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降誕節第1主日礼拝 説教 「喜び踊れ、喜び歌え」

日本基督教団藤沢教会 2017年12月31日

【旧約聖書】イザヤ書        49章7~13節
【新約聖書】マタイによる福音書   2章1~12節

「喜び踊れ、喜び歌え」
 まもなく、2018年が始まります。それゆえ、迎える2018年の歩みが、幸多からんことを願わずにはいられないのですが、それは、喜びとは正反対の方向へと私たちを向かわせる様々な難しさを知っているからです。けれども、また、だからこそ、クリスマスの出来事はそんな私たちにとっての喜びとなったのです。ですから、主の祝福の中にクリスマスを迎え、主我らと共にいます、その喜びに包まれつつ、2017年最後の礼拝へと導かれている私たちに向かい、御言葉が語りかけてくれていることは、イエス様を拝し、新たな歩みへと向かう東方の博士らと私たちとは同じ気持ちにあるということです。つまり、こうして主の御前へと集められる者は、皆、邪気のない喜びを感じるものでもあるということです。また、だから、イブ音楽礼拝の際にも、初めての方、久しぶりの方が、来て良かったと感謝の言葉を口にしたのでしょう。このことはすなわち、私たちの礼拝に出席された多くの方たちが、その時、イエス様を拝す、今の私たちと同じ気持ちに包まれたということであり、主の降誕の出来事の中に置かれているものは、自ずとそのような気持ちにさせられるということです。

 しかし、一方ではまた、この喜びを感じぬまま今年のクリスマスを迎え、未だその気持ちに縛られ過ごす大勢の方たちがいるのも確かなことです。ですから、そうした方々を前にし、私たちは、安直に、邪気のない喜びが大切だなどと口にすることはできません。ましてや、全ての人が同じように喜びを感じるのがクリスマスだなどと、あたかも人の心を支配するような決めつけをなすこともできません。それが今の私たちがこうして立っている向こう側に見える、もう一つの現実でもあるからです。従って、こうしてクリスマスを迎えるということはつまり、今の私たちの感情だけがクリスマスのすべてを言い表していないということです。そして、それは、私たちがそう考えるまでもなく、そもそもクリスマスとは、そういうものでもあるのだと、イザヤ書もまた、そう私たちに語りかけてくれているのです。

 悪意のある一言よりも、善意に満ちた、何気ない一言が、人を深く傷つけ、悲しませるということがあります。そして、皮肉なことに、その邪気のなさが返って、人の敵意や憎悪をかき立て、まさに、その邪気のなさゆえに、人をしてヘロデのような姿を現させることがあります。ですから、ヘロデのここでの反応は、主イエスの誕生への不安や恐れからというだけではありません。裏を返せば、東方の博士たちの邪気のない喜びに触れたからであり、主イエスがお生まれになったことへの不安と恐れ、そして、博士らの邪気のない喜びが、ヘロデをしてその抑えがたい感情を吹き出させることにもなったということです。そして、そこで興味深い点は、そういうヘロデの気持ちにエルサレムの人々が同調しているということです。吊り橋を歩く際、知らず知らずのうちに吊り橋の揺れに人の動きが同調していくように、ヘロデとそう遠くないところにいるエルサレムの人たちもまた、ヘロデと同じような心持ちにさせられていったということです。このことはつまり、一つの空気感が人をして、知らず知らずのうちに、邪気に満ちたものへと変えることがあるということです。しかし、そうした空気感が支配する中で現されたものが、またクリスマスの喜びであり、聖書の御言葉でもあったのです。

 ですから、私たち信仰者としては、そのいずれに同調すべきなのかは、答えを待つまでもありません。なぜなら、東方の博士と同調するように、クリスマスを喜んでいるのが私たちだからであり、また、だから、そんな私たちと波長を合わすように、イブ礼拝に訪れた方たちもまた、クリスマスの喜びに包まれることになったわけです。ですので、東方の博士たちの姿は、クリスマスをクリスマスとして喜ぶ者の原型としてここに描かれているのは間違いありません。御子の誕生を喜ぶ者は、自ずとこの博士らと同じような振る舞いをなすようになるのだと、そのように考えてもいいと思います。そして、それが、まさに、御言葉が私たちに語らんとしていることでもあるのです。

 ですから、今申しましたことを含め、それがクリスマスを喜ぶ、ということでもある以上、私たちもまた、自ずとそれぞれの手にする乳香、没薬、黄金を、跪き、喜び、主に献げることにもなるのです。ちなみに、ルターは、この乳香、没薬、黄金を、信仰、希望、愛に喩えているのですが、それは、信仰、希望、愛こそが私たちに与えられている、最後まで残る最も大きな恵み、賜物だからであり、ですから、主に対して、この自ら受けた恵み、賜物を献げることこそが、その喜びを表す上で最もふさわしいことでもあるということです。従って、それは、クリスマスのこの時期に限ってということではありません。イエス様を信じる私たちに絶えず求められていることであり、つまりは、主の御前に跪き、主を礼拝する私たちは、常にこの献げるという信仰を大事にしていかなければならない、クリスマスの喜びに包まれるこの時だからこそ、この献げる信仰の大切さ、主の御前に立つ喜びはまさに献げることによって始まるのだということを、このとき、特に覚えたいと思うのです。

 ただ、そこで、だからこそ思うのです。ここでは、まさに右と左、正しい者と悪い者、喜ぶ者と恐れおののく者とが主イエスを中心に振り分けられており、その状況下で、私たちが、そのいずれを選ぶかが問われているのは間違いありませんが、けれども、それが、この時、ここで、私たちが聞くべき事柄の中心なのかということです。主イエスは、弟子たちと共に福音を宣べ伝える中で、「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と仰っているわけです。確かに、私たちそれぞれが、東方の博士らに自分自身を重ね合わせてみることは大切なことではありますし、私たちの信仰がそこから始まっていくのも間違いのないことです。しかし、私たち自身、ヘロデのようにとまでは行かなくとも、邪気のない喜びに触れたその時、隠し通すことのできない自分自身の邪気、悪意、意地悪な気持ち、人の喜びを喜ぶことのできない哀れな自分自身の姿、そうしたものが顔を覗かせ、怒りや敵意、挙げ句の果てには憎悪となって現れ出るということはないでしょうか。さらに申せば、救いの宣言が、その不安をかき立て、恐れを抱かせるようなことはないでしょうか。つまり、福音自体が私たちの重荷となることがないかということです。

 私自身のことを申せば、そういうことがあるということは否定できません。もちろん、私自身を基準にするつもりもありませんが、やはり、人には、そういう罪深さがあるように思うのです。そしてそれは、どんなに立派な人でもそうです。無意識のうちに現される無邪気さ、真面目さ、熱心さが、破れを広げる場合があるからです。しかし、また、だからこそ、そこで、福音は、福音として輝くことにもなるのです。それは、その人自身の罪、邪気が完全に取り除かれたからではありません。赦しがあり、赦されているとの実感が、その人をして福音の輝きを意識させることになるからです。ですから、そういう意味で、主イエスの降誕の出来事の中からヘロデをまるで私たちの信仰においては不要なものとすることはできません。いずれがと言うことを考えることはとても大切なことではありますが、その前に私たちは、しっかりと受け止めなければならないのです。主イエスの降誕の出来事の中に、東方の博士らもヘロデも、その両方がそこに置かれているのであり、それを踏まえた上で語られているのが、ここでの出来事でもあるからです。

 そこで、ここでのことを写真に喩え、語っていた人のことを思い出します。写真は、焼き付けがへたくそだと、きれいに仕上がることはありません。ですから、そこで、私たちは思うわけです。焼き付けがうまくないから、自分の信仰はダメなんだと。ですから、腕を上げるための努力を、私たちは惜しみませんし、何とかいい作品を残そうと、懸命になるわけです。でも、そこで、修正を施し、ヘロデの姿を消すことが、いい写真だと言えるのでしょうか。朝令暮改を繰り返す私たちは、その心にキリストを染みこませ、いつまでも色あせることない自分自身の姿を映し出そうとして、神様に頼るのですが、けれども、一瞬の輝きを映し出す写真も、やがて色あせて行くものです。ただ、後で振り返り、あの頃は良かったと、思い出に浸ることが私たちに課せられた使命ではありません。私たちに常に新たな喜びを与えるもの、それが私たちの信仰であり、また、この喜びが伴うからこそ、ルターは、信仰、希望、愛こそを献げよと、そう言ったわけです。では、どうすれば、私たちは、常にこの喜びを感じることができるのでしょうか。

 この喜びを絶えず、1年365日、その一生にわたり、常に感じ続けることのできる者はおりません。苦しみや悲しみ、怒りやそれ以外の感情へと、その心の針が大きく振れることがあるからです。また、だからこそ、何とかしなければ、何とかしなければ、と人はそう思うのでしょうが、この何とかしなければ、というところからは、御言葉が語る喜びの感情が芽生えることもありません。そこで、すぐに顔を覗かせるものは、苦しみであり、悲しみであるからです。それこそ、結果、怒りや憎悪がその心に顔を覗かせるだけなのだと思います。けれども、私たち人間のこの醜い有様の中に来られたのが、イエス様でもあったのです。修正し、ヘロデの姿を消し去ったところにイエス様は訪れたわけではなく、東方の博士もヘロデも一緒にいるところに、イエス様は、送り出されてきたのです。

 新たな旅へと向かう博士らに対し、ヘロデの下へと戻るなとお告げがあったように、クリスマスの出来事を喜ぶことのできる者には、このように新たな道が開かれて行きます。それゆえ、この新たな旅立ちを前にする私たちは、この三人の博士たちの気持ちに自分の気持ちを重ね合わせていく必要があるのです。ただ、そのためには、この三人の博士らが、この時に何を見つめているのか、その後、何を見つめ続けているのかを心に留める必要があります。喜べるか喜べないかは、それは、私たちの気持ちの問題としては大きなことです。感情、気持ちを抜きに、信仰が成り立つものではないからです。ただし、そこで問われていることは、私たちの心の針がいずれの方向に振れているかどうかということではなく、私たちがその時、何を見つめているか、何を見ているのかということです。

 ヘロデの下へと帰るなと伝えられた博士らの胸の内が具体的にどうであったかについては、御言葉は何も語ってはくれていません。平安の中に、事実を淡々と受け止めたとも言えるのかもしれませんし、また、身の危険を感じ、その心中は穏やかでなかったとも言えるのかもしれません。ただ、その完全なる答えは、私たちが天の御国に入る日を待たねばなりません。しかし、その心中はどうであれ、元の場所へと戻る博士らの顔には、やはり笑みが浮かんでいたと、私たちだけは、そう思うことができるのです。それは、この時、私たちが見つめる幼子は、十字架へと向かうイエス様であり、この世に生きる私たちの生、命を支える神様の導きに委ね、信頼する、この幼いイエス様の姿に、私たちに注がれた神様の御心を見ることができるからです。では、この神様の御心を見つめ、自らを重ね合わせる私たちの姿とはどういうものなのでしょうか。

 2017年もあと半日を残すだけとなりました。この一年がどのような一年であったのか、その受け止め方は、様々なのでしょう。しかし、様々ある私たちでありながらも、こうして主の教会に連なり、主の恵みを受けることで、主を知る新たな歩みが等しく、同じように開かれようとしているわけです。それが、藤沢教会にこうして集う私たちなのであり、特に、2018年は、私たちにとって、創立100周年を迎える記念すべき年でもあります。100年続いてきたということに、クリスマス前、藤沢教会を訪ねてくださったガールスカウトの女の子たちがとても驚いておりましたが、この100年続いてきたということの中に、神様の祝福と恵みが、私たちの中に現されているのは間違いないことであり、その私たちの神様が、新たな100年の歩みへと私たちを導こうとされているのです。

 このことはつまり、私たちがイエス様と共にいるからという以前に、イエス様が、イエス様のことを見失うことの多い私たちと共にいてくださっているということです。そして、ここに私たちの思いや考え、存在のすべてが置かれているのであり、つまり、それが、私たちが集められている藤沢教会というところでもあるということなのです。ですから、一年の一番最後を迎えたこの時、そのことをもう一度しっかりと腹に落としたいと思うのです。こうして集められている藤沢教会を信じ、イエス様を信じるにふさわしい教会となしていくということ、また、そのために、私たちは、神様の御前にあって、邪気のない素直さをもって、大らかで喜びに満ちあふれた、みんな一緒に楽しむことのできる交わりを絶えず意識したいと思うのです。そして、そこに、イエス様が共にいて下さるわけですから、私たちは、それぞれの心の中にイエス様を閉じ込めることで、信仰的満足を得ることはできません。そうではなく、罪深い自らの姿をしっかりと見つめ、その私たち一人一人をイエス様と共に、その御心の中に置いてくださっている神様の御心に感謝し、「見よ、兄弟姉妹が共に座っている。何という恵み、何という喜び」、この恵みと喜びとを携え、共に喜び踊りながら、新しい年へと進み行く私たちでありたいと思うのです。

 私たち藤沢教会にとって、新しい年がどのような年となるかは分かりません。けれども、私たちの気持ちがいずれに振れようとも、イエス様は私たちと共におられ、共にいますイエス様ゆえに、神様も私たちと共におられるのは、私たちのこの100年の歩みが明らかにするように間違いのないことです。ですから、私たちそれぞれの気持ちがいずれに振れようとも、常にこの事実に立ち、また立ち帰りつつ、新しい年をご一緒に過ごして参りたいと思います。

祈り




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