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降誕節第3主日礼拝 説教 「引き裂かれた世界」

日本基督教団藤沢教会 2018年1月14日

【旧約聖書】出エジプト記    14章15~22節
【新約聖書】マルコによる福音書   1章  9~11節

「引き裂かれた世界」
 礼拝に招かれている私たちは、御言葉と礼拝で献げられるその祈りを通し、新たにされた自らを知らしめられることとなります。それは、御言葉と主の御前にあって祈るその姿の中に、私たちは、自分自身の本当の姿を見ることになるからです。そして、その私たちが、今日、礼拝の中で、新成人を覚え、共に祈りを合わせるのですが、共に祈る私たちの向かうその先にあるものとは、神様の御心という、神様のはっきりとした意思です。それ故、新成人だけではなく、こうして御言葉に聞き、祈る私たちと共にある人々と共に、私たちは、希望へとその歩みを進めることになるのです。なぜなら、私たちの神様は、かつても、今も、そして、これからも共にいてくださる方だからです。ですから、私たちの目にするこの世界は、神が共にいます世界であり、 神なき世界ではありません。

 ただ、いるだけで、神様が何もしてくださらないのであれば、それこそ、そのような神様は、ただのお飾りに過ぎません。そして、人がそう思うのは、その罪ゆえのことでもあるのですが、ではどうすれば、そのような囚われから、人は解放されるのでしょうか。信仰は、そのためにまた私たちに与えられてもいるのですが、ですから、信仰の有無は、ここでの紅海徒渉を見ても明らかなように、生死を分けるほどの重要な意味を持つことになります。しかし、信仰が大切であるのは、私たちにとって、神様が役に立つ、都合のいいものだからではありません。むしろ、私たちは、そういうご都合主義と積極的に別れを告げねばなりません。

 神様が全く役立たずな方だと思い世界を見るとき、私たちにとっての世界は、仮に光が存在したとしても、闇に支配されているとしか思えません。ただ、そうした状況について、御言葉は、神ご自身の言葉として、こう語ります。「光を造り、闇を創造し、平和をもたらし、災いを創造するもの。私は主、これらのことをするものである」と。つまり、世界は、私たちの見たままの世界でもあるということなのですが、この見たままの世界を創られたのが私たちの神様だということです。つまり、人の役立たずとの思いは、そのまま、神様の御心に抗うことのできない私たちの置かれている現実を現しているということです。それゆえ、私たちは、最も見たくない、知りたくもない事実から眼をそらそうとするのですが、それが叶わないとき、その破れを自ら繕い、痛みを和らげることばかりを考え、この神様の現実に果敢にも立ち向かおうとするのです。ファラオの言いなりとなって、イスラエルの後を追うエジプトの軍隊が、まさに、そんな人間の姿を現しています。また、その愚かさを知る者は、それゆえ、光の側に身を置くことを願い、信仰の眼差しをもって、歩もうともするのでしょう。ですから、そういう意味で、絶体絶命の窮地に立つイスラエルの姿は、信仰を与えられているそんな私たちの姿でもあるのでしょう。

 しかし、そこで、私たちは、目の前にある壮大なスペクタクルに心を奪われてはなりません。神のなさることが、私たちの想像を遙かに超えたものである以上、エジプトの軍隊がそうであるように、人の目がそのことに釘付けになるのは当然のことだからです。それゆえ、私たちがエジプトの軍隊と同じことを繰り返すだけでは、御言葉が語る真実に触れたとは言えません。この時、私たちが心に留めるべきことは、神様の力強き御業に加えて、絶体絶命の窮地に立たされたイスラエルの人々の姿なのです。

 ピンチに立たされたとき、このスペクタクルは、私たちをとても力づけることでしょう。ただ、そこで御言葉が私たちに期待することは、二匹目のドジョウを見つけることではありません。もし、二匹目のドジョウを手にすることができなかったら、それでも私たちは、神様に信頼するでしょうか。そもそも初めから、神様に信頼さえしていなかったなら、その時は、どうするのでしょう。イスラエルの人たちが置かれている状況は、全く先の見えないものであり、従って、そこに自分自身の姿を重ね合わせるなら、このスペクタクルは、最初に思い描いたものとは、まったく違ったものに見えて来ます。しかし、だから、二匹目のドジョウに期待してはならないということでもありません。二匹目のドジョウの有無が、神様を信じるための目的ではないというだけで、だから、それがいけないと言うことではないからです。

 神様が信仰を与えるその目的は、神様の御心に期待する者も期待しない者も、大胆に乾いた地へとその一歩を踏み出し、イスラエルの民を、神様が一塊として、救い出してくださったということを知らしめることで、この大胆な一歩によって、一塊となった人々が、神様が共にいますことを経験したということです。それゆえ、この一塊となってということが重要なのです。なぜなら、初めから神様に何も期待しない者にとっては、紅海徒渉は、自殺行為に等しいものでありますし、また、二匹目のドジョウを期待するだけでは、イスラエルの後を追いかけたエジプトの軍隊と何も変わらないことだからです。そして、この一塊の中には、期待する者も期待しない者をいたのですが、そのようなイスラエルが一塊となって向こう岸に渡るための道を備えられたのが神様であったのです。

 そこで、絶体絶命な状況の中にあるイスラエルの人々の姿をもう一度思い起こして欲しいのですが、その姿はどういうものであったのか。そこには、こうだと言い張る者、いやそうではない、こっちの方がもっといいはずだと言い張って動こうともしない者、そうした中で、モーセのような者が立たされているのですが、こうした関係性については、私たちもよく知るところであり、また、そこで導き出される答えが、往々にしてどういうものなのかについても、私たちのよく知るところでもあります。そして、そこで導き出される答えとは、おおよそ三つのパターンに分けられます。一つは、妥協に妥協を重ねて無難な線で収める、二つ目は、折り合いがつかずに分裂する、そして、三つ目は、リーダーの卓越した力に期待するということなのでしょうが、ただ、妥協に妥協を重ねる時間的余裕もない中で、しかも、リーダーであるモーセの声もかき消され、さらには、分裂の危機さえ囁かれるその中で、待ったなしで、物事を決せねばならないわけですから、この状況の中で、皆さんなら、どうされるでしょうか。

 このいつ壊れてもおかしくない状況の中で、人の心を鷲掴みにしているものは、神様への信頼ではなく、恐怖、不安、神様への疑いでした。ですから、辛うじてバランスの保たれている一つの群れは、針先でちょっと突っつかれれば、たちまち、バーンと音を立てて崩壊することにもなったのでしょう。つまり、一塊で向こう岸に渡ることなど、まったくままならないのが、この時のイスラエルでもあったということです。ところが、その彼らが、モーセの第一声に従い向こう岸に渡り、この出エジプトの出来事を深く記憶することになったのです。それゆえ、出エジプトという経験が、イスラエルがイスラエルであるためのアィデンティティーを築くことにもなったのですが、ですから、ここでの出来事こそが、イスラエルの信仰の核心でもあるということです。そして、それは、彼らが、この状況の中で、大胆にその一歩を踏み出すことができたからなのですが、では、彼らは、どうして一塊となって、この偉大なる一歩を踏み出すことができたのか。それは、渋々であったのか、たまたまであったのか、いろいろ思い巡らせることはできるのですが、ただ、それはどちらでもいいことです。どうであれ、彼らは偉大なる一歩を踏み出すことができた、私たちが見つめるべきところは、この点にあるからです。

 御言葉が語る偉大なる一歩は、結果がすべて分かっている予定調和の世界でなされたことではありません。それゆえ、二匹目のドジョウが約束されているわけでもありません。偉大なる一歩は、かわいそうに、気の毒に、大変だね、という、そういう人としての素朴な気持ちを無視するものではないのですが、けれども、そのことに引きずられるようになされたわけでもありません。むしろ、人間にはそういうところがある、ということを認めつつ、けれども、神様に頼るのではなく、自分自身に頼ろうとする自らを、渋々であろうが嫌々であろうがどちらでもいいのです。どちらであろうが、しかし、そういうものを後ろに捨て去ることでなされたのが、偉大なる一歩となって、イスラエルの人々の記憶にしっかりと刻まれることになったということなのです。そして、このことはつまり、様々な拘りをもってしか歩めない自分自身に破綻し、そこで痛みを覚えつつも、なお、一歩を踏み出したからこそ、その一歩が偉大なる一歩となって、人々の心に記憶されたということです。ただし、このことはまた、だから、その一歩を踏み出せばすべて丸く収まるということではありません。神様が備えた道にその一歩を踏み出したのは、イスラエルだけではなく、エジプトの軍隊も同じであったからです。

 では、イスラエルとエジプトの軍隊とを分けるものとは何であったのか。その違いは、ただ一つです。向かうべきその先に何が待っているかが分からずとも、それが神様が備えられた道であることを知って、御心に委ね、一歩を踏み出したかどうかということです。このことはすなわち、それが、自らの罪に死に新たな命に生きるということでもあるのでしょうが、ただ、そのためには、破綻することを恐れ、自らにしがみつき、自分の力で何とかしようとは思わないことです。御言葉は、そんな罪ある自分自身にしがみつき、その思いによって溺れる人々の姿をエジプトの軍隊に重ね合わせて語るのですが、けれども、様々な思いに駆られつつも、その思いを後ろに投げ捨て、神様が備えた道に大胆に一歩を踏み出した民をその約束に従って、神様が確かな将来へと向かって導いたと語るのです。つまり、偉大なる一歩は、自分自身にしがみつくのか、それとも、神様にしがみつくのかの違いでもあるのですが、ですから、そこでの違いがどういうものであったのかをよく知っておくことは大事なことです。でも、そこでもう一つ大事なことがあります。それは、恐る恐る、渋々、嫌々踏み出すしかない、神様がその目の前に置かれた道には、神様の明らかな意思、御心が置かれているということ、個人的な気持ちはどうであれ、イスラエルを一つの塊として導こうとされているこの神様の御心を知っている、それが、私たちの信仰において、一番大切なことだということです。なぜなら、神様の意思、御心が置かれているところに、その一歩を踏み出す人々にとっての希望が置かれているからです。

 では、どうしたら、私たちは、神様の御心が置かれている進むべき道を見出すことができるのか。「わたしは道であり、真理であり、命である」とあるように、見出すべき道とはつまり、それが、イエス・キリストというお方なのです。御言葉は、イエス様が洗礼を受けたその直後、天が引き裂かれ、聖霊が下ったとたん、天よりイエス・キリストに向かって「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という神様の宣言がなされたと語ります。そして、この声が届けられる以前の世界がどんなものであったかと言えば、私たちの思いや考えが幾重にも重ね合わされた世界でもありました。ですから、私たち人間は、そんな私たちの思いが一つになれば、世界は一つにされると考えたのですが、しかし、一つにしようとするその思いの強さゆえに、また世界は引き裂かれ、人と人との間をますます分断させることにもなったのです。それゆえ、人の思惑だけでこの世界を見つめるなら、分断された状況は、人の手の届くところにあるだけに分かりやすく、また、分かりやすいだけに、そこに解決をつけることができない状況を、人はなぜと、そう思い込むことにもなるのでしょう。けれども、神様は、人がそう思うしかない世界にくさびを打ち込み、力尽くで引き裂き、イエス・キリストを通して、世界は、神が造られた本来の姿を取り戻し、そして、出エジプトの出来事を通してイスラエルの人々の目の前に希望を置かれたように、イエス様と共にあるその道の先に、神様の明確な意思を置かれたのです。つまり、天へと通じるイエス・キリストという一本の道を私たちの目の前に置き、神様の御心が、愛以外の何ものでもないことをはっきりと示されたのです。

 ですから、神様の造られたこの世界は、イエス様ゆえに神様と引き裂かれているわけではなく、分断されているわけでもありません。もし、世界が引き裂さかれ、分断しているとしか見えないのだとしたら、それは、私たち人間が、自分自身のことしか考えていないからです。そのため、神の意志のあるところに希望があることを知らない人たちは、いずれ破綻するしかない自分の考えにしがみつき、しがみつくだけではなく、それが正しいことであると、破れることへの恐れと不安がそう主張させもするのでしょう。けれども、自分の安心しか求めないそうした主張は、歪みを内部に蓄えるだけですから、やがて、歪みは、表に出て、人を巻き込む形で破れを広げることにもなるのでしょう。ですから、人を巻き込み、主の道から引き離すというところで、それが真実でないことは明らかです。ただ、この一般的にエゴと呼ばれているものは、誰もが持っているものでもあります。そして、このエゴは、歴史を見ても明らかなように、時に宗教的装いすら厭わないのです。ですから、このエゴに凝り固まった世界観ほどどうしようもないものはありません。けれども、このどうしようもない、凝り固まった覆いを、神様自らがその力をもって破り、イエス様という神様の御心をこの世界に打ち込まれたのです。そして、そのイエス様が、その私たちと共にいてくださっているのです。しかも、ただいるだけではなく、私たちと共に、天へと向かう新たな一歩を踏みだし、それゆえ、その一歩は、偉大なる一歩となることを、御言葉は私たちに約束してくれているのです。

 様々な背景を持つ私たちが、心を合わせ一つとなることは、容易なことではありません。その中で、それぞれの思いが表に出てくると、何が正しく、何が間違っているかも分からなくなることもあります。ですから、そういう中で、モーセがそうであるように、群れの導き手が何を言っても、人々の心を捉えることもないのでしょう。けれども、だからこそ、私たちは、思いたい、いや、これについては、神様と共にある偉大なる一歩を踏み出すために、私たちは、しっかりと受け止めなければならないのだと思います。私たちは、どこに集められ、どこに生きているのか。そして、そこで何を見つめ、しかも、ただ見つめるだけでなく、そこでどんな恵みを神様から直接いただいているのか、私たちの次の世代を担う青年のために祈りを合わせるこの時だからこそ、私たちは、今までも、今も、そして、これからも、変わらずにあり続けるイエス様に信頼してお従いし、大胆にその一歩を踏み出すことで、御心の置かれているところに新たな足跡を残すものでありたいと思うのです。

 そして、その神様の御心については、神様がいるかいないかというところから分かるわけではありません。「ある」という事実から出発し、「いる」との認識が与えられる。出エジプトの出来事も、イエス様の十字架と復活の出来事も、この点について私たちに語るものなのです。だから、私たち信仰者は、破綻することすら恐れず、神様の御心が置かれているその将来に向かって、大胆にその一歩を踏み出すことができるのです。間もなく、百周年を迎えるこのときであるからこそ、私たちの罪をも抱きしめてくださっているイエス様と神様に信頼し、あってある方への信仰を新たにする歩みを一塊となって現して行きたいと思います。

祈り




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