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終末前々主日礼拝 説教 「冒険者たちの足跡」

日本基督教団藤沢教会 2017年11月12日

【旧約聖書】創世記       15章  1~18a節
【新約聖書】マルコによる福音書 12章18~27節

「冒険者たちの足跡」(要旨)
 本日は、幼児祝福式、先週は、永眠者記念礼拝と、二週続けて、大勢の方々を教会にお迎えし、礼拝を共にすることが許されたわけですが、その中で私たちに示されていることは、神様を礼拝する私たちの生涯は神様に祝されたものであり、また、神様との永遠の交わりの中に置かれている私たちと共にあるすべての人々も、同じように神様の祝福の中に生きる者であるということです。そして、このことを実感をもって、私たちが子どもたちに伝えることのできるのは、天に召された方々と共に、今も私たちが、イエス様にあって、共に同じ一つなる命を生きているからです。ですから、そういう意味で、私たちは、神様に向かって、子どもたちの後ろ盾となってくださいなどとお願いする必要はありません。人生を導かれる神様に信頼し、この神様に子どもたちの将来を安心して委ねてさえいればいいのです。ただし、それは、だからやりっ放しでいい、ということではありません。神様に信頼するということは、私たちの思いと行動あってのことであり、だから、そうした共にある歩みを通して、私たちは、与えられた命をさらに豊かにするべく、成長が約束され、また、人と共にあることを願う私たちの歩みを通して、私たちの信仰も養われることにもなるのです。

 ただし、私たちのそのような歩みは、理屈通りに運ぶものではありません。理屈ありきのものではなく、神様とイエス様と共に実際に共に歩んだ経験こそが私たちの言葉を紡ぎ、その信仰の歩みを形あるものとするのです。ですから、今日の御言葉が私たちに語らんとしていることもこの点であるのですが、しかし、それは、そう単純で簡単なことではありません。神様の言葉だけを信じ歩む信仰の道は、そこで投げかけられる神様の言葉が、どれほどその人にとってありがたいものであっても、すぐに喜んで受け取ることができるわけではないからです。むしろ、その反対であることを、今日の旧約聖書の御言葉は明らかにしてくれています。

 神様がアブラハムに向かって「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」と仰ったとありますが、神様が大きな後ろ盾となってくださるわけですから、こんな有り難い話はありません。けれども、神様のこの言葉を聞いた直後のアブラハムは、それを聞いて喜ぶどころか、その言葉に戸惑い、嘆きの声を上げたのです。それは、語られた神様の言葉と自らが置かれている現実との落差が余りにも大きく、神様の言葉を現実のこととして受け止めることができなかったからです。そして、福音と私たちが呼ぶ神様の良き知らせも、基本的に同じことが言えます。十字架がどうして嬉しい知らせなのかということなのですが、ただ、神様のお言葉と十字架の出来事の有り難さは、そうであるからこそ、実感させられることにもなるのです。

 一口に神様の言葉に信頼し、お従いするといっても、そううまくいかないことは、私たちの誰もがよく分かっていることです。それは、自分が立っているところ、見ているところから、どうしても後先のことを考えてしまうからです。ですから、ここで復活について、議論のための議論をイエス様に投げかけるサドカイ派の人々も、そういう意味では同じだったと思います。彼らがイエス様から「思い違いをしている」と言われてしまったのは、神様の語られている言葉に身を置き、後先を考えることができなかったからです。ただ、アブラハムが「我が神、主よ。私に何をくださるというのですか。私には子供がありません。」と言っているように、将来に対する保証については、言葉だけでいくら語られたところで、置かれた現状が将来を閉ざすものであれば、神様がどんなにいいことを仰ったとしても、思い違いをするのは当然です。そして、私たちがそこで思い違いをするのは、いい加減な気持ちからではありません。神様のお言葉を曲げてはならないという生真面目さゆえのことであり、けれども、まただからこそ、ここでのサドカイ派の人々のように、議論のための議論をイエス様に投げかけてまで、愚かにも自分の考えや思いの正しさを押し通そうともするのです。

 ただ、誰もが願うことは、「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」と御言葉が語るように、神の言葉に聞き、穏やかに神の言葉を神の言葉として信じ、信頼することで、目くじら立てて、自らを言いつのることではありません。けれども、それができない。それは、神様のことが分からず、そのため自分自身に拘るしかないからなのですが、ただ、そこで頑張ってしまうのには理由があります。それは、それほどまでに、私たちの生きるこの世界は、多くの苦しみと悲しみに満ちあふれ、しかも、その私たちを苦しめ、悲しませる様々な問題の多くは、直ちに解決つくことではないからです。ですから、サドカイ派の復活にまつわる質問は、人が生きる現実の悲しみと苦しみのそのままを明らかにしてくれているようにも思います。自分の力ですべてを解決しなければならないと思い込む真面目さが、そうした愚かさへと走らせるのでしょうし、また、そういう自分自身にしがみつくしかない心許なさが、その苦しみと悲しみをさらに大きく深いものとさせることにもなったのでしょう。従って、彼らのイエス様への問いかけは、そんな人間の置かれている悲しい苦しい現実そのものを現しているように思います。

 ですから、イエス様との論争のため、サドカイ派の人々が引き合いに出すレビラート婚という習慣は、破れを最小限に留めようとする、そんな人間の悲しさと滑稽さを表していると言えます。けれども、それで、命の問題について、根本的な解決がもたらされないのは、ここで明らかにされていることでもあります。あくまで、その場しのぎに過ぎないことだからです。ですから、そうしたことをいくら繰り返しても、命が命本来の輝きを取り戻すことはありません。ただ、まただからこそ、人間は、その場しのぎを繰り返すしかなく、それゆえ、苦しい、悲しい、辛い、この言葉を人が口にした途端、私たちは、言葉を失うことにもなるのです。

 しかし、多くの人々に受け入れられている、悲しみと苦しみのそうした分かりやすい一面は、結婚を七回繰り返し、問題を先送りするのと同じで、その繰り返しで得られる結果は、中身のないものでしかありません。従って、そういう癖がもし代々受け継がれていったとして、そこで何が残ると言えるのでしょうか。神様がアブラハムに対して語ったことの結果が明らかにされるのは、四百年後であると、御言葉は語るのですが、悲しんでいる、苦しんでいる、また、気の毒だ、かわいそうだ、という、そういう気持ちの上での繰り返しを、もし御言葉が私たちに望んでいるだけだとすれば、恐らく、四百年待たずに神様への信仰は、どこかに消え去ってしまったことでしょう。気持ちに囚われているだけでは、現実が動き出すことはないからです。けれども、そうではなかった。神様の約束通りに出エジプトの出来事は起こり、そして、イエス様の出来事も、イザヤが語って後、同じくらいの時間を経て、ユダヤの地に訪れることになったのです。

 神様が私たちに求めることは、安易で分かりやすい形での問題の先延ばしではありません。アブラハムがここで一人の男として、また、一組の夫婦として、置かれた現実の中にある苦しみと悲しみと向き合いつつ、神様への信頼を言葉にしたように、私たちの信仰が形づくられていくのは、こうして生きることの中で生じる悲しみと苦しみと向き合えばこそなのです。従って、それは、正解を求めるようなものではありません。四百年という時間が必要だと神様がお考えになったように、足下が揺らぎ、また、曖昧な現実に翻弄され、行きつ戻りつ、生きることの悲しさと苦しさと向き合うからこそ、私たちは、神様と正しく出会うことになるのです。ですから、ここで神様が仰っている四百年と言う時間は、神様が共にいますことを知り、信頼するために必要な時間であったということです。

 従って、私たちの神様は、私たちの嘆き悲しみをよくご存じなのであり、つまり、私たちが憐れみ深い神様のことを知るのは、私たちが苦しみ悲しむことがないからではありません。むしろ、そうしたものに背を向けるのではなく、向き合うからこそ、私たちは、神様の憐れみと慰めを自分自身のものとして経験するのです。だから、私たちは、神様に信頼していいし、信頼することができるのです。ただ、それを自信と確信をもって言葉にすることは難しく、そのため、正直、私も下をうつむくしかないのが実のところでもあるのです。信頼、信頼と口にしながらも、いざ悲しみや苦しみに直面したとき、神様以外のものに心動かされることが多いからです。

 ただ、それは、私たちだけでなく、弟子たちも同じでした。多くを期待し、そして、この期待の内に置かれていたのが、弟子たちにとってのイエス様を信頼するということでもありました。ところが、それが十字架の出来事によって、木っ端みじんに吹き飛んでしまったのです。ですから、その時の弟子たちの挫折感は、どれほど大きかったことかと思います。御言葉は、その時の弟子たちの混乱、恐れ、疑い、怒り、絶望、そして、自責の念を包み隠さず私たちに伝えるのですが、ただ、この彼らの苦しみと悲しみ、それが、そのまま結びつけられているのが、十字架の出来事でもあったのです。だから、この十字架の下へと招かれた弟子たちは、そこで十字架のイエス様と再会し、そして、この十字架を居場所とし、そこに立ち続けることになったのです。そして、この、十字架の下に立ち続けるということは、自らの罪と向き合うと言うこと以上に、罪を犯さずには生きられない、この世の苦しみと悲しみの前に立ち続けるということでもあります。しかし、そこに共にいてくださっているのがイエス様というお方であり、そのイエス様と共に生き、共に歩む私たちと、イエス様は、慰めと慈しみをもってどこまでも関わり続けてくださっているのです。それゆえ、信頼は、この確かな経験によって生じるものであり、だから、イエス様への信頼をもって歩む私たちは、深い闇の中にあって、なお、信頼と希望を失わずに歩み続けることができるのです。

 このように、苦しみを苦しみとして、悲しみを悲しみとして受け止め、向き合い続けるには、十字架の下に立ち続ける必要があります。そこにイエス様が共にいてくださり、自分の悲しみに溺れ、その心を閉ざすことによってでしか自分を守ることのできない哀れな私たち自身を、イエス様自らが、その先にある希望へと導いてくださっているからです。ですから、悲しみと苦しみに包まれたとき、私たちが十字架の許に置かれている自らの姿を見出すなら、私たちは、悲しみと苦しみの内にあってなお、心から感謝と讃美の声を上げることができるのです。そして、そこで繰り返し繰り返し声を上げるからこそ、私たちの神様への信頼はより深まり、世界とも、そして、世の人とも、破れた中にあってなお、希望をもって関わることができるのです。

 そして、このことは、直ぐに分かるものではありませんし、分かろうとして分かることでもありません。アブラハム、イサク、ヤコブと、世代を重ねる中ではっきりさせられることでもあるからです。けれども、族長たちのその命が守られ、世代から世代へと命が受け継がれていったように、十字架を通しこの世界と人とを私たちが見つめるとき、神様の慰めと憐れみとを、イエス様のその姿を通して、私たちは必ず知らされることになるのです。そして、十字架の下に百年この地に生きてきた私たちは、それを経験し、知っているのです。だから、私たち藤沢教会の土台は、こうして築かれることになったのであって、たとえ、どんなに目の前の現実が暗く、また、自分自身の手さえ見えないくらいに深い闇に包まれたとしても、そこにイエス様が共にいてくださっているのは間違いのないわけですから、闇に沈みあえぐ私たちのことを慰め、癒やし、必ずや愛と希望へと向かう道を切り開いてくださるのです。

 ですから、苦しみと悲しみに包まれたとき、自らの土台が十字架であることを思い起こし、それも、思い起こすだけで終わるのではなく、信頼という形で、これからもイエス様に我が身を差し出す私たちでありたいと思うのです。そして、このことはまた、十字架の下で、私たちが安心して嘆くことができるということであり、嘆きつつ、下をうつむきつつ、十字架のイエス様によって導かれる経験を繰り返し経験していくということなのです。「あなたから生まれた者が後を継ぐ」と神様が仰るように、悲しみと苦しみに背を向けず、十字架のイエス様の下に立ちつつ、神様を知る歩みをこれからも続けるからこそ、そこで与えられる信仰の豊かさとその恵みによって、私たちは、更に大きく成長することになるのです。ですから、先達が私たちを生み出したように、次の世代を生み出し、養い、育むことのできる、そんな私たちでありたいと思います。

祈り




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