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待降節第3主日礼拝 説教 「良き知らせを告げ知らせよ」

日本基督教団藤沢教会 2017年12月17日

【旧約聖書】イザヤ書      40章1~11節
【新約聖書】マルコによる福音書   1章1~  8節

「良き知らせを告げ知らせよ」
 アドヴェントクランツの三本目のローソクに火が灯され、クリスマスを間近にする私たちに向かって、御言葉は、この日も大切なことを語ってくれています。「神の子イエス・キリストの福音の初め」との表題をもって語り始められるイエス様のご生涯の中に、今、私たちが見つめているものは何なのでしょうか。イザヤ書40:11の中で「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊を懐に抱き、その母親を導いて行かれる」と語られているように、この光景の中に、私たちは、私たち自身を見出すことが許されているということです。そして、このことはつまり、神様の約束の成就として与えられた飼い葉桶に眠るイエス様と自らとを重ね合わせることが許されているということでもあるのでしょう。それゆえ、この光景を見つめる私たちは、そこで、大きな安心感を得ることができるのです。

 生まれたばかりの我が子を抱く母マリアの姿は、喜びに満ちあふれています。そして、それは、父ヨセフも同じでありました。しかも、それが馬小屋のようなみすぼらしい場所であったとしても、そこには、神様の御心としての聖霊の働きが豊かに与えられているのです。ですから、先ほどのイザヤ書の最後のところでを文語訳、口語訳では、「乳を含ませる者を柔らかに導き給わん」「乳を飲ませている者をやさしく導かれる」と訳され、救い主が到来するその時が、神様の憐れみと慈しみが満ちあふれる、安心できる時でもあるというです。それゆえ、昨日行われたみくに幼稚園でのクリスマスにおいてもそうでした。神様の柔らかでやさしい御心に包まれた世界は、本当に良いものだと、イエス様の誕生の出来事に安心する私たちは、子供たちにも、そして、社会にも、そう伝えることができるのです。ただ、それにしても、どうして、御子の物語と自らとを重ね合わせる私たちが、御子の誕生を喜ぶ聖家族と同じように御子の誕生の出来事を喜び、また、そのことを通して、心から安心することができるのでしょうか。

 クリスマスシーズンを離れ、もう一度、その光景を見つめ直す時、そこで思うことは、何でしょうか。馬小屋は馬小屋でしかありませんし、そこはまた、家畜特有の臭いが充満し、お世辞にも衛生的で快適な場所だとは言えません。私たちの誰もが、そこで、子供を産みたいなどと思える場所でもありません。そして、それは、この年若い夫婦も同じでした。時が満ち、自分たちが置かれていた場所が、たまたまそこしかなかったというだけだからです。しかも、そのイエス様の生涯の最後は、どんなものだったのでしょう。それは、十字架であり、つまり、誕生の場面において、どれほどの神様の慈しみと憐れみが聖家族に向けられていたとしても、イエス様はじめ、聖家族の辿るであろうその後の歩みは、それに反するものでもあったということです。従って、十字架という悲惨な最期がすべてを物語るように、イエス様がどんなに人々の関心を引き、尊敬されたとしても、人の思い、この世の道理からすれば、この始まりにおいて落とされた聖家族を取り巻く暗い影は、生涯、聖家族の上から取り除かれることはなかったということです。

 けれども、マルコによる福音書のその表題が示すことは、御言葉がそれを含め、イエス様の生涯を福音と呼んでいるということです。つまり、私たち人間にとって、暗い影を落とすものでしかないイエス様のお誕生が、神様の御心に適った良き知らせであり、聖家族にとってもまた、それが、大きな喜びでもあったということです。従って、この落とされた暗い影の中にあってなお、聖家族と同じよう安心することができるのが私たちでもあり、だから、イエス様の生涯を、御言葉は福音と呼ぶのです。、

 福音とは、戦いの勝利、王の即位など、共同体全体の命運に関わる重要な出来事の到来を告げ知らせるものであり、誰にとっても悦ばしい知らせのことです。そして、この福音という言葉ですが、今日私たちの社会においても一般的に用いられ、しかも、正しく用いられているに至っておりますが、その理由は、教会が社会と正しく関わってきたということでもあるのでしょう。けれども、古代ギリシャ語の意味を正しく理解するに至ったとしても、十字架によってその生涯を閉じられたイエス様の物語を、御言葉が福音と呼ぶようには理解されてはいないように思います。それは、福音が福音として正しく理解されるためには、十字架のイエス様が、三日目に甦り、御子を信じるその群れと永遠に共にあり、そのイエス様に導かれていることを実際に経験するのを待たねばならないからです。ですから、ここに、私たちと世の人々の違い、つまり、救われた者とそうでない者との違いがはっきりと示されているとも言えるのでしょう。

 そして、この福音は、安っぽいものではありません。ですから、世の人々が福音を福音として正しく受け止め、また、受け止めるだけでなく、福音によって、私たちのように心からの安心感を得るためには、違いが違いとして、はっきりとしていなければなりません。ただ、違いが違いとして際立たされる必要があるのは、あの人は違う、この人は違うと、レッテルを貼るためではありません。いわゆる上から目線で選別することが、神様の御心ではないからです。洗礼者ヨハネが、安心感を得んとして、彼に群がる人々に向かって、「私よりも優れた方が後から来られる。私は、かがんでその方の履き物のひもを解く値打ちもない」と語っているように、私たちが安心できる理由は、ヨハネがそうまで語るように、イエス様がずっと私たちと一緒に居てくださっているからであり、だから、洗礼者ヨハネは、「私は水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は、聖霊で洗礼をお授けになる」と語ったのです。

 聖霊を受けるということは、極論すれば、私たちが、イエス様の聖なる家族に加えられたということです。来週のクリスマス礼拝において、二名の方の洗礼式が行われますが、先ほどから申し上げている安心感の根拠となっているものは、洗礼を受け、聖なる家族に加えられたからです。けれども、このような私の物言いについては、もしかしたら、違和感を覚えられた方もいることでしょう。安心感どころか、むしろ、それとはまったく正反対の気持ちに駆られることの方が多いと、牧師として、常々そう耳にすることが多いからです。そして、私自身、そう思うことがあります。また、だから、イエス様も、己が十字架を負えと仰ったのでしょう。聖家族に加えられたとしても、笑顔であり続けるには、忍耐が必要な場合が多いからです。ただ、笑顔でいることも、忍耐することも、それ自体が、今申し上げている安心感を得るための条件ではありません。むしろ、辛いとか、苦しいとか、嫌だとか、そういう点では正直であっていいし、辛いことを辛い、嫌なことを嫌だと、その正直な思いを押し殺すことで、私たちは本当に安心して、毎日を過ごすことができるのでしょうか。そんなことはないのだと思います。ですから、私が洗礼準備会の最後に必ず申し上げることは、洗礼を受け、教会員となり、しばらくすると、必ず止めておけば良かったと、そう思うことがあるということです。そして、そう申し上げるのは、だから、がんばれ、ということを言いたいからではありません。

 信仰においてこうして結び合わされた関係性に心から安住するには、ちょうど、イエス様の両親が、神殿で迷子になったイエス様から発せられたその言葉に躓きを覚えたように、不信感を抱くことが、時に必要な場合があるからです。それは、親子が同じ人格ではないように、親子が親子であることに安心するためには、実際に、破れる経験をする必要があるからです。ですから、洗礼を受けた私たちが、心から安心するには、自分と他者との違い、もちろん、神様とイエス様との違いというものを含めてのことですが、そこで、違いゆえに躓くという経験が、命と密接に結びつく私たちの信仰においては、時に必要な場合があるのです。しかし、だから、躓けばいいし、躓かなければならないということではありません。聖なる家族に加えられた私たちがどうして躓くことになるのか、最後に、躓く理由とそうなったときにどうすればいいのかをお伝えしたいと思います。

 私たちが福音を福音として聞き、経験する場所とはどこでしょうか。それは、教会であり、この礼拝であるのは間違いありませんが、私たちにとって、福音が福音としての意味を持つところは、私たちが現に生きている場所、つまり、日常の暮らしの中でこそ、福音は、福音としての大きな意味を持つのです。なぜなら、福音によって生かされるところは、神様の祝福が具体化される、人と人とが共に暮らすそれぞれの日常以外にはないからです。

 人は一人では生きていくことはできません。様々な人々、事柄との関わりを通して成長するのが、人間というものです。そして、そこで、こうして生きているということに安心できるのは、関わりを通して、自分がそこにいていいんだと、暗黙の内に受け止めているからです。従って、生まれたばかりのイエス様が母マリアに抱かれ、この母よりお乳をもらい、成長していったように、温かい環境と十分な愛を受け、自ずと育まれるものが、ここにいていいんだという安心感でもあり、ですから、礼拝において、私たちが聞いている神様の声、教会において実際に体験している神様の働きかけを現実のものとしている私たちは、だから、安心して生きることができるということなのです。また、だから、教会にこうして繋がり、聖家族の一員であることの経験が、信仰者としての自信や安心をさらに強めることにもなるのです。

 ただ、そのためには、互いに関わることが必要です。それを避けて、安心感が養われることはないからです。ですから、そのために必要なことは、互いにその名をもって呼び合うということ、慈しみをもって触れ合うということです。つまり、母マリアがイエス様に向かって、イエスちゃん、イエスちゃんいい子だね、かわいいね、とそう幼き日のイエス様に繰り返し語りかけたに違いないように、主にあって、新たに生み出された命が、愛されているという実感をふさわしく経験する必要があるのです。何かができるできない、するしないという、条件ずくのことで安心感を得るのではなく、その存在自体が肯定されなければならないのです。

 けれども、いるだけで得られた安心感は、成長と共にやがて少しずつ変化していくものです。不信感などの躓きは、そうした中で生じるものでもありますが、けれども、その時、そこで、呼びかけあった経験もなく、また、触れ合った経験もなければ、私たちは、戻るところを見失ってしまいます。ましてや、日常の暮らしにおいて、聖家族の一員であることに喜びすら感じられないような時、迫害などがまさにそういう状態に置かれることなんだと思いますが、そのようなとき、止めとけば良かった、何でこんなことになってしまったんだろう、と、そう思わないことがあるとしたら、そう思わないことの方が嘘なんだと思います。しかし、戻るべき場所を見失い、途方に暮れる経験をしてきたのが教会というものでもありました。けれども、そこで忘れてはならないことは、その中で、大きな意味を持つことになったのが、福音であったということです。それは、馬小屋の中で、飼い葉桶に眠るイエス様がその身をもって明らかにしてくださっているように、こうして洗礼を受け、聖家族の一人として招かれている私たちは、生まれたその時から世界を造られた神様によって、何もない、何もできない状態の中で、その存在が肯定されているからです。

 イエス様の誕生の出来事を、私たちが今年も喜びをもって迎えることができるのは、神様が変わらぬ愛をもって、私たちと関わり続けてくださっているからです。そして、その愛は、私たちが神様を疑い、イエス様を疑い、聖家族の一員であることに不信感をもったその時にも変わらずに働きかけられているものなのです。だから、その私たちがこの先向かい行くところは、今がそうであるように、神様の御心の中以外にはあり得ません。この御心の中が、私たちのいるべき場所であり、帰るべき故郷でもあるのです。そして、そのことを私たちは、飼い葉桶に眠るイエス様の姿を通して、今年も経験しようとしているのです。ただ、その私たちが、どうしても、安心感ではなく、不信感、不安感に流されてしまうのですが、けれども、だからこそ、クリスマスは、私たちにとって、喜び大きいものとなるのです。

 今年は、クリスマス委員会の発案によって、教会の玄関には、イエス様の降誕の模型、いわゆる、ネイティビティー、クリッペが飾られておりますが、その中心にあるのは、もちろん、飼い葉桶に眠るイエス様です。この何も持たない、何もできないイエス様が、私たちの現実をすべてご自分のものとして受け止め、その生涯を通して、この方と共にある私たちの命を守り、支え、導いてくださっているのです。このことはつまり、イエス様を見つめ、見つめるだけでなく、イエス様と共に歩む私たちは、どんな闇に沈むことがあっても、イエス様がそうであるように、神様によって祝福され、その命が根底から支えられているということです。

 聖家族の一員であることに自信が持てないときがあります。それ自体に嫌気がさすこともあります。けれども、だからこそ、その時、飼い葉桶のイエス様をしっかりと見つめる者でありたいと思うのです。飼い葉桶に眠るイエス様、それは、イエス様を信じ、神様に愛されている私たち一人一人の姿であり、イエス様が人の姿をもって、父ヨセフ、母マリアによって、育てられたように、私たちもまた、聖家族の一人として、教会の交わりの中で、その名を呼ばれ、慈しみをもって触れ合い、関わるすべての人々の手によって、その命は、養われ、育まれるものなのです。

 それゆえ、飼い葉桶に眠るイエス様の姿に自分自身の姿を重ね合わせる時、私たちは、そこで必ず大きな安らぎを実感することができます。そして、それが、私たちの日常であり、日々の暮らしでもあるのです。そして、神様は、今年も、このイエス様を見つめる私たち藤沢教会の日常へと多くの人々を送り出されようとされています。ですから、飼い葉桶に眠るイエス様に声をかけ続けたヨセフとマリアのように、すべての命を祝福へと招く神様が送り出される多くの人々に、その名をもって呼びかけ、慈しみをもって触れ合い、クリスマスの喜びを分かち合う私たちでありたいと思います。

祈り




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