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待降節第2主日礼拝 説教 「心ここにあらず」

日本基督教団藤沢教会 2017年12月10日

【旧約聖書】エレミヤ書     36章1~10節
【新約聖書】マルコによる福音書   7章1~13節

「御心のままに」
 「心ここにあらざれば、視れども見えず、聞けども聞こえず、食らえどもその味知らず」、アドヴェントクランツに灯された二本目のローソクを見つめる私たちに、御言葉を通し、イエス様が語りかけてくださっていることは、この点であるように思います。つまり、私たちは、その心をどこに置きつつ、こうして御言葉に聞き、そして、今年もクリスマスを待ち望むものなのか、ということです。そして、そのことが最も問われているのが、こうして御言葉を取り次ぐ牧師であるようにも思います。

 ところで、藤沢駅の地下道を抜ける際、この時期、必ず見かけるのが、全身金色づくめの男性の姿です。この男性は、いわば、藤沢の風物詩とも言えるのでしょうが、ドリームジャンボ宝くじを売り込むために、男性は、囁くようにこう語ります。「買って当てよう10億円、誰かに当たる10億円、買わなきゃ当たらぬ10億円」、藤沢に参りまして、印象深く受け止めているものの一つがこの男性の姿なのですが、それは、その格好もさることながら、宝くじ売り場のあの男性の発する一言一言が、何一つ偽りなく、間違ってもいないと思えるからです。そして、牧師として、この男性が語る言葉に聞きつつ、毎回思うところが一つあります。「信じて救われようキリスト教、誰をも救うキリスト教、信じる者は救われるキリスト教」、と、自分も声高に言ってみたいということです。それは、買う、当たる、ということが直線的に結び合わされている分かりやすさが多くの人の心を掴むように、信じる者は救われる、という、この分かりやすい事実を、私たちも世の中の人々に伝えていかなければ、伝えていきたいと、そう思うからです。けれども、そう思うのは、その難しさを実際に日々感じてもいるからです。

 一を聞いて十を知る、ということが、聖書の御言葉に聞く際に常に誰にでも起こることであれば、その男性のように、「信じて救われようキリスト教」と二つ三つのフレーズを繰り返していればいいし、何よりも、語る内容に嘘も間違いもないわけですから、語る者も聞く者もそれだけで安心できるはずです。ただ、もしそうであるとして、そこで、一つ問題が生じることとなります。短すぎるために、至福の時を心待ちにしている方にとっては、それを味わうことができないということです。つまり、食らえどもその味知らず、という事態を招きかねないということにもなるのでしょうが、だから、だらだらと長く話していいと思っているわけではありません。

 先日、何人もの方から、今日の説教は良かった、短くて良かったと、そうお褒めの言葉をいただいたように、福音の喜びを多くの人と分かち合う、それが、牧師としてこうして立たされている私の役割だと思います。しかし、少年少女のように目を輝かせ、今日は短くて良かったと言われたと言うことは、私が、いかに牧師としてのその役割に徹し切れていないかということを物語っているとも言えるのでしょう。ですから、今日は、せめて今日だけは、語りたいこと、伝えたいことがあっても、そのすべてを言葉で言い表そうとするのではなく、先週説教をいただいた三井先生のように、途中であっても、神様に委ね、終えたいと思います。長くて25分、それを先ずお約束させていただきたいと思いますが、そのためにも、一を聞いて十を知るとまでは申しません。せめて、五つ聞いて十を知ろうとする努力を、皆さんにも投げ出さずにお願いしたいのです。そして、このようにお願いするのは、私たちの信仰というものが、自分一人の力だけで成り立つものではないからです。ですから、そのためにも、それに加えて、大切な一つのことを最後まで忘れずにいていただきたいと思うのです。それは、私たちの心の置き所、イエス様と共に神様をこうして礼拝する私たちの心の置き所、身の置き所は同じ一つのところであるということです。そしてそう皆さんにお願いするのは、今日、御言葉を通し、イエス様が私たちに伝えようとしていることが、まさにそれについてのことだからです。

 私たちは、どのような文脈、世界、現実、時間に生きているのでしょうか。それは、端的に申せば、イエス様と神様の御心の中に、私たちは生き、そして、御心の中に置かれながら、神様が創られたこの世界を過ごしているのが私たちなのです。つまり、神様の御心の中が私たち自身の居場所であるということです。ですから、そういう意味で、私たちは、イエス様と共に神様に常に触れているわけです。聖なる方、聖なる存在と触れ合っているのが私たちであり、また、それが、私たちの暮らし、日常を成り立たせてもいるということです。それゆえ、この聖なるものと触れているという実感、感覚こそが、私たちの、こうして生きていることへの喜びへと繋がるのです。まただから、私たちのそうした日々の暮らしは、イエス様の愛に満ちあふれることにもなります。ですから、私たちの日々の暮らし、日常は、豊かで清々しい心地よいものになるはずです。イエス様がイザヤ書を引用し、ファリサイ派や律法学者たちのことを「この民は口先で私を敬うが、その心は私から遠く離れている、人間の戒めを教えてとして教え、空しく私を崇めている」と厳しく咎めるのとは違って、御心の中に居場所を見出す私たちが、口先で神様とイエス様を敬うことなど、そもそもあろうはずもないわけですから、生きていることへの空しさなど感じようはずもないわけです。

 従って、前にも申しましたことですが、私たちの暮らしがそういう豊かさを実感させられるものであるわけですから、私たちの表情は、笑みを絶やさない、そういう穏やかなものとなるはずです。つまり、信じて救われていると、御言葉がそう語る現実のそのままが、私たちの表情にも現れ出るということです。ですから、当然のことではありますが、ファリサイ派や律法学者のように、目くじら立て、きりきりしながら、何かものを言うことなどあり得ません。今日の説教は短くて良かったと、素直に目を輝かせながら、喜々として、礼拝の喜びを言葉に表すことが赦されているように、この大らかさこそが、私たちでもあるということです。

 そして、それは、私たちだけに許されていることではありません。神様がイエス様をこの世にこうしてお遣わしになられたということはつまり、救われた喜びを実感するその扉が、すべての人々に対し、開かれているということであり、つまりは、ファリサイ派、律法学者にも、同じように開かれているということです。イエス様に選ばれた人々だけが、その扉を通ることが許されているわけではありません。ただ、イエス様が「あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだのだ」と仰るように、誰が選ばれるのかは、イエス様にしか分からないことではあります。けれども、罪深い私たちがこうしてイエス様の選びの中に置かれているわけですから、すべての人にその扉は開け放たれていると、「誰でも救われるキリスト教」と、そう言っていいのだと思います。

 ところが、その私たちが、ぼやくこと多く、大らかさを失ってしまうのはどうしてなのでしょうか。特に、クリスマスを迎えるこの時、牧師も、信徒も、穏やかな気持ちでクリスマスを迎えたいと思いつつも、ちょっとしたことに躓き、苛立ち、クリスマスの喜びに背を向けてしまうことがある。それは、心の置き所を見失ってしまっているからなのではないでしょうか。これは自戒を込めて申し上げるのですが、説教は大事なことではあります。命がけでやるべきことであるということにも異論はありません。けれども、それは、相手あってのことであり、もし分かち合う気持ちを欠いていたとしたら、どうでしょうか。自分の役割しか眼に入らず、そこでいくら自分自身が達成感や満足感を得られたとしても、信じるということと救われると言うことが、聞く者のその心の中で、一直線に結び合わされることがあるのでしょうか。また、だからこそ、心血を注ぎ、神様とイエス様との間に立ち、御言葉を取り次ぐと言うことが起こってもくるのでしょうが、ただ、本気で真剣でありさえすれば、それでいいということなのでしょうか。ファリサイ派の人々、律法学者らが、わざわざエルサレムからゲネサレトにやって来て、ユダヤの人々が当たり前のように受け入れていることをイエス様にも同じように求めようとしたことを思いますと、その本気度もさることながら、自分たちの信じていること、大切にしていることを真剣にイエス様と分かち合おうとしたと言うことでもあるのでしょう。しかし、御言葉は彼らの方が間違っていたと、イエス様の口を通し語るのです。それは、神の独り子に楯突き、口答えしたからではありません。本気であるかないか以前に、神様の御心を、彼らが思い違いをしていたからで、また、わざわざやって来ているところに、この思い違いの大きさが表されているということです。

 イエス様が、きりきりする彼らに向かって、父母を敬えとの戒めを取り上げ、その矛盾を指摘しているように、信じるということと救われている、清められていると言うことが、彼らが考えているようにすべて直線的に、矛盾なく結び合わされさえすれば、神様の御前にある生というものは、それほど難しいものではないのかもしれません。けれども、クリスマスを迎えようとするこの時期、私たちが日々実感するように、 信仰生活は、そう単純で易々としたものではありません。そして、それは、私たちが物わかりが悪いからではなく、しっかりとこの世の現実に生きているからであり、また、それだけ、御言葉を大事にしているからでもあります。しかし、そうであるにもかかわらず、ファリサイ派、律法学者のように矛盾を露わにし、また、それをあってはならないことと殊の外、毛嫌いする。それは、どうしてなのでしょうか。

 この難問のヒントとして、初めに申し上げた宝くじ売り場の男性の言葉に、どうして大勢の人々がこぞって聞き従わないのか、ということを上げることができるように思います。直線的で分かりやすい言葉は、一見すると正しいようにも思えるのですが、買うという行為と当たるという結果が、直線的に結び合わさることを、大勢の人々が知っているように、信じるということと救われるということの関係性も、これをしたから、あれをしないからという、そういうものではありません。むしろ、その反対であり、従って、ファリサイ派、律法学者の勘違いは、分かりやすさをどこまでも追求しようとする真面目さに起因するものであり、だから、こうすればこうなる、こうなるはずだ、だから、こうしなければならない、と、分かち合うという姿勢を一見保ちつつも、独りよがりな思いに縛られ、御心の中に置かれている自分自身をも見失うことになったのです。

 ファリサイ派、律法学者たちは、大切なことを一つ忘れていました。大事なことは、変わらずにいることではなく、御心によって変えられていくことです。そして、それは、矛盾を矛盾として受け入れることであり、矛盾を我がこととするということでもあります。ただ、そのことはまた、自分自身が揺さぶられるということでもありますが、だからこそ、ファリサイ派、律法学者たちのように頑張りすぎるのではなく、信じるということと救われているということの間に置かれている神様の御心にお任せし、聞いていくことが大事なのです。破れを繕うかのように自分の力で矛盾を解決することが大切なのではありません。

 従って、御心の中に身を置く私たちが分かち合うべきものは、結果ではなく、その過程、プロセスだということです。その間にあるものを、私たちが分かち合おうとするからこそ、救いようもない罪深い私たちは、救いようもない現実から解放された自らをそこに見出し、救いを救いとして喜びをもって互いに実感することになるのです。そして、それが、神様の御心でもあり、具体的には、それが、神様の憐れみということです。また、だから、神様の憐れみを知るイエス様は、彼らの愚かさ、思い違いに気がつかせるために、父母を敬えという十戒の第五戒を敢えてここで語ったのです。

 父母を敬えというのは、道徳的な意味合いをもって、私たちに語られているものではありません。すべての命が父母、つまり、一人の男と一人の女から始まり、そして、その男と女を、神様が造られたように、私たちの命は、神様の創造という、この大きな出来事、秩序の中に置かれているのであり、それを語るのが、この父母を敬えという戒めなのです。だから、結婚は、神聖であるし、命はかけがえのないものなのです。そして、私たちが、この神様の御心を知ることができるのは、神様の御心の本質が憐れみであり、慈しみでもあるからです。だから、神様の憐れみと慈しみを実感する私たちは、矛盾するこの世の現実、破れ多い世界の現実の中にあって、なお、救われた者として、希望をもって、愛と慈しみをもって、歩み続けることができるし、また、神様の憐れみと慈しみに生きるからこそ、クリスマスの喜びを大勢の人々と分かち合わずにはいられないのです。憐れみと慈しみに富みたもう神様の御心の中に置かれている私たち一人一人であることを忘れず、クリスマスを喜びの中に迎える私たちでありたいと思います。


祈り




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