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聖霊降臨節第21主日礼拝 説教 「聞け、そして、知れ」

日本基督教団藤沢教会 2017年10月22日

【旧約聖書】イザヤ書      33章17~22節
【新約聖書】マタイによる福音書 25章  1~13節

「聞け、そして、知れ」(要旨)
 教会と私たちの関係性を一言で言い表すとしたら、皆さんはどんな言葉を選ばれるでしょうか。通り一遍のことを語るのが聖書の御言葉ではない以上、そこには、皆さんそれぞれの経験とその思いが色濃く反映されることと思います。ただ、皆さんの思いや考えを一つにまとめ、御言葉が語るところを申し上げるなら、それは、「喜びと感謝」、この一言に尽きるということです。そして、この「十人の乙女の譬え話」において、イエス様が仰っていることの中心にあることも、この「喜びと感謝」であるということです。

 四世紀頃のあるカタコンベのフレスコ画には、この十人の乙女の譬え話がその題材として描かれているとのことですが、それは、当時の人々がキリストの再臨を喜びと感謝をもって受け止めていたからです。人々にとって、死は終わりではなく、キリストとの再会が約束されている時でもあるからです。それゆえ、葬儀の際など、私が常に思い起こさせられることも、主にあって一つとされている、この喜びと感謝なのです。なぜなら、それが、私たちの向かうべき将来であるからです。ですから、そのカタコンベに描かれたフレスコ画は、このような信仰理解、死に対する認識に基づいてのことだと言えるのでしょう。ただし、そこで表現されていることは、単に人間の理解、認識のレベルに留まるものではありません。そのように当時の人々が受け止めたのは、この将来起こりうることについて、人々がそのことを自らのこととして経験していたということであり、そして、それを具体的なこととして語り続けてきたのが、私たちがこうして集う主の教会であるということです。従って、今日の御言葉は、こうして教会に集う私たちも、同じように自らの経験として語ることのできるものであり、それゆえ、私たちもまた、私たちすべてに等しく与えられている「終わり」ということを強く意識し、イエス様が仰るように、目を覚ましていなければならないのです。

 このイエス様の言葉に従い、目を覚ましてさえいれば、私たち全員が、時来たれば、必ず天の御国への凱旋を果たすことになるのです。ですから、そういう意味で、「喜びと感謝」は、私たちのすぐ近くにあるのです。そして、その私たちが、こうして礼拝を献げ、今、ここで、イエス様と出会っているわけですが、主イエスと出会い、主の安息に与りつつ、「目を覚ましていなさい」とのイエス様のみ声に聞いているのであり、つまり、私たちは、目覚めた者として、イエス様の御前にこうして置かれているということです。 牧師の御言葉の説き明かしを通し、主の安息に与る者が、礼拝において日頃のストレスから解放され、そこで「至福の時」を味わい、時折、こっくりこっくりするのは、それゆえのことであり、まただからこそ、聖書の御言葉は、居眠りしてしまうことついて、ここで否定的な態度を示しはしないのです。

 5節に「花婿の来るのが遅れたので、皆眠気が差して眠り込んでしまった」と記されておりますが、睡魔に襲われたのは、賢い乙女も愚かな乙女も皆同じでありました。従って、賢い乙女らが花婿を迎えることになったのは、痛々しい努力の甲斐あってのことではありません。賢かろうが、愚かであろうが、同じように人としての弱さを持っているのが私たちである以上、強靱な肉体と精神の所有によって、天の御国の扉が開かれるわけではないからです。 それゆえ、イエス様の「目を覚ましていなさい」との勧告は、睡魔と戦うことを意図して語られたものでないのは明らかです。イエス様と出会っているという現実とその出会いの場に生かされているという事実、このことを自らのこととして経験することが、「目を覚ましている」ということであり、それゆえ、この経験に立てばこそ、私たちは、終わりの日に備えつつ、その日を待ち望むことができるのです。

 このように、イエス様の「目を覚ましていなさい」との勧告は、コーヒーをがぶがぶ飲み、目の下にキンカンを塗って、コンパスの針で足を刺しながら、必死になって起きていなければならないということではありません。目を覚まし、終わりに備えつつその日を待ち望むということが、人間の力だけにおもねる、身体的苦痛を伴う修行として、そのことが奨励されているわけではないからです。しかし、だから、天に向かって口をポカンと開いてさえいればそれですまされるということでもありません。花婿を迎えるには、松明を灯し続ける必要があり、また、そのための油が求められるのです。ですから、そのために、私たちは、油を蓄えていなければならないのですが、そこで、この油が何なのかが問題になってくるわけです。そして、これについては、昔から信仰か、業かと様々な議論がなされてきたのですが、ただ、人々がそう考えるのには理由がありました。

 人間の気持ちというものは、実に不思議なところがあって、辛いことは嫌いなはずなのに、大きな目標、理想を追求する場合などには、大きく高い壁などがないと、返って不安を覚えたりもするものです。六根清浄と言って富士山に登り、また、手間暇かけて八十八ものお寺を巡ることに大きな価値を見出している人々が大勢いるように、困難の克服をその信仰的課題としているという点では、キリスト教も同じなのです。しかし、松明の灯火を絶やさないための燃料計が常に満タンを指していることを、イエス様が求めておられるわけではありません。神様が、私たちの力ではどうすることもできない恵みに与らせようとしているわけですから、恵みを恵みとしてそのまま喜びと感謝をもって受け取ることが、終わりに備えるということでもあるのです。

 ですから、それは、救われることに拘り、頑張らねばと思い、不安に駆られ、しゃかりきになって動き回ることではありません。私たちは、弱くはかない者です。その私たちを天の国へと導こうとして十字架につかれたのが、イエス・キリストというお方であったわけです。ですから、イエス様と出会った喜びと感謝の日々から始まるものが、私たちの信仰と業であるということです。 従って、イエス様と出会った喜びと感謝が、私たちをして、その日を待ち望む者とさせるのですが、ですから、私たちに求められていることは、そのために何をするかということなのです。そして、それは、自分の手で何かを握りしめようとすることではなく、手を開くということです。つまり、私たちの信仰とは、グーではなく、パーだということです。手を開き、空っぽのその手に神様の恵みを置いていただく。ボーとしていても、意識をはっきり保っていても、いずれにせよ、掌の上に神様が必要なものを必ず備えてくださるということ、そう信頼しつつ過ごすことが私たちの信仰なのです。ですから、賢い乙女と愚かな乙女の違いについては、この点から理解されるようにも思います。

 私たちの手は二つだけで、掌の上に置かれている油は、その手に乗るだけのものです。従って、それは、ごくごく僅かなものでもあるのですが、でも、それが、その日、松明を灯しつつその人が待ち望むための必要のすべてであるということです。イスラエルの人々が空腹を覚えたとき、神様がマナを降らせ、すべての人々の必要を満たしたように、それぞれの必要を満たすべく、すべてを掌に備えてくださるのが神様というお方でもあるのです。ただ、それには、手の中が空っぽでなければなりませんし、余計なものをぎゅっと握りしめているだけでは、その必要が満たされることはありません。神様に向かって、その手はいつも開かれていなければならず、喜びと感謝の日々は、その繰り返しの中で誰に対しても開かれているものなのです。そして、その機会は、賢い者にも愚かな者にも等しく与えられています。神様が、それぞれに安らかな眠り、休息の時を与えてくださったのは、そういうことだと思いますし、ですから、それは、私たちすべてに当てはめて考えることができるということです。イエス様の御前に集う私たちのすべてが、藤沢教会に集うすべての人々、私たちと関わるすべての人々は、すべて、主の安息、平安、祝福に与ることが許されているのです。ただ、それを待ち望み、終わりの日を迎えるためには、掌を開いて、天よりの恵みを日々喜びと感謝をもって受け止め続ける必要があるのです。

 神様は、終末に備えるための油を私たちがイエス様との再会を果たすに必要な分だけ、すべての人々に与えようとされています。ただ、終わりがいつなのかが分からない現状では、できる限り多く蓄えておきたい、握りしめていたいと、そう思うのが人情でもあるのでしょう。そのため、そこに誘惑が働き、もっともっととの思いに駆られ、その思いがまた、人をして手の中にいろいろなものをぎゅっと握りしめさせることにもなるのでしょう。そして、気がついたら、手の中には、松明を灯し続けるための油がまったくなかったということにもなるのです。愚かな乙女たちとはそのように不安に駆られた人々だと思いますが、ですから、イエス様との再会を、私たち自身が待ち望むためにも、すべての必要を満たしてくださる神様に信頼し、信仰の有り難さを身をもって経験することが必要なのです。それは、この経験を通し、私たちの内に蓄えられるものこそが、信仰の灯火を灯し続けるための油であり、つまり、それが、神様と共にあることの「喜び」であり、日々豊かな恵みを与えてくださる神様への「感謝」なのだと思います。

 婚宴の鐘は、まだ鳴らされたわけではなく、また、天の国の扉が、閉じられたわけでもありません。だから、私たちは焦る必要はまったくないのですが、ただ、その日を安らかな気持ちで迎えるためにも、私たちは、喜びと感謝の日々をこれからも歩み続ける必要があるのです。ですから、そのためには、掌を天に向かって開き、その日を迎えるための必要を満たしてくださる神様とイエス様を実際に経験する必要があるのです。そのイエス様と神様に信頼しつつ、日一日を過ごす私たちでありたいと思います。

祈り





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