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降誕前第8主日礼拝 説教 「家族と共に」

日本基督教団藤沢教会 2017年11月5日

【新約聖書】ヨハネによる福音書 13章1~20節

「家族と共に」(要旨)
 すがすがしい秋空の下、今年もこのように多くのご遺族を永眠者記念礼拝にお迎えし、私たちの命が、主にあって永遠の交わりの中に置かれていることを改めて思い起こすことが許され感謝します。そこで、今日、始めに皆さまに申し上げたいことは、今皆さまの胸の内にある愛する方々の在りし日の姿と、それらの方々と共に過ごされた日々とをその胸にしっかりと刻みつけていただきたいということです。なぜなら、こうして神様を礼拝する私たちにとりまして、愛する方々と共に歩んだ日々は、懐かしむために備えられているものではないからです。

 神様を礼拝する私たちは、この日、神様に祝された神の家族としての姿を、今ここに見ているのですが、それはまた、私たちが名簿にお名前の記されている方々より受け継いだものでもあるのです。ですから、名簿にお名前を記されている方々は、私たちの大切な財産であり、それらの方々と共に御言葉をこうして分かち合っているのが私たちでもあるということです。主イエスは、そんな私たちに向かって、こう仰います。「私はある、ということを、あなた方が信じるようになるためである」と。このことはつまり、私たちの信じるイエス様とは、私たちと共にいてくださるからこそ、そこでご自分を現される方であり、まただから、私たちもイエス様のことを信じることができる。それが、私たちの信仰を形づくっているということです。

 ですから、イエス様が今私たちと共にいてくださっている以上、神様とイエス様を信じるということは、昔信じた人々、今信じている人々だけの問題ではなく、ご自身を現されるすべての人々の問題であり、信仰とはつまり、ご自身を私たちに「あってあるもの」として現す、神様の問題でもあるということです。このことはつまり、ご遺族の方々の多くが、仮に、洗礼を受け、信仰を自らのものとして受け止めるには至っていなくとも、神様は、私たちの愛する方々と共に、神様との豊かな交わりの中に私たちすべてを置いてくださっているということで、ですから、この中に、「あってあるもの」としてご自分を現されるイエス様と神様と無関係な者は、この中には一人もいないということです。

 ということですので、詩編の詩人は、信仰を持って生きるそんな私たちの交わりについて、こう歌います。「平和の内に身を横たえ、私は眠ります。主よ、あなただけが、確かに、私をここに住まわせてくださるのです。」と。つまり、神様の御手で包まれ、その懐深くに置かれている場所に、今、主の平安の内に置かれているのが私たちであるということです。主の御許に置かれている方々の在りし日々において、神様の祝福と平安の内に、皆さまと共に暮らされたように、神様の御心の内に置かれている私たちの命そのものを、神様が同じように祝福と平安の内に置いてくださっているということなのです。私たちは、イエス様が復活なさった日曜日のこの朝、愛する方々がその生涯を過ごされたこの場所で、あるいは、愛する方々が生涯の最後を迎えた藤沢教会というこの場所で、このことを知らされているのです。

 ですから、聖書の御言葉が語りかけてくれていることは、そこに身を置く私たち一人一人の物語でもあるということです。聖書において、人の命とは、主に結ばれた命であり、それゆえ、命もその人の人生も家族も、主を離れて、成り立つことはありません。私たちの命は、私たち一人一人の問題であるだけでなく、神様ご自身の問題でもあり、従って、その神様が私たちの命を良いものとしてくださろうとしているという点では、信仰の有無は大きな違いではありません。私たちの命を育み、命そのものをその懐深くに置いてくださっている事実と現実、聖書の御言葉が、私たちに一番に伝えたいことは、この点であり、そして、この日のイエス様も、私たちにそのことを語ってくれているのです。

 「はっきり言っておく。私(イエス様)が遣わした人(皆さまにとっての大切な方々)を受け入れる人(私たち)は、私(イエス様)を受け入れているのである」と、イエス様が仰るように、イエス様の御許にある方々のことを忘れることのない私たちは、間違いなくイエス様に覚えられ、神様にも覚えられているのです。つまり、愛する方々の在りし日の姿を思い起こす私たちも、同じように神様の声の届くところに置かれているということです。従って、今日、私たちが一番に思うべきことは、私たちは、イエス様にあって、同じところに生きているということです。だから、神様の声の届くところにいる私たちの思い出は、過ぎ去った昔を懐かしむためのもの、遠い過去に置いてきた忘れ物、引き出しの中にしまいっぱなしのものなどではなく、今も生きているものとして、私たちの前に備えられていると言えるのです。

 ですから、愛する方々との思い出は、そういう意味で、神様とイエス様のおられる、陽の当たる、風通しのいいところに置かねばなりません。ご遺族の皆さまにとりましては、今日という日がまさにそのような日であると思うのですが、ただ、それは、虫干しをするようなものではありません。溜まったほこりを払い落とすために、私たちは、この所に集まっているわけではないからです。また、そのために、そこで、実に様々なことが思い起こされもするのです。楽しかったこと、辛かったこと、悲しかったこと、出来事だけでなく、かつて感じたであろうその気持ちまでが思い出されることとなり、ですから、それは、必ずしも心地よいものばかりではありません。特に、熱心に教会に通っておられた方のご家族などは、少し複雑な思いに駆られるということもあるのかもしれません。

 お子さん方のことよりも教会、夫、妻のことよりも教会、何をさておいても教会、ただ、そういう方々によって築かれてきたのが教会というところでもあります。ですから、寂しい思い、辛かった思い、そうしたかつてのことを思い起こすと、腹立たしさに加えて、憎しみすら覚えた昔のことを思い起こされるということもあるのでしょう。そして、かくいう、私自身も、こうして教会に身を置き、神様にお仕えしながら、教会が一から十まですべてが良いものだなどとはとても思えないところがあります。それは、皆さまの家族としての歩みが、様々あるように、神の家族である教会の歩みも、そういう意味では、何も変わらないものだからです。ただ、いい思い出も、忘れたいと思う思い出も、そのすべてによって築かれているものが家族としての真実な姿であり、また、そこに、絶えず常に共にいてくださっているのが、私たちの神様であり、イエス様でもあるのです。そして、私たちの聞き分けの悪い姿、素直に神様の方を見る姿、互いに慰め合い、また傷つけ合う私たちの姿をすべてご覧になっているのが神様とイエス様であり、まただから、人の目からすれば、いつ壊れてもおかしくない家族が、それでも壊れずにこうして今を迎えることが許されているのです。つまり、家族としての思い出やその歩みというものは、そうした中で、神様の導きがあって、築かれてきたものだということです。

 このように、名簿の方々、お写真に映し出されている方々は、今私たちがこうして受け継いでいるものをイエス様と神様と共に、私たちに伝えてくださった方々であり、だから、冒頭において、それらの方々のことを財産と申し上げたわけです。ただ、今申し上げたように、それらの方々とのかつての日々は、すべてがすべて良いものばかりであったわけではありません。そのため、私たちも深く傷つくこともありました。そして、それは、どちらがいいか悪いかという単純な話なではなく、互いの足りないところを押しつけ合うことによってでしか一緒にはいられないのが私たちでもあるということです。弟子たちが、イエス様が十字架につかれるその直前に、「主よ、足だけでなく、手も頭も」と願ったのも、それがよく分かっていたからであり、また、だから、家族が家族であるがゆえの歪み、人間が人間であるがゆえの悲しさなどが、この互いの足りないところから生じ、私たちの人生に暗い影を落とすことにもなるのでしょう。特に、苦しい時代を過ごされた方々にとっては、そうした中で、しわ寄せが自らに及ぶということは、それこそ、それが自分自身の置かれている現実そのものでもありました。

 以前、ある方がこんなことを私にお話しくださいました。ご主人が戦死し、生きることに絶望したその方は、幼い息子さんと二人で何度死のうと思ったか、そして、実際にお子さんに手をかけようとしたこともあったと、牧師になろうとしている私にこうお話しくださったということがありました。しかし、その方は一線を越えることはなかった。それは、その方が仰るには、ただできなかった、ただそれだけだったそうです。あどけない笑顔を浮かべる我が子の姿が踏みとどまらせたということもあったそうです。また、窮状を知り、祈る友の細やかな気遣いによって、支えられたということもあったそうです。けれども、ただできなかった、というその後に続けて、その方が仰ったことは、イエス様のことを思い、できなかった、この一言であったのです。そして、その方と同じではないにせよ、試練の中にあって、イエス様の声を聞いたのは、名簿にお名前を記されている方々も、同じであったと思います。また、不慮の事故によって、命を失うことになった方も、同じように、その時、イエス様の声を聞いたに違いないのです。なぜなら、互いにしわ寄せをすることによってでしか生きられない私たち人間とイエス様と神様が共にいてくださっているということは、そういうことだからです。

 ですから、そのイエス様が、「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」と仰るように、イエス様を模範とすることは、相手にしわ寄せすることでしか生きられない私たちにとって、とても大事なことだと思います。互いに足を洗い合う暮らしが続けられてこそ、家族が家族として立っていくことができるからです。けれども、それは、だから、私たちが積極的に何かをしなければならないということではありません。家族が家族であるということは、そこにいる者同士が何かをし、何かの役に立つから一緒にいることができということではないからです。家族であるということは、なにかをするしないによって成り立つものではなく、「ただ一緒にいる」ということ、場と時間を共有しているというところで成り立つものが家族であり、神の家族もまたそういうものだということです。

 ただ、そこには一つ大きな違いがあります。この世の家族にとって最も大事なことは、互いの気遣いなのかもしれませんが、私たち神の家族を成り立たせるものは、互いの気遣いだけではないからです。イエス様が私たちと共にいてくださり、そのイエス様が私たちの足を洗ってくださっている。つまり、イエス様の憐れみと慰めの上に成り立っているのが私たち神の家族だということです。そして、それが分かるのは、私たちが忙しく立ち回り、イエス様の気に入るように何かができるからではありません。むしろその逆であり、そのことを知らされているのが、永眠者記念礼拝にこの日招かれている私たちなのだと思います。

 召された方々と私たちは、互いのために何かができるわけではありません。けれども、何もできなくても、召されたお一人お一人は、私たちの大切な家族であり、そして、それらの方々と同じように、私たちは、イエス様の慰めを受け、神の家族としての暮らしをこうして続けることが許されているのです。イエス様が「わたしはある、ということを、あなた方が信じるようになるためである」と仰ることは、互いの命が、あってある方であるイエス様の御手の内に置かれているということであり、私たちが小さい頃、召された愛する方々の手の中に置かれていたように、また、不慮の死を遂げた愛する方々を、慈しむようにその手で抱いたように、召された者もこうして地にある者も、同じようにイエス様の御手の中に置かれているのであり、だからこそ、イエス様の慰めに包まれたその喜びを平安の内で、互いに足を洗い合うということが、ごくごく自然な形で現すことができるのです。このように、私たちは、召された方々がそうであるように、毎週、毎週、礼拝へと招かれることで、私たちの命の所在がどこにあるのかを知らされているのです。

 私たちの命は、イエス様ゆえに神様のものとされている。イエス様の御手の中に置かれ、永遠に変わることのない命に生きている。自分自身の思いや考えの中にそうした姿を見出すのではなく、イエス様の御手の中に自分自身の姿を見出すことが許されている。それが神の家族である私たちなのです。ですから、イエス様の御手の中に置かれ、召された方々と共に今を歩む自分自身の姿をしっかりと見つめ、愛する方々との再会を待ち望む私たちでありたいと思います。

祈り





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