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降誕節第2主日礼拝 説教 「神の御心を心に納めて」

日本基督教団藤沢教会 2018年1月7日

【旧約聖書】ゼカリア書     8章  1~ 8節
【新約聖書】ルカによる福音書  2章41~52節

「神の御心を心に納めて」
 明けましておめでとうございます。クリスマスの恵みと喜びの中に迎えました2018年、皆さまにとりまして、どのような幕開けとなったでしょうか。ご家族と共にのんびり過ごされたという方、子や孫、大勢の家族が訪れうれしい反面、でも疲れたという方、普段と何も変わらなかったという方、あるいは、新年早々ひどい目に遭ったという方、などなど、様々であろうと思います。そして、神様は、そのように様々ある私たちをこうして2018年最初の主日礼拝へと招いてくださったわけですが、教会へとやって来るその道すがら、その頭の中にあったことは、神様のことだけだったでしょうか。恐らくは、それ以外のことをいろいろ考えながら、教会へと足を運んでこられたのだと思います。かくいう私もそんな一人でありました。何を思い、教会に足を運んできたのかと言いますと、お年玉代わりと言っては何ですが、長い説教は勘弁して欲しいと、そう皆さんのお顔にいつも書いてあるように、今日は、短く、短くと、そう心に刻みながら教会にやって参りました。ただ、繰り返し、そう心に刻んだのは、この日の御言葉が、また、そう私たちに求めるものでもあったからです。

 今日、御言葉が私たちに語ることは、イエス様親子の問題です。そして、親子、家族の話というのは、説明をし出せば長い話になってしまうものです。けれども、そこで、イエス様が仰っていることは、この話は、長い話にはならないと言うことですし、そもそも長くなること自体、何も分かってはいないのだと、そうイエス様が仰ってもおられるわけです。ですから、当然、やはり長くなるわけには参りません。ただ、そのためには、私たちが知っておかねばならないこと、分かっていなければならないことがあります。ゼカリヤ書は、それについて7-8節でこう語ってくれています。「万軍の主はこう言われる。見よ、日が昇る国からも、日の沈む国からも、私は我が民を救い出し、彼らを連れてきて、エルサレムに住まわせる。こうして、彼らはわたしの民となり、私は真実と正義に基づいて彼らの神となる」と。つまり、もうお気づきの方もいらっしゃることと思いますが、そこにあることは、まさに、今の私たちそのものについてのことだということです。

 私たちは皆、同じようにこうして神様の御前に集められているわけですが、ただ、先ほども申しましたように、皆が皆同じ状態、心持ちでこの場にいるわけではありません。陽の当たるところにいると思う者もあれば、陽の当たらないところにいると思う者もいる。しかし、立場や考え方の違う私たちが、どうであれ、エルサレム、つまり、神の神殿に住まうことが許され、それ故に神の民とされ、神様を神様として信じることが許されているのです。このことはつまり、神様と私たちは、神様によって、わたしの民と呼ばれるくらいに近い関係にあり、それが、こうして礼拝を献げる今の私たちでもあるということです。従って、この近さゆえに、神様から多くの恵みをいただいているのが、こうしれて礼拝を献げる私たちであると言うことです。ですから、それゆえにまた、聖書は、そういう私たちのことを神の家族と呼ぶのですが、では、具体的にそれはどういうものなのか、それについても、御言葉ははっきりとこう語ってくれています。

 ゼカリヤ書の4節以下に「万軍の主はこう言われる。エルサレムの広場には再び、老爺、老婆が坐すようになる。それぞれ、長寿ゆえに杖を手にして。都の広場は童と乙女に溢れ、彼らは広場で笑いさざめく。」とありますが、この光景がどういうものであるのか。それは、まさに私たち藤沢教会の今、この時の姿なのではないでしょうか。周りをご覧ください。穏やかに年を重ねられた方々が多くおられますが、それが、祝福された神の家族の姿であり、そのように共に住まう広場、場所が私たち神の家族には与えられているわけで、そして、それは、年を重ねたからということではありません。人は、自ずと誰もが年を取っていくものです。ですから、御言葉に記されていることは、ある特定の方に限ってのことではありません。「童と乙女もあふれ、笑顔さざめく」ともあるように、立場や考え、年齢を超えて、笑顔と笑い声の堪えない共同体、それが、神様ととても近い関わりの中に置かれている神の家族、主の教会そのものの姿だということです。ですから、この日の結論は、神様ととても近い関わりに置かれている神の家族である私たちは、神様ととても近いがゆえに、笑顔と笑い声が絶えることがないということで、つまり、私たちが知るべきこと、分かるべきこととは、この点に尽きるということです。ですから、私が今更長々と私が語るまでもなく、皆さんすでにお分かりのことなのだと思います。

 ただ、この家族についてではありますが、そのように分かりやすい一方で、イエス様の物語の明らかにするところは、近いがゆえの家族の分かりにくさです。すこぶるまっとうなことを言っているイエス様の両親に向かって、イエス様をして、何をわけの分からないことを言っているのかと、そう言わしめているのが御言葉でもあるからです。しかし、私たちの感覚からすると、イエス様の仰っていることの方が、よほど、おかしいし、筋が通りません。いくら神の子であっても、親に向かってそれはないだろう、そう思わざるをえないのが、今日のこの箇所だからです。

 12歳といえば、大きいとは言え、まだ子供です。そんな年齢の者が、親を心配させてまで好き勝手に振る舞っていいはずはありません。ましてや、親を心配させておいて、それを棚に上げるかのように口答えしていいはずもありません。先ず言葉にすべきは、ごめんなさい、そして、有難うであろうと思います。ですから、もし、自分の子供が、イエス様のような口の利き方をしたなら、皆さんならどうされるでしょうか。それを赦す親が世間を見回してどこにいるのかとも思います。けれども、御言葉は、そんなイエス様に反省を求めるどころか、母マリアの方が、言葉を飲み込み、それを心の中に収めたと記すのです。ですから、神の家族というのは、一体何のこっちゃ、と思わざるをえません。しかし、それにもまして分からないのは、今日の御言葉が私たちに語りかけてくれていることが、聖家族がそうである以上、それが、私たち神の家族の姿であり、有り様だということです。

 神の家族、特に、イエス様を中心とする聖家族の関係性を理解しようとするとき、私たちの多くは、こうあって欲しい、こうあるべきと言うところから考えるのではないでしょうか。つまり、それぞれの持っているある理想像から聖家族を、あるいは、こうして信仰によって結び合わされる関係性というものを捉えようとしてしまうということです。しかし、御言葉は、そういう私たちの思いに応えようともしませんし、また、応えないどころか、打ち砕こうとさえしている、そう思えて仕方ありません。それは、この破れの中にこそ、私たちの見るべきところが置かれているからなのですが、ですから、言葉を飲み込むしかなかった母マリアの姿は、そんな私たち自身の姿でもありましょうし、そして、ここで語られている幼き日々のイエス様の姿を、どうしてとの思いを抱えたまま記憶に留めたのが、イエス様と共に歩んだ母マリアであったということです。つまり、イエス様とのその暮らしの中から語られているものが、この母マリアの記憶であるということです。

 それゆえ、そこで重要な点は、ここでの出来事を心に納めるしかなかった父ヨセフ、母マリアについて、御言葉が「両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった」と語っていることです。つまり、親子、家族であっても、イエス様については、分からないところがあったということで、むしろ、母マリアが、分からないまま一切を胸に納めたとあるように、分かることも大事なことではありますが、ここで語られていることは、分かることよりも、分からないことの方が、神の家族が家族として歩み、成長のためには、時に必要な場合があるということです。けれども、そこで言いたいことは、だから、我が子の傍若無人さに、両親が耐え、人間として成長したということではありません。イエスが、両親に仕えてお暮らしになり、知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛されたと、御言葉にあるように、イエス様が、神様と人とに愛されるに相応しく歩まれたからこそ、分かりにくさをその胸に納めた母マリアも、夫ヨセフと共に、まさに神の家族として歩みを実感し、家族というものがどういうものなのかを経験することになったのです。

 ただ、それだけでは、ここに記されていることは、ある特殊な家族の記憶ということにもなりかねません。けれども、御言葉は、そのような、ある特殊な家族像を私たちに伝えようとしているわけでもなく、また、12歳の頃のイエス様の思い出話を披露しようとしているわけでもありません。分かることよりも分からないことを大事にする神の家族の姿、それを支えたのは、イエス様であり、もし、イエス様が、この家族を家族として一つにまとめることがなければ、母マリアは、最後まで分からないままで終わったことでしょう。また、もしそうであるなら、ここでのことは、こうして、私たちの元に届けられることもなかったでしょう。けれども、母マリアの記憶は、私たちの元にこうして確実に届けられているのです。それは、胸に納めたことの意味が、分かったからでもありますが、では、母マリアが分かったと思えたことは何だったのでしょうか。どうして、分からないことが分かるようになったのでしょうか。

 分かりにくさを抱えた聖家族が神の家族として成長し、また、教会という新たな姿をもって、神の家族が家族としての姿を留め、今日まで歩み続けることができたのは、十字架という、最も分かりにくい、そして、受け入れがたい出来事を経験したからです。そして、それと共に、この分かり難さの中に置かれている神様ご自身の御心を、なるほどそうかとの思いをもって、腹の中にストンと落とすことになったからです。ですから、ここでの分かりにくさは、その点をしっかりと視野に置いています。過ぎ越しの祭りという場面設定、少年イエスとあるこの言葉が、僕イエスと訳すことが可能であること、そして、両親がイエス様を神殿で発見したのが三日後であったという言及、これらの事実が、その点を物語っていると言えるからです。

 イエス様を家族として迎え入れた者が、その胸に納めたものの意味について、それが神様の御心だと受け入れるためには、十字架の出来事を実体験する必要があります。また、分からないことの意味が分かったとはっきりと意識させられるためには、十字架の有り難さを経験する時間が必要なのです。それは、十字架の出来事については、人間が理想化し、自分の自由にできるものではないからです。分かった、知るということは、イエス様のことをかごの鳥のように飼い慣すことではありません。私たちに与えられている救いとは、そういうことで得られる安心ではないからです。自分の思い通りにならない中で、でも、共にいる、居続ける、そういうところで与えられる、だから、決して揺るぐことがない、家族が家族であるがゆえに赦されている、家族としての喜びなのです。また、だから、御言葉は、そんな私たちのことを支え、守り、導く神様について、熱情の神とも言っているのです。

 分かりにくさを抱えたまま、どうしてとの思いを抱き、歩み続けることは、時に苦しく、神様であっても恨みたくなるものです。そして、それは、十字架へと向かうイエス様も同じでした。私たちのように四六時中、神様に文句を言うことはないにせよ、でも、十字架に際しては、神様に辛いと、そう一言を発したのがイエス様でもありました。けれども、そのイエス様が、ヨセフ、マリアと同じように私たちに寄り添い、私たちと生活を共にしてくださっているのです。それは、私たちのことを躓かせたくないからではありません。理想的な家族像にピリオドを打ち、けれども、そこで、私たちにイエスの救いの出来事を心から喜ぶ経験を共にするために、イエス様は、私たちと共にあるのです。ですから、ここに記されていることは理屈などではありません。理屈ではなく、神様がイエス様の親であるように、イエス様と共に神の家族へと招き入れられた私たちは、イエス様と特別な関係に招かれているのであり、だから、必ず、この喜びを自ずと経験することになるのです。それが、イエス様と共にイエス様の父の家にすでにこうして共に住んでいる私たちなのです。

 ですから、2018年という新しい年を迎えた私たちに向かって、御言葉が語ってくれていることは、とても単純なことです。今のこの暮らし、こうして共にある暮らしを支え、守るのがイエス様の父である神様である以上、私たちを絶えず新たな道へと導かれる神様との暮らしを、私たちは大切にしていいということです。ただ、そこには、破れや不満、あるいは、思い通りにはならない苛立ちの原因が置かれてもおります。それゆえ、こうあるべきだ、こうしなければならないとの思いが、私たちの心を支配することもあるのでしょう。しかし、たとえそうであっても、御言葉が私たちに語ることは、こうあるべきだということではありません。私たちがこうして共にいる場所が、神の家である以上、私たちが、分からないとの思いにどんなに駆られたとしても、信仰的、聖書的、教会的という言葉で自分の気持ちを誤魔化すのではなく、イエス様と共にある母マリアのように、 その正直な気持ちを私たちが胸に納め歩み続けるなら、聖家族はじめ、弟子たちがそうであったように、私たちは、必ず分かったと、心の底からそう思う時を迎えることになるのです。それが私たちの信仰であり、それが信仰をこうして受け継いできた教会なのです。

 その私たちが、間もなく、百周年の祝いの時を迎えようとしているわけですが、ですから、私たちが、そこで何を祝うべきなのかは明らかです。多くの失敗、多くの過ち、百年の歩みの中には、私たち自身、気がつかずにすませてきた罪も数多く含まれ、それゆえ、途中でその歩みが途絶えてしまっても不思議ではなかったはずです。けれども、こうして私たちはこの地に立たされ、そして、神の家族として、神様からの恵みをこうして分かち合い、歩むことが許されているのです。それが、こうして御言葉に聞くことの許されている私たちであり、ですから、神の家族であることそのものを私たちが喜ぶこと、すでにある人々のことだけを思うのではなく、家族というものが、祝され広がりを持つものであるように、まだ見ぬ家族のことを思い、それらの人々へと繋がるこの先を見つめつつ、変わらずに私たちと共にいます神様への感謝と喜びを共々に現すこと、100周年の祝いの時とは、そういうものなのだと思います。今、ここにこうして共にあることを素直に喜ぶ私たち藤沢教会でありたいと思います。

祈り




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