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降誕前第9主日礼拝 説教 「破れの中で」

日本基督教団藤沢教会 2017年10月29日

【旧約聖書】創世記         2章4b~9、15~25節
【新約聖書】マルコによる福音書 10章2~12節

「破れの中で」(要旨)
 1517年10月31日、アウグスティヌス修道会の一修道士であったルターによって、95箇条に上る提題がヴィッテンベルク城教会の扉に掲げられ、「宗教改革」というこの大きなうねりによって、ヨーロッパ世界は二分されることになったのですが、しかし、それは、ヨーロッパ世界の中だけに留まるものではありませんでした。宗教改革と大航海時代とがちょうど重なったために、ローマ・カトリック教会は、宗教改革に対抗すべく世界宣教へと向かい、遠く日本にもキリスト教信仰がもたらされることになったのです。今年は、それから数えてちょうど500年の記念すべき年でもありますが、ただ、その盛り上がりは、いささか心許ないところがあるように思います。そのため、口の悪い人たちは、プロテスタント信仰の賞味期限が切れたなどと揶揄しているそうですが、さて、皆さんは、人からそう言われていることをどう受け止めるのでしょうか。私たちが、「プロテスタント」であることにアイデンティティーを感じているのであれば、売られたケンカは、受けて立つのが筋なのだろうと思います。ただ、私たちがいくらいきり立ったところで、それで何かが変わることはありません。宗教改革記念日は明後日であり、何よりも、もし盛り上がりに欠けているとしたら、それは、誰のせいでもない、私たち自身の問題だからです。

 従って、今目の前に置かれているものこそが、私たちがこれまで歩んできた「歴史と現実」そのものを現しているのであり、それゆえ、過去の成功体験にしがみつくようにこの現実から目をそらすことは間違いです。今のこの現実をしっかりと抱きしめ、破れの中に身を置くことが、今の私たちに求められていることだと言えるでしょう。なぜなら、「聖書のみ」、「信仰のみ」、「万人祭司」と言われる、これらプロテスタント信仰の三大原理は、破れの中にしっかりと身を置いてこそのものだからであり、破れの中に身を置く人々の手によって築かれたものが、プロテスタント教会500年の歴史でもあるからです。また、だから、今日のそれぞれの御言葉も、この原点に立つことを私たちに求めるのです。破れた中で、なお、失われることのない、十字架において示された神様の愛の中に留まることを求めるのです。そして、贖宥状を否定したルターの言いたかったことも、この点であったわけです。救われた者に与えられている、破れた中における破れることのない愛こそが、神様の命に生きる私たちを天の御国へと導くのであり、そして、それは、私たちの隣人をも、神様は、神様との交わりに招き、御言葉の分かち合いを通し、すべての命をその祝福の中に置かれようとされているのです。昨日も、そのような神様の業として、埋葬式が行われましたが、私たちの身近にある先達の方々は、そのことをまさに自らのこととして体験したからこそ、信仰へと導かれ、また、そのような人々が身近にいたからこそ、私たちもまた、神様の交わりに生きる者とされたのです。

 このように、「95箇条の提題」と言われているものは、ルターが破れの中に身を置くことによって示されたものであり、つまり、 ルターが打ち出した「信仰のみ」、「聖書のみ」、「万人祭司」というこれらの原理は、ルターのそのような日常の中から導き出されたものだということです。ですから、提題を掲げたときのルターの気持ちとしては、教理、教義などといった七面倒くさいことを言いたかったのではなく、もっと単純な話であったように思います。最初と最後の項目と贖宥状について記されている項目以外は、「鉄の括弧」と言われる最初と最後のところでは、自分自身が書いたとルター自らがはっきりと言い表し、その中で特に目立ったものが贖宥状、免罪符の事柄についてでありましたが、ただ、それ以外のことは、あっちこっちで耳にしたことであったり、その時の気持ちであったり、考えであったりと、ですから、ルターがその日常生活の中において感じたり、考えたりしたことをつらつらと記したものが、この95箇条の提題と言われているものなんだそうです。つまり、信仰原理、聖書原理、万人祭司制度などというと、何かすごいことを始めたというようにも思いますが、でも、始まりはもっと単純な、ルターの日常がその中に言い表されていたということです。

 ですから、そこで、私が重要だと思うことは、それがルターの個人的な見解だけではないということです。日常において触れ合う他者との関わり、あの人がこう言っていた、この人がこう言っていた、あの人が、この人がこうだった、そして、その中の一人として自分自身事柄と向き合っているのは、ルターの日常がそのようにして築かれていたということでもあるからです。そして、それが特に重要だと思うのは、私たちが原点回帰という場合の信仰の原点が、御言葉にこうして聞く私たちの日常と決してかけ離れたものでないことが分かるからです。このことはつまり、ルターのその背中を押したのは、そうした日常の中で語りかけられている御言葉、日常の中で与えられる多くの人々との出会い、日常を共にする数々の人々との暮らし、プロテスタント信仰の三つの原理は、そう言う中から導き出されたものであるということです。

 ですから、そうしたルターの日常を現す言葉がいくつか残されているのですが、少しご紹介しますと、「私がここに座って、うまいヴィッテンベルクのビールを飲む、するとひとりでに神の国がやってくる」、次に、「恋なき人生は死するに等しい。」と、私たちと変わらぬ日常をそこに見ることができます。ですので、それを思うと、プロテスタント信仰というものは、教条主義的に陥ったり、原理主義的に走ったりと、そういうものではないということです。日常生活にしっかりと根ざしたものでもあり、その中心に神様を見ることが許されているものだということです。

 ただ、日常というだけですと、世俗主義にどっぷりとつかりきることにもなりかねません。けれども、ルターが必死に守ろうとした日常とは、神様と共にある日々、御言葉に聞きつつ歩む毎日、主にある兄弟姉妹との愛のある暮らしでありました。ですから、当然、世俗的生活をいかに快適に維持するかだけにその焦点が置かれたわけではありません。欲得に駆られるだけの世俗主義の行く末がどんなものであったかは、ルター自身よく分かっていたからです。しかし、だからといって、意味のない犠牲を強いようとはしません。「酒は強く、王はもっと強く、女はそれよりさらに強く、けれども、真理は最も強い。」とのルターの言葉が残されておりますが、そんなルターであるからこそ、 主と共にある日常を肯定的に捉えることができたのでしょう。 そして、 このことをルターは聖書の御言葉と信仰より聞いたのですが、今日の御言葉を通し、私たちが聞いていることもこのことについてなのです。私たちの信仰は、教条主義的でもなく、原理主義的でもない、もちろん、世俗主義的でもないと、万人祭司として、聖書と信仰に生きる私たちの姿をイエス様の言葉をもって、私たちは、知らされているのです。

 私たちの日常とは何か、それは、主イエスと共にある毎日であり、今日の箇所のその直前に、その点がはっきりと記されているように思います。直前の1節には「群衆がまた集まってきたので、イエスは再びいつものように教えておられた」とありますが、再び、いつものように、集まる群衆に教えておられた、ということはつまり、人と共にあり、人と共に歩み、人を導く方がイエス様であり、それがイエス様の日常でもあるということです。ただ、イエス様と共にあるこの日常は、イエス様がそうであるように、心地よい春風だけを感じるものではありません。イエス様へのファリサイ派の人々の質問の但し書きとして、「イエスを試そうとしたのである」と、御言葉が記すように、ファリサイ派、律法学者とイエス様との関係は、すでに破綻しており、この破れの中に身を置くがゆえに、イエス様もまた、足をかけれられ、転ばされそうになることもあったわけです。ですから、十字架は、イエス様が、そのような人間の破れた現実の中に最後まで逃げずに留まったということなのですが、ただ、この破れの中で際立ち、明らかにされたものが、イエス様であり、イエス様と共にある私たち信仰者の日常生活であるということです。

 しかし、破れの中に身を置き続けることは、簡単なことではなく、イエス様とて例外ではありませんでした。十字架の上で、「エリ、エリ、レマサバクタニ、我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と、イエス様が神様の御心を問うたように、破れの中に身を置く者は、イエス様のように祈りつつ、御心を問わずにはいられないのです。それゆえ、この祈りこそが、私たちの暮らしを形あるものとして整えることにもなるのですが、1節でイエス様が群衆に教えを説いたように、日毎繰り返される祈りに加えて、礼拝におけるイエス様との出会い、それが、私たちの日常に意味を与えるのです。ただ、祈り、礼拝から礼拝へと導かれる歩みをなしつつも、祝福された結婚が離婚という、誰もが願わない形での結末を迎えるように、関係性の破れ、破綻は、時に重い現実として、私たちに覆い被さることがあります。そして、結婚生活の破綻は、夫婦関係に留まらず、その周辺にある人々にも影響を及ぼし、また、だから、破れを直視することのできない者は、その痛みをできる限り回避しようとするのです。ただ、イエス様と共にある私たちの日常は、そうしたところに築かれるものでもあるのです。だから、聖書もそれを誤魔化すことはありません。聖書の御言葉が、破れを破れとして引き受けることを私たちに求めるのは原則を盾に取り、私たちの困った顔を見ることに固執しているからではなく、原則をあくまで原則として語るのは、破れの中にイエス様が共におられ、また、イエス様だけではなく、神様もまた、そこに共にいてくださっているからです。ですから、ここでのイエス様のお言葉は、原理原則のごり押しを、イエス様がなさっているということではありません。破れを破れとして受け止め、かつ、私たちの命、私たちの日常というものがどういうものかを、イエス様ご自身が身をもって現されているものだということです。

 ですから、ここで言われていることは、結婚、離婚という個別の事柄に留まるものではありません。人間の暮らしが様々なものに囲まれ、囲まれているがゆえにまた、思いがけないあり方でその破れが周辺へと広がっていくことがあるのですが、それは、私たちが様々なものと関わり合っているからであり、関わることを抜きにして、私たち人間は、生きることができないからです。ですから、破れは、敗れた人だけの問題ではなく、周辺の人々の問題でもあるわけです。それゆえ、イエス様がここで離婚という関係性の破れに対し、一つの説明を施しているように、私たちもまた、どうしてそうなったのかの理由を知ることは大切なのです。けれども、理由を知って終わるのではなく、破れの中に身を置き、そもそも、人間というものはどういうものなのか、その始まり、神様に創造された原点に立ち帰り、神様との祝された関係性にイエス様の言葉を通し身を置くことがより大切なことなのです。ですから、ここでイエス様がなそうとしていることは、こうして御言葉に聞く私たちを神様の御許へと引き戻そうとされているということです。そして、ルターが行おうとしたことも、この神様の愛の御心の中に、人をして再び招くことにあったのです。つまり、神様の御心は良いものであり、その神様が息を吹きかけられ、神様との関係性、交わりに置かれている私たち人間も良いものだということです。だからこそ、私たち人間は、その命を命として喜び、生きることができ、このことはつまり、そこが、破れの中に生きるしかない私たちの立脚点であり、破れの中に生きるしかない私たちであっても、神様に命を与えられるがゆえに、神様に創られたものとして喜びをもって生き、イエス様と共にキリストの命に与りつつ、その日常を築いていくことができるのです。

 このように、神様の守りと支えの中に置かれている私たちの命であるのですが、聖書のみ、信仰のみ、ということに加えて、ルターが万人祭司ということを言ったように、そうした私たちの日常が支えられているのは、私たち一人一人の祈りが、神様を動かすことにもなるからです。そして、ここが大切だと思うのですが、私たちの祈りは、祈りの体裁を整えながらも、つぶやきであったり、身勝手なお願いであったり、自分の思いや考えの一方的な吐露であったりと、イエス様の御前にあることを忘れ、祈りが祈りになっていないことがあるのです。ですから、そのような祈りともつかないものが、神様を動かすことはありません。そして、もしかしたら、私たちの祈りの多くは、そういうものなのかもしれません。けれども、そのような私たちでありながら、祈れない私たちのことを神様はご存じであり、むしろ、祈れないからこそ、働きかけてくださっているのです。それは、神様が私たちのことを監視されているからではありません。

 私たちは、知っています。自分のことを脇に置き、他者のために祈る祈りが確実に神様に届けられ、神様を動かすことを。このことはつまり、自分自身が祈ることすらできないときにも、そんな私たちのことを覚えて、祈る家族、主にある兄弟姉妹、友がいるということです。この愛する人々の祈りが神様に届けられ、神様ご自身が動いてくださる。だからこそ、祈ることのできない者も、その命が神様に喜ばれるものであることをやがて必ず知らされることになるのです。宗教改革者ルターが、示してくれたことは、神様によって創られた私たちの命、その私たちが形作る日常とは、そういうものであるということです。聖書、信仰だけが私たちの暮らしを成り立たせているのではありません。祈ることのできない私たちのために、聖書の御言葉によってその背中を押され、信仰をもって生きる友が、祭司としての役割を担ってくれているからで、私たちの日常がなり立っているのは、それゆえのものであるということです。 ですから、問題だ、問題だと騒ぎ回るだけで、後は知らん顔、というのが、プロテスタント信仰ではなく、問題の中にしっかりと身を置き、祭司として執り成しの祈りをなすことが私たちの信仰であるということです。

 ただ、それでも、破れの中に身を置くことは、恐ろしいことです。そのため、私たちはどうしても尻込みしてしまうものなのですが、けれども、その私たちのことを祈りの交わりの中に置き、神様に祈り、神様を動かそうとしてくださっているイエス様が、私たちと共にいてくださっているのです。ですから、恐れず、私たちもまた、主にある兄弟姉妹のために、主にある友のために、破れの中に身を置くことができるのです。ルターがそうであり、私たちの近くにある信仰の先達がそうであったように、神様と隣人のために、祈り、仕える者でありたいと思うのです。できない理由、やりたくない理由を考え数え上げるのではなく、神様の召命に喜びつつ応える、この信仰に生き続ける私たちでありたいと思います。

祈り





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