混乱の後、夕方6時になったころ賃金の支払いが始まります。まず5時にやとわれた人々が人々の前で1デナリの賃金を受けます。働けたのかさえ定かでない人たちが、本来一日中暑い中働いて貰うような賃金を受けたのです。ほかの働いていた人々はそれを見て、当然期待したでしょう。しかし、3時ごろに働き始めた人々が受け取るのも、また1デナリでした。もちろんそれでも3時間しか働いていないにしては破格の対応ですから、若干期待外れとは言えど納得して出ていかざるを得ないでしょう。12時頃に働き始めた人々は、期待半分、あきらめ半分で受け取ったかもしれません。9時から働いていた人々は不満はあっても、もうほとんどあきらめがついていたかもしれません。最後に最初からやとわれていた人々が1デナリしか受け取れないことを知ると、彼らは不満を露にします。「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。丸一日、篤い中を辛抱して働いた私たちと、この連中とを同じ扱いにするとは」それに対して主人は答えます。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと1デナリの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」

 この物語を聞いて、私たちは色々と思うことだと思います。最初にやとわれた人達の主張をもっともだと思う方が当然居ると思いますし、主人の言うことをもっともだと思いつつ、腑に落ちない方が居るでしょう。賃金を同じにするにしても、もっと賢いやり方があったのではないか、そう思う方がいらっしゃるでしょうし、あるいはこの主人を本当に哀れみ深い、恵み深い人だと思う方がいらっしゃるでしょう。しかし、わたし達の側の様々な思いと関わらず、この物語は私たちにとって、大事なことです。ただ聖書に書いてあるからというだけではありません。私たちは教会に居る以上同じことを経験し得るし、このことを絶対に避けては通れない出来事として、経験しなければならない時が来るからです。主イエスはこの話を「天の国は次のように喩えられる」と言って話始められました。このブドウ園の出来事が起こるのは私たちが真っ先に思い浮かべるように天国の話です。そして、天国の一部、神様の支配なさっているこの教会で起こることです。教会が天の国の王子であります主イエスと共に歩み、このお方を教会の頭とする限り、天の国のたとえ話は、教会のたとえ話でもあるでしょう。そう考えるとき、教会と言う場所は、神様から様々な働きを頂く仕事場でありつつ、しかし仕事場と言うにはとても奇妙な場所です。奉仕をする力にあふれる人も、特別な奉仕が出来る人も、そういうことが出来ない人も、ここでただ主に集められたというだけの私たちは、それぞれの力をもってこの主なる神様の支配地、所有地である教会において働くことになります。

 これが教会の例えでもある限り、わたし達はこのたとえの中に自分を登場させて聞くことが出来るものと思います。例えば私は教会付属の幼稚園で初めてキリスト教に触れて、高校生のころ洗礼をうけ、卒業後に献身の道を歩み始めたものです。例えの中では早朝に働き始めた人といえるかもしれません。と言っても私の年齢では実のところまだ働いて数時間と言ったところでもありましょうが。だからこそ、今の私にはまだこのぶどう園の主人から、謙遜に受け取ることが出来るかもしれません。けれども、働くうちにいつかそれが出来なくなるかもしれません。私がこの物語に登場する一人として、この言葉に聞くとき、天の国において謙遜に受け取ることが出来るように、と招かれていると感じます。みなさんもそれぞれにこの主のぶどう園である教会に招かれたものとして、それぞれ自分をいつ呼ばれたものか、自分はこのぶどう園の中でどういう働き手であるのか、そして、そういう自分たちが、自分より働いている人も、そうでない人も、同じ賃金を受けることに聞くことが出来るかとおもいます。

 主はそのように、わたし達教会に生きる一人一人に、全く変わらない報いを与えることを教えてくれます。それからわたし達が、そういう報酬の与え方に対して、きちんと心づもりする必要があることも教えています。こうして例えから分かることの一方で、やはりこの話は本当には天の国につかないと分からないことを、少しでも分かるようになるための譬え話です。譬え話ですから、本当に起こることをすべて言い表しているものではありません。わたし達が頂くことになる賃金は、当然たとえ通りの1デナリではないでしょう。わたし達に与えられる報酬について、もう少し具体的に言われているのが、この譬えの直前で主イエスが弟子たちに語られたことです。主イエスは使徒たちにこう言いました。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、私に従ってきたのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を納めることになる。私の名の為に、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てたものはみな、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ」この言葉は使徒たちに向けて語られました。しかし、これには一つの但し書きが付いています。「しかし、先に居る多くの者が後になり、後に居る多くの者が先になる」使徒とは、まさしくブドウ園で働く最初の者であったと言えると思います。それも、すべてを捨てて主に従い、後には主の為に命を捨てることになる弟子たちです。この使徒たちはしかし、特別で 例外的に、私たち以上の報酬を受けるわけではありません。私たちがむしろ抗議したくなることですが、この人々もまた、私たちと同じものを主から頂くのです。使徒たちが十二部族の頭として、十二の座につく、それと同じような栄光をわたし達は受けます。弟子たちは主イエスを信じたことで、周囲の人々に、特に自分の同胞でもあるユダヤ人にも蔑まれ、命を狙われるようにさえなります。けれども、天の国が来たときには、もはや誰にも蔑まれない栄光を受けます。同じように、その時にはわたし達は誰かから蔑まれたり、馬鹿にされたり、軽んじられることがなくなります。そういう栄光を主から頂くのです。わたし達がわたし達自身を嫌になったり、絶望したり、消え去ってしまいたくなる、そういうところから、栄光の体へと変えられることになります。彼らがすべてを捨てて受けるような100倍のものを、わたし達はあるいは捨てずして、同じように手に入れます。彼らと同じく、御子主イエス・キリストより、永遠の命を頂きます。

 教会の主人である神様は、このような大きなものを、まるで当然かのように、わたし達のためにも備えて準備してくださっています。全く当然でもないのにです。「あなたたちもブドウ園へ行きなさい。相応しい賃金を払ってやろう。」改めて、この言葉は驚くべきことだと感じます。どこが相応しいのでしょうか。私たちの働きに、どんな相応しさがあって、私たちはこれだけのものが受けられるのでしょう。私たちは私たちにふさわしくない報酬を受けるのです。主イエスが、神の御子が命を捨ててまで得たものを、私たちが受け取るのです。

 相応しくないものを受け取る。思えばそれはぶどう園の働き手もそうです。働き手として彼らを考えるならば、全く相応しくない賃金の支払い方を主人はします。この支払い方、与え方は、むしろ子供に対してするような与え方ではないでしょうか。我が子に対して非常に甘い親のように、わたし達の小さなお手伝いに対して、最大のものを準備するのです。兄弟姉妹の中で働きの差はあれども、同じようにその報酬を準備するのです。わたし達の教会にはその働きにおいて全くかなわないような、使徒たちや、尊敬する教会の人々というような兄と姉がいます。しかしそのように働きの多さは違えども、力の無い妹や弟でありますわたし達にも、同じように最高のものを準備して主は待っておられます。そしてこうおっしゃって下さるのです。「この最後のものたちにも、あなたたちと同じようにしてやりたいのだ」

祈り





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