印刷用PDF(A4版4ページ)
待降節第4主日クリスマス主日礼拝
   説教 「あなたがたはなんと幸いなのでしょう!」

日本基督教団藤沢教会 2017年12月24日

【新約聖書】ルカによる福音書   1章39~56節

「あなたがたはなんと幸いなのでしょう!」
 クリスマスおめでとうございます。アドヴェントクランツのローソクのすべてに火が灯され、 祈りの内に待ち望んで参りました主イエス・キリストのご降誕を盛大に祝う準備が整いました。今年も、このように皆さまと共にクリスマスの喜びを分かち合えます幸いを心から主に感謝します。ただ、そこで忘れてはならないことは、クリスマスが、ある特別な人たちのためだけにあるのではないということです。クリスマスが、何度経験しても飽きない、喜びに包まれるひとときであるように、すべての人々が幼子のごとく喜び祝うことが許されているのがクリスマスでもあります。そして、それは、御子の誕生を祝うことについて、神様が、誰一人として、その喜びから遠ざけてはいないからです。つまり、インマヌエル、「主我らと共にいます」信仰ゆえに喜び合う私たちだけでなく、神様は、すべての人々とクリスマスの喜びを分かち合おうとされている、それが私たちが待ち望んだクリスマスなのだと思います。

 ですから、メリークリスマスと言い交わすその笑顔が表すように、クリスマスの喜びは、分かち合えばこそのものであり、つまり、ある限られた人々だけが独占すべきものではないということです。それゆえにまた、私は、ある特定の宗教云々ということではないと、そのようにも思っております。けれども、それは、宗教の垣根を越えてということでもありません。すべての人々、すべての命が喜び祝うもの、世界の造り主である神様が、この日、唯一願っておられることは、すべての人々をイエス様ゆえに笑顔にすることであり、そして、クリスマスは、それを信仰の眼差しを持って味わい知るということに尽きる以上、私たちの信仰を度外視して成り立つものではないからです。

 さて、そうした中で、2017年を振り返り、思うことは、政治的にも経済的にも話題に事欠かなかった一年であったのは間違いありません。特に、キリスト教福音派から多くの指示を集めているトランプ政権発足後の世界は、一致ではなく、分断、分裂へと向かいつつあるように思います。従って、宗教間の亀裂等を含めた世界情勢は、最早対岸の火事とは言えないようにも思いますが、ただ、だからこそ、御言葉に立ち帰りつつ、私たちにとって、こうしてクリスマスを祝うことがどういうものであるのかを考えてみたいのです。それは、クリスマスを祝うということが、経済指標で推し量ることのできるものでもなければ、政治的な流れに左右されるものでもないからです。

 エリサベトが、イエス様の母マリアに向かって、「あなたの挨拶のお声を私が耳にしたとき、胎内の子は喜んで踊りました。主が仰ったことは必ず実現すると信じた方はなんと幸いでしょう」と語るように、御子の誕生を祝う準備が整った中で現される素直で素朴な気持ち、それが、クリスマスをお祝いする上での喜びであるように思います。つまり、政治的趨勢や経済的合理性などに影響されないのが、クリスマスを喜び祝うということです。むしろ、神様の御心は、そうしたものとは一線を画し、その対局にクリスマスを祝う私たちを置こうとしている、そのことが、マリアの讃歌、いわゆる、マニフィカートと呼ばれているクリスマスの度に歌われるこの讃歌を通して現されてもいるのです。それゆえ、マリアの讃歌はこう歌います。「権力のある者をその座から引き下ろし、身分の低いものを高く上げ、飢えた人を良いもので満たし、止めるものを空腹のまま追い返されます」と、このように、驕り高ぶる者をそのままにしておかないのが、イエス様をお与えくださった神様であり、神様が御子をお遣わしになったのは、その力を私たちにはっきりと示されるためでもあったということです。

 従って、クリスマスを祝うということにおいて、私たちは、数に頼るような真似はしません。自らが持っているものを殊更に誇示したり、あるいは、持っていないことに苛立ったりすることもありません。もちろん、分かち合うことに背を向けるように譲り合い、また、交わりを踏みにじるように卑しい奪い合いをなすこともありません。それは、神様ご自身が、それを望んではおられないからです。神様が望んでおられることは、すべての命が、御子を迎えた喜びを共に分かち、笑顔になることです。そして、それは、人が規定する宗教という枠組を固く堅持しさえすればそれで得られるものでもありません。聖霊に満たされたエリサベトが喜び、生まれる前のエリサベトの子もそのお腹の中で喜びを露わにしたように、御子と出会ったという人々のこの経験こそが、その人を、そして、その人と関わるすべての命を、喜びへと導くのです。そして、人がそのように喜びへと導かれるのは、六ヶ月の身重の身である母マリアが、ザカリアの妻エリサベトを尋ねたように、主と共にある者が近づき、悲しむ者、苦しむ者、虐げられた者、蔑まれ軽んじられている者を笑顔にしたいと心から願い、近づくからです。特定の立場を主張し、べき論でしか事柄と向き合うことしかできない頑なな人の手を借りてなされるものではないということです。クリスマスの喜びは、力ある者、優れた人々と神様との間で交わされた取引によって得られるものではなく、喜ぶ者と共に喜び、悲しむ者と共に悲しもうとする、共に生き、共に歩む、命を共に分かち合い生きる人々の中で生じるものが、クリスマスを共に祝う喜びなのです。

 それゆえ、マリアの讃歌の最後では、次のように歌われています。「その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、私たちの先祖に仰ったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに」と。つまり、世界中の人々が、アブラハムゆえに神様の祝福の中に置かれることを願っておられるのが私たちの神様であり、その神様を、私たちは信じているのです。それゆえ、気の合う人々、理解し合える人々、趣味の合う人々とのみ、その喜びを分かち合うことを、神様は願ってはおられません。けれども、実際のところはどうでしょうか。今日の世界情勢を見ても明らかなように、それができずにいるのが、こうしてクリスマスを祝う私たち人間であるように思います。それは、理解し合える人々、気の合う人々と共にいる方が、気が楽だし、よっぽど楽しいことをよく知っているからです。また、だから、自分たちが楽しみ喜ぶために、条件に合わない人々のことを無視し、排除しようとするのでしょう。

 ですから、苦境に立つ人々は、そこで白馬の騎士の登場を期待するのでしょうが、これは、皮肉な話ではありますが、でも、それが、クリスマスを喜びの中に祝う、私たち人間の置かれた一方の現実であるのかもしれません。アメリカの保守派の人々にとって、トランプ大統領が、まさに白馬の騎士とその目に映ったように、一方の立場の人々にとっての白馬の騎士は、一方の立場の人々にとってのダークヒーローということでもあるからです。それゆえ、イエス様についても、同じような見方が成り立つことにもなりましょうし、また、そのことを理由にキリスト教への批判が巻き起こることもあるのでしょう。けれども、そうであるからこそ、クリスマスを祝う私たちだけは、イエス様のことを見誤らないように、しっかりと見つめる者でありたいと思うのです。

 イエス様は、白馬の騎士でもなければ、ダークヒーローでもありません。神様に良いものとして造られた私たち人類すべてにとっての救い主が、私たちの主、イエス様なのです。そして、御言葉が、そう告げ知らせてくれている以上、クリスマスを祝うということにおいて、少なくとも私たちは、人が作り出す囲いの中に御子の誕生の出来事を置き、まるで箱庭を眺めるようにクリスマスを祝うことはしません。ただし、それは、人間の営みとして、神様に導かれ歩んだこれまでの歴史、その中で形づくられたキリスト教という信仰を拙速な判断によって軽んじていいということではありません。イエス様が見方によって、白馬の騎士にもダークヒーローのようにも見えるということではなく、イエス様が救い主として変わらずに世界と共に歩んでくださっていることへの信頼とその希望をどんな時にも置くということ、クリスマスを祝う私たちの信仰が真実に形あるものされるのは、インマヌエル、「主と我らと共にいます」信仰の歩みを、教会が変わらずに続けてきたからです。そして、このことはまた、教会が、この世において、美しい世界に安住してきたということではありません。

 信頼は裏切られ、希望すら与えられない、そんな歩みをこれまで歩んできたのが教会でありました。ですから、クリスマスの喜びとその祝いの出来事を、教会が、今日まで正しく受け継いできたと言えるのは、この世に対して、正しく絶望すればこそのものだったということです。そして、この正しく絶望するということですが、それは、イエス様が白馬の騎士でもなければ、ダークヒーローでもないということを、教会の人々が深く知らされたということでもありました。けれども、このことはまた、もしかしたら、幼子が、サンタさんが実はお父さんだったと、この衝撃的事実を知らされるのと、根っこは同じなのかもしれません。サンタが自分のところにやって来ない子供にとって、クリスマスほど、悲しく切ない時はありません。そして、この悲しみに沈む子供に、私たちが何もすることができないとしたら、クリスマスを祝うこと自体、罪深いことのようにも思えます。それゆえ、そこでなお祝おうとするなら、それこそ、隠れてこそこそするしかありません。けれども、今日、御言葉が私たちに告げ知らせてくれていることは、クリスマスは、そうであるからこそ、堂々となされるべきものであるということです。

 年老いて子もなく、神様の祝福の外に生きるしかなかったザカリアとエリサベトにとって、また、すべてが詳らかになったとき、世の人々より言われなき批判を浴びられかねないヨセフとマリアにとって、クリスマスを喜び祝うということは、彼らの置かれているもう一方の現実を現しています。そして、御言葉は、彼らが求めるものを手にしたしないというところで、クリスマスの喜びを言い表そうとはしていません。そのお腹の中にある新たな命と命が出会い、その喜びが分かち合われたように、イエス様がお生まれになったことで、すべての命は神様の祝福の中に置かれている、クリスマスの出来事は、この事実をクリスマスを祝うすべての人々に伝えているように思うのです。また、だからこそ、クリスマスは、全人類にとっての喜びであり、また、だから、マリアの讃歌の中でも、「身分の低い、この主のはした目にも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も私を幸いなものと言うでしょう。力ある方が、私に偉大なことをなさいましたから」と歌われているのです。つまり、クリスマスを祝うことで与えられる幸い、神様が偉大であると言える根拠、私たちが味わい知る喜びの根っこに置かれているこれらのものは、神様によって造られた命そのものの貴さと、子から孫、孫からその子へと命が受け継がれるように、命そのものが持っている可能性とその広がりにおいて、現されるものなのです。そして、この日、まさに、エリサベト、マリアと同じように、このことを喜びの中に経験しているのが私たち藤沢教会でもあるのです。

 説教後、お二人の方の洗礼式とすでに洗礼を受け、信仰をもって歩んでこられたお一人の方の転会式が行われますが、クリスマスの喜びは、洗礼というこの出来事を通し、またはっきりと表されることでもあるのです。それは、イエス様のお誕生の出来事を通し、命が命としてあるそのままの喜びが、二つの家族と家族とを結び合わせ、共に分かち合われたように、人がこうして生きるということ、生きているということが、イエス様と共にあるがゆえに喜び多いものとされることを、洗礼というこの出来事が明らかにしてくれているからです。私は、お二人の方と受洗のための備えの時を共に過ごす中で、改めて、そのことを知らされたように思います。イエス様と出会い、イエス様と共にある歩み、その命へと導かれるお二人の姿、まさにキリストのものとされ、新たに生まれようとしているお二人のその姿を通して、そのことを知らされたように思います。そして、それは、すでに洗礼を受け、信仰者として歩まれた一人の方についても同じでした。人として私たちと同じように歩まれたイエス様のそのご生涯がすべてを現しているように、私たちがこの世においてどのような局面に置かれようとも、すべての命は神様のものであり、それゆえ、私たちは、このイエス様ゆえに神様の祝福に与って生きることが許されているのです。

 ですから、このことは、私たちにとっては、世の中でいうところの宗教云々の話などで片付けることはできません。イエス様を信じる私たちにとって、このイエス様ゆえに人間も人間が生きる世界も、すべて神様の祝福の中に置かれているのであり、だから、イエス様がそうであるように、命を命として喜ぶことのできる私たちは、クリスマスのこの時だけでなく、その生涯を通じて、神様を愛し、人を愛し、神様と人と共にあることを喜びの中に歩むことができるのです。ただ、そのためにも、私たちは、共に祈りを合わせるものでなければなりません。自分の言い分、主張だけを言い放って終わるのではなく、困難な問題など、その背後にある事情をよく弁え、それは、ちょうど、母マリアがそうであったように、御心がなりますように、と祈りを合わせるものでなければならないのです。

 クリスマスを喜びの中に迎えたヨセフとマリア、ザカリアとエリサベトが、クリスマスの喜びの中のその生涯を過ごすため、そのためにまた、我が子のため、家族のため、共にある人々のため、困難な現実と向き合いつつ、恐らくは、日々祈り続けたであろうように、祈りの中で見出したものが、神様の祝福の中に置かれている、幸いな命の姿、自らの姿であったのは間違いありません。そして、それは、洗礼を受け、主のものとされた私たちもまた同じなのです。ですから、焦らず、急がず、慌てずに、神様の御心が必ずなると信じて、祈りの内に神様の御心に留められている自分自身の姿を思い起こし、感謝と喜びをもって、これからもこの地で歩み続ける私たち藤沢教会でありたいと思います。

祈り




曇 10℃ at 10:3