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聖霊降臨節第20主日礼拝 説教 「契約の箱を担ぎなさい」

日本基督教団藤沢教会 2017年10月15日

【旧約聖書】ヨシュア記       6章  1~21節
【新約聖書】マタイによる福音書 21章18~32節

「契約の箱を担ぎなさい」(要旨)
 神様の呼びかけに進んで応えればこそ、私たちの神様の御前にある生は、より確かなものとされて行く、今日のそれぞれの御言葉が教えてくれているのはこのことです。それは、その時、私たちが、神様の、神様らしく振る舞う様を知らされるからで、神様が私たちと共にいてくださるということは、つまりはそういうことでもあるからです。従って、約束の地へと進み行くイスラエルの民の一糸乱れぬ行動は、神様らしく振る舞う神様が共にいてくださっているからであり、また、それに伴う一体感と高揚感は、その信仰ゆえに与えられるものでもあるのです。私たちが、声をそろえ、神様を讃美するということはそういうことであり、ですから、私たちの信仰は、当然、心地良さを伴うものでもあります。ですから、神様がそのように備えてくださっているわけですから、イエス様の仰ることも、基本的にこの線に沿って理解していいことなのだと思います。つまり、今日、イエス様が私たちに語りかけてくださっていることも、基本的には、神様に従う人々の一体感を高め、心地良さへと導くために語られているものだということです。

 ただし、それは、人に強制されるものではありません。信仰ゆえの豊かさを、私たちが分かち合ってこそのものであり、一人一人が気持ちよくなって終わるものではありません。心地良さは、分かち合うところに置かれているのであり、ですから、この喜びをより大勢の人々と分かち合うためにも、私たちは、信仰に生きる喜びをもっともっと感じるべきなのです。しかし、そうであるからこそまた思うのです。分かち合うということは、言葉にするのは簡単ですが、相手がある以上、そう簡単なことではありません。ましてや、いくら“べき論”を語ったところで意味はありません。従って、分かち合うには、結論に至るプロセスを共にする必要があるのですが、しかし、今日のそれぞれの御言葉については、その点が一番厄介でもあるわけです。なぜなら、その言葉だけを見るならば、喜びを分かち合う以前に、誰もが神様とイエス様に躓きを覚えてしまうものでもあるからです。

 神様がイスラエルの人々をしてなさったことは、エリコの町の人々にとっては、許しがたいことだったでしょう。それこそ、神様の愛の言葉でもある十戒をすべて反故にすることに等しいものなのだと思います。しかも、それを堂々と御言葉は語っているわけですから、他者への配慮を欠いたそうした振る舞いは、独りよがりとの誹りを免れないことにもなるのでしょう。そして、それは、イエス様についても同じです。お腹がすき、イチジクの木に実がないからといって、八つ当たりするような真似をするとは、それこそ愛に生きたイエス様らしからぬ振る舞いだと言えるからです。ですから、それをどう人に説明し、分かってもらえばいいのか。分かち合う、分かち合うと口にするのはいいのですが、分かち合う以前に、恐らく、口にしてはもらえないでしょうし、仮に口にしてもらっても、はき出されるのが落ちなのではないでしょうか。ですから、分かち合えない状況を作っているのは、御言葉自身であるとも言えると思います。

 そして、そこで、さらに困るのは、入り口のところでのそうした躓きが、聖書に不馴れな人々を、聖書の御言葉が指し示す方向とは、まったく正反対の方向へ向かわせてしまうことです。宗教が恐い、一神教は恐いと、まるで他者感覚の欠如したカルトと同じようにキリスト教信仰を見なし、本来、他者感覚を養うはずの宗教そのものを忌避する態度を示すようになり、そして、私は、ここが一番問題だと感じているのですが、恐い恐いだけで、宗教的経験の薄い子どもたちなどは、宗教的に未成熟であるため、他者感覚を欠いたグロテスクさに気がつかないまま、カルトに取り込まれてしまう事例が後を絶たないということです。ですから、そういうことが起こらないためにも、私たち教会が、他者感覚を持って、きちんと社会の目に触れているということが大事ですし、また、私たちが他者感覚に磨きを掛ける意味でも、私たちの立場からすると不都合とも思えるところにも目を塞ぐのではなく、整理して受け止め、その上で自らの信仰をきちんと形に表す努力を重ねていくことが大切なのです。

 そこで、御言葉に聞いてみると、私たちは、あることに気がつかされます。神様がイスラエルに約束された乳と蜜の流れる地、カナンにイスラエルを導くに際し、ヨシュアに向かって「あなた」と呼びかけていることです。このことはつまり、このことゆえに、私たちもまた、神様に向かって、「あなた」と呼びかけることができるということです。ディック・ミネの「若い二人」ではありませんが、「あなたと呼びかけ、あなたと応える」、人格関係と呼ばれるものが神様との間に成立しているがゆえに、私たちは、そこで「正常な」他者感覚を身につけることができるのです。 ですから、ここで最も大切なことは、神様が、私たち信じる者に向かって、「あなた」と呼びかけて下さっているということであり、それがあるがゆえに、私たちと共にいます神様は、私たちに対し、神様らしく振る舞って下さるわけです。そして、それは、イエス様も同じです。従って、多くの人々が躓きを覚えるものは、それぞれ「らしくない」ものではなく、神様らしさ、イエス様らしさを現しているということです。そして、そこで大事なことは、私たちの躓きの原因となる、この神様らしさ、イエス様らしさを、御言葉が隠そうとはしていないということです。それは、私たちの信仰において、分かることも大事なのですが、もっと大事なことは、分からないという、この気持ちと私たちがしっかりと向き合うことだからです。

 カルトと呼ばれる、おおよそ宗教と呼ぶことのできないものは、自分たちにとって不都合な、この「分からない」との思いを殊の外排除しようとします。従って、その正しさしか主張しない教えは、独りよがりなものとならざるを得ません。ただ、私たちが、そうした危険性とまったく無関係であるかというとそうではありません。私たちが自分の外と接しているという感覚を持とうともせず、「私」だけに拘るなら、実態はカルトとは違ったとしても、社会からしたら、カルトと何が違うのか分からなくなるからです。そして、実際に、そう見なされている教会は、少なくないように思います。ですから、私たちがこうして御言葉に聞いていると言うのなら、分かることも大事なのですが、分からないという気持ちを大事にし、それに対し自覚的であることが必要なのだと思います。

 それは、私たちが、闇雲に「分からない、分からない」を繰り返すことではありません。「分からない」そのとき、私たちが立ち帰るべき場所は、イエス様のところであり、イエス様を通し、神様と出会い続けるのが私たちだということです。しかし、神様もイエス様も、その度に私たちが喜ぶような気の利いた答えを与えてはくださいません。むしろ、多くは何も答えていただけない、そう思うものなのだと思います。それは、分からないことの原因が、往々にして私たち自身にあるからで、自分に都合のいいところだけはしっかりと握りしめ、不都合なものだけを何とかしていただきたいと願うのが私たちだからです。つまり、自分自身のことだけに拘り、相手のことを見ようともしないことが多いということです。ですから、私たちが「分からない」と感じるのは、神様とイエス様がそれぞれ「らしく」振る舞っているからであり、それゆえ、私たちが、「分からない」との気持ちを手放さず、「あなた」と呼びかける方にその心を解き放つなら、そこで必ず神様とイエス様と共にあることに喜びを覚えることになるのです。二人の息子の譬えが、そのことの具体的有様を伝えてくれているように思います。

 父の権威を少し甘く見ながらも、結果従った兄とその権威を認めつつも従わなかった弟とが対比されていますが、ただ、兄も弟も、父親が何を意図して、そのような命令を発したかまでは分かってはおりません。それゆえ、この兄への評価は、従ったという事実だけに向けられていることは明らかなのですが、では、兄はどうして従ったのか。「お前たち」と呼びかける父親との関係性を、兄は無視することができなかったからです。従って、そこから分かることは、分かるか分からないは、二の次であるということです。また、分からない中で従うからこそ、父の真意は、従う内に自ずと知らされることにもなるのです。そして、そのような神様との関係性に置かれているのは、兄だけではなく、弟も同じです。つまり、すでに神様との関係性に生きているのがこの兄弟なのであり、それゆえ、従わないからといって、弟は、その関係性の外に追いやられることはありません。兄と弟が同等に扱われていることから、それは明らかです。

 私たちは自覚的信仰ということをよく口にしますが、そこで自覚すべきは、神様とイエス様とが、それぞれふさわしく私たちと関わってくださっているということです。そして、その私たちは、神様とイエス様のことを「あなた」と呼びかけることが許されているわけで、今がまさにその時でもあるということです。だから、私たちは、神様の御心がどこにあるかが分からずとも、そのお言葉に従うことができ、また、従えばこそ、必ず御心は明らかにされるのです。ですから、そのためには、自分だけの思いに拘り、籠もるのではなく、神様に向かって、自分自身の心を開く必要があります。渋々でも何でもいい、分かっても分からなくてもいいのです。イエス様と共に神様とのふさわしい関係性は、すでに始まっているわけですから、そうである以上、私たちと必ずふさわしく関わってくださるのが神様であり、イエス様なのです。ですから、「分からない」ことを神様に従わないための言い訳とする必要はありません。神様に「あなた」と呼びかけられた徴税人、娼婦、罪人らが、神様とイエス様と共に歩み、教会のその輝かしい歴史は築かれてきたわけですから、私たちもその同じ歴史を歩んでいるわけですから、そこに身を置く限り、私たちのその口には讃美が、その心には、喜びと感謝が自ずとわいてくることになるのです。

祈り





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