印刷用PDF(A4版4ページ)
終末前主日礼拝 説教 「わたしはあなたたちの神となる」

日本基督教団藤沢教会 2017年11月19日

【旧約聖書】出エジプト記      6章2~13節
【新約聖書】マルコによる福音書 13章5~13節

「わたしはあなたたちの神となる」(要旨)
 「終わりの日」は、必ず訪れるものであり、誰も避けることはできません。それゆえ、御言葉にある終末についてのイエス様の教えは、私たちの心に重く響くことになります。ただ、この教えが語り始められた切っ掛けが、イエス様と弟子との何気ない会話であることを思いますと、語られた内容の重さとその切っ掛けの軽さとが、その落差ゆえに、返って、重々しさと息苦しさを増し加えているようにも思います。

 当時のエルサレム神殿は、ヘロデ大王のときから四十年もかけて建設された、壮麗な大伽藍でありました。それゆえ、弟子たちが、人間の営みとしての集大成でもある、この建築構造物に見とれてしまったとしても不思議ではありませんし、また、イスラエルの人々が、この神殿を誇りに思ったのも、当然であったと言えるでしょう。ところが、イエス様は、無邪気に喜ぶ弟子に向かって、そのような人間の営みが、虚しく、はかないものであると、弟子の何気ない一言に水を差すのです。そして、それに続き、語り始めたことが、今日の終末の際の教えでもありました。自らの営みを誇る人間への警戒、戦争や内乱、地震や飢饉の発生。身内同士の醜い争い、そして、イエス様ご自身の所為で全ての人々の敵意、憎悪の対象となると、これでもかと、重い話をされたのです。

 天変地異や自然災害は、避けようのないものであり、それゆえ、ただ引き受けるしかないことなのかも知れません。けれども、世間との摩擦は、避けようと思えば、避けることのできるものです。ところが、イエス様は、それらすべてを堪え忍ぶようにと強く勧めるわけですから、寝耳に水、心構えのできていない者が、このイエス様の突然の言葉に狼狽するのは当然です。しかし、それが避けられないものであれば、いたずらに長引かせずに、早く訪れて欲しいと願うのが普通なのでしょう。でも、それは、産みの苦しみの始まりであり、まだまだ来ないと、そうイエス様はそう仰るのです。まさに無間地獄の阿鼻叫喚の中で耐え忍び、生き続けるのが、キリスト者であると言わんばかりに、主イエスは、終末への備えについて教えるのです。ですから、そのような状況下で、壮大な夢を語ることは意味のないことでもありましょうし、いたずらな覚悟は、かえって、人を追い詰めるだけなのだとも思います。

 しかし、パウロが言うように、苦難の中にあってこそ希望を見失わないのが私たちキリスト者でもあります。では、そんな中で、私たちキリスト者は、どう希望を見失わずに生きればいいのでしょうか。今年も間もなく、イエス様の降誕を待ち望むクリスマスシーズンが訪れようとしているわけですが、この時期にイエス様のお言葉がこうして与えられているということはつまり、クリスマスを喜びの内に迎えたいと願う私たちの気持ちに水を差すのが、神様の御心だというのでしょうか。ただ、以前ローマ法王が語ったように、キリスト教的価値を見失った結果としての危機的状況を数多く認めることができる昨今、無邪気に喜んでいればいいということもありません。また、教会の存在とその使命とが、かつてのような輝きを失い、世間の耳目の上ることが少なくなってきていることを考えますと、忍耐の重要性は理解しつつも、忍耐そのものに希望を繋ぐことのできない教会、キリスト者は、多くなってきているのではないかとも思います。ですから、そんな状況の中で、御言葉は、そんな私たちに向かって、何を掴み取れと言うのでしょうか。

 人を破滅へと向かわせる切っ掛けは、必ずしも、重々しいものばかりではありません。弟子の軽口がイエス様の重い言葉を引き出したように、語られた内容の重さに対し、聞く者の存在の軽さが際立つとき、その落差ゆえに、人は破滅、絶望へと導かれそうになり、一瞬、決して入ってはいけない扉が開く音を聞くことがあるのです。ですから、そんな中で、苦難に耐え、苦難をも誇りとすることは不可能なことでもありましょうし、ましてや、意気込みや覚悟を繰り返し耳にすることで、励まされ、勇気づけられることもないのでしょう。ご大層な理屈や立派で重々しい言葉は、ちょうど、弟子たちが見つめる壮麗な神殿のように、ただ、そこにあるだけで、直接関わりを見出すことができなければ、それは、空しいだけのものでしかないからです。また、その逆に、目の前にあるものが薄っぺらな小さいものであれば、端から相手にされることもありません。壮麗な神殿に目を奪われた弟子たちのように、人間というものは、とても現金なものだからです。価値があると思えば、近づいてくるし、ないと見なされれば、離れていくか、そもそも、それ以前に振り向いてももらえない、そういうものなんだと思います。

 牧師となって最初の任地のことでありました。教会の裏が中学校で、その子どもたちから、教会がなんと呼ばれていたのか、着任早々信徒の方から聞いたことは、お化け屋敷と呼ばれているということでした。また、牧師館は、口の悪い近隣の教会の牧師たちからは、全国で十本の指に入るほどのひどい牧師館だとも言われておりました。ということでしたので、当初は、凹むことも多々あり、ある日曜日の朝のことです。教会の前を掃除していると、教会への一本道をがやがやと入ってくる一団があり、恐らく、ご家族であったと思います。そして、そのお顔は、初めて見る顔ばかりで、私は、正直、やった、と思いました。ところが、教会の建物を見るやいなや、その一団が、回れ右をして、元来た道をそのまま引き返してしまったのです。当然、ガッカリしたのですが、けれども、それが、私の置かれてる現実でもありました。ただ、初めはショックを受けるのですが、人間というものは、直に慣れるものです。慣れないとやっていくことができないからです。しかし、それで、現実が大きく変わるものでもありません。ですから、そのために、自分自身の存在の軽さを感じさせられる時などは、何度も、入ってはいけない扉の前に立たされているのを感じたことがありました。しかし、その扉が開く音だけは耳にすることはありませんでした。それは、牧師も教会も、孤独ではなかったからです。

 口の悪い牧師たちは相変わらず口が悪いままでしたが、共に祈り、支えてくれました。戦前より、地域の教会間で祈り支え合う関係性が築かれていたからです。また、働き手の少ない教会であったため、ほとんどのことを牧師夫婦が担わねばならず、地域との関係が密接な分、遠方まで出かけることも多くありました。そんな中で、家内も、良好な関係を維持すべく、地域の婦人会などに積極的に出席し、一人足を運んだりもしてくれました。こうして、その口の悪い牧師たち、近隣の教会の信徒の皆さん、さらに、初任地の教会の信徒の皆さんが心を一つにし、繰り返し祈り続ける中で、やがて会堂牧師館建築が実現することになったのです。するとどうでしょう。建物が新しくなった途端、これまで一切お付き合いのない中学校横の信用金庫が、毎年、年の瀬になると、ポストにカレンダーを入れてくれるようになりましたし、おそるおそる言葉をかけてきた人たちが、普通に話しかけてくれるようになったのです。

 こうして、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れた神様の偉大さ、力強さ、恵み深さ、憐れみと慰めを、私も深く経験させられたわけですが、それゆえ、牧師として、とても幸いなスタートを切ることができたと言えるのかもしれません。ただ、全能の父なる神様の力強さは分かったのですが、人が決して入ってはならない、神様が入ることを絶対に望んではおられない、その扉の陰が、目の前から完全に消えてなくなることはありませんでした。そして、それは、今もそうです。神様に軽く扱われているのではないかとの思いが、その扉の陰をちらちら感じさせたりもするのです。そして、それは、きっと、これからもなくなることはないのだと思います。なぜなら、不安や恐れの種は、尽きることがなく、一つ慣れれば、また新たなものが生じ、次から次と現れては消え、また、消えては現れるのが、不安や恐れでもあるからです。また、そうであるからこそ、イエス様も、「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう」と仰っているのでしょう。

 不安や恐れに囚われてしまうとき、神様が全能な方であることが分かっていれば、それゆえ、その独り子であるイエス様への期待値も高まるに違いありません。特に、自らイエスと名乗る者が次から次に現れ出る状況においては、イエス様への期待値は、なおのこと高まるものなのだと思います。ただ、その中で、本物を見抜くことは、上っ面を追っているだけでは、難しく、そのため、見る目を養う必要もあるのでしょう。けれども、そうした状況の中で、私たちキリスト者は、心配する必要はありません。なぜなら、本当の神様のことも、イエス様のことも、私たちは、普段から良く知っているわけですから、私たちと共にあるこの方のことを、私たちだけは、見誤ることはないからです。あってある方として、神様がモーセにその名を明らかにしたように、独り子であるイエス様もまた、その名を明らかにし、その上で、私たちと共にいてくださっているのです。

 私たちの神様、そして、私たちのイエス様も、神という立場、神の子という立場に拘り、遠く隔たったところにいるわけではありません。そして、私たちがそれを知っているのは、神様が神様という立場に、イエス様が神の子としての立場に拘ることなく、愚かにも軽口を叩き、本来であれば、その軽さゆえに見放されてもおかしくない私たちと、イエス様は、共にいてくださっているからです。つまり、神様がモーセにその名を明らかにし、また、イエス様が神様の独り子であることを十字架の出来事を通し、明らかにされたように、このことはつまり、神様もイエス様も、ご自分の殻に籠もる方ではないということです。どこまでも私たちと共にいてくださっているということであり、その神様とイエス様が、私たちのために一肌脱いでくださろうとしている。神様は、全能であるだけでなく、私たちと共にいてくださっている、神様もイエス様も、私たちにとってはそういうお方であるということです。

 窮地に立たされたとき、辛いとき、悲しく苦しいとき、私たちは、神様とイエス様の力強さ、その全能さだけを求めるものなのかもしれません。けれども、神様が全能であり、その力を誇示すべく、私たちの求めに応えるだけの神様が私たちの神様であるとしたら、私たちは、イエス様がここで仰っている重々しい現実を完全に引き受けることなどとてもできないのだと思います。なぜなら、求められていることに応えられることもあれば、そうでない場合もあるからです。けれども、私たちの神様は、私たち信じる者の命が決して軽いものではなく、神によって大切にされ、丁寧に扱われるべきものであると言っているのです。つまり、裁かれるべき者が、重々しい現実に置かれようとも、神の言葉によって、その命は、重いものとして扱われていると言うことです。神ご自身がそのような者を招き、ご自分が始めたことに対して、最後までその責任を全うしようとされている、信仰者とは、そういう神との交わりに生きる者であり、軽い一言によって始まった重々しい現実の中にあっても、決して見捨てられる存在ではない、それが私たちキリスト者であるということです。

 それゆえ、神は、私たちを、永遠に耐え得るご自身の御業へと参与させてくださせるべく、いつまでも、どこまでも、関わり続けようとされるのです。私たち一人一人を召し出してくださり、ご自身の御業に参与させるべく、私たち一人一人に、自分の人生の歩みの中で取り組むべき使命を与えてくださるのです。神の使命に生きるとき、私たちは、神の御言葉を聴き、語る者として立たされているのです。たとえそれが困難な使命であっても、私たちは、御言葉を聴き、語る者として、困難な中にあって希望の上に立ち、その与えられた使命に生き続けることができるのです。ですから、いつ終わるのか、どのように終わるのかと思い煩うのではなく、救われている者としての喜びを世に現し続ける私たちでありたいと思います。

祈り




おおむね曇 10℃ at 10:30