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降誕節第4主日礼拝 説教 「私たちの口にある言葉」

日本基督教団藤沢教会 2018年1月21日

【旧約聖書】エレミヤ書     1章  4~10節
【新約聖書】マルコによる福音書 1章14~20節

「私たちの口にある言葉」
 間もなく冬の平昌オリンピックが始まろうとしておりますが、世の人々のオリンピックへの期待感の大きさは、 五十年前の東京オリンピックと札幌オリンピックのポジティブな印象が未だ覚めやらぬがゆえのことでもありましょう。また、それだけに、そこから新しい何かが始まっていくだろうとの期待感が、二年後に迫った次回東京大会への期待をますます高めることにもなるのでしょう。ですから、オリンピックで一儲けしようと考える人々は、なおのこと期待に胸膨らませてもいることでしょう。

 しかし、一方では、オリンピックについては、批判的意見も大きいように思います。それは、今申し上げた、一儲け企み、利権にしがみつく人々の思惑というものが透けて見えるからです。ただ、少なくとも、市川崑の東京オリンピック、篠田正浩の札幌オリンピックの記録映画を見ても明らかなように、過去に行われたこの二つのオリンピックには、そういう負の側面が表に直接現わされることは、ほとんどなかったようにも思います。ですから、日本中が、大人も子供も、世代を超えて、その感動、興奮を共有し、熱狂することができたわけです。ところが、次回東京大会は、始まる前から、どこか、生臭さを感じさせるところがある、だから、それが鼻につく人たちは、盛り上がれば盛り上がるほど、痛くもない腹を探られるように思うのでしょう。それゆえにまた、盛り上がる人々の姿に不快感を募らせることにもなるのでしょう。

 けれども、人々の記憶に刻まれた過去二回のオリンピックが、だから、そういう生々しい人間的な側面と無縁であったということではありません。旬のものを旬のまま味わうためには、扱う人間が、素材の扱い方をよく知っていなければなりませんが、その時、多くの人々が生臭さを感じなかったのは、オリンピックという旬の物を扱う人々の技量が高かったからだと思います。しかし、だから、生臭さの元となるものが、初めからなかったということではありません。新しいものが新しいままでいられることはなく、いずれ、その賞味期限は切れるものです。ですから、それを放置していれば、必ず口にするのも憚れるような事態に直面させられることになるのですが、ところが、今はどうでしょうか。扱い方を知らない上に、それを目の前に出して、さあ食えと言わんばかりに言ってくる。しかも、夢、感動、新たな出発、発展と、異臭を発するものを美しい言葉で飾り立て、しかも、自分でも喜んでいるかのように食べて見せ、さあご一緒に、と勧めてくる。ですから、普通の人は、口にしないと悪いような気持ちにもなってしまうわけですが、でも、本当は食べたくない。腹の中を探られるような気持ち悪さを感じるのは、ある意味で、自分の領域を侵されたような気持ちになるからなのだと思います。

 そして、今、このようなことを申し上げたのは、人が語る信仰の言葉、人に有無も言わせず、ただ従わせることだけを目的として語られる、聖書的、信仰的、教会的という、やさしく丁寧なその言葉遣いの中にも、 それと似たようなことを感じることがあるからです。また、それだけではありません。今日のそれぞれの御言葉が、ある意味で、神様とイエス様が、それと同じようなことをなさっていると、そのようにも思わされることがあるからです。特に、これまで、聖書的、信仰的、教会的、という言葉を目の前に置かれ、痛くない腹を探られるような経験をし、何か言われることに警戒感を強めている人にとっては、このそれぞれの御言葉は、どのように聞こえてくるのかと思います。そして、そう思うのは、私もそのようなことを感じたことがあるからです。言っていることは正しいんだけど、でも、ちょっと、と、そう思ってしまうのですが、ただ、神様とイエス様が、でもちょっと、とそう思う、人が思った通りの方であるとしたら、聖書の御言葉は、身も蓋もない話ということになってしまいます。しかし、もちろん、そうではありません。ならば、そうではないのはどうしてなのか。それぞれの御言葉が、今日、私たちに語ってくれているところは、その点を含めてのことでもあるのでしょう。

 同じことを言われたとしても、この人が言っていることならとそう思える人とそうではない人とがおりますが、それでも、というところで、人が、神様とイエス様の言葉に耳を傾けることができるのは、言葉に表されているものとその中身とが一致しているからです。つまり、言葉だけがいくらきれいであっても、それが意味する通りのものでなければ、人がその言葉を聞き続けることは、難しいことでしょうし、ましてや、その言葉に従うことはもっと難しいのでしょう。しかし、何千年にわたって、こうして世の人々に聞かれ、受け継がれてきたのが、聖書の御言葉でもありました。そして、それは、伝言ゲームのように、ということではありません。御言葉に聞く人々が、世代を超えて同じように御言葉に聞き従い、神様の栄光を現すことが許されたからこそ、御言葉は御言葉として、今日まで受け継がれることになったのです。このことはつまり、聖書は身も蓋もないものではないということであり、つまり、そこで語られている神様とイエス様が本当に語られているとおりの方だということを、人々が実感し、実際に経験したから、だから、なるほど、その通りだと、そう心の底から思うことができたということです。ですから、その神様とイエス様が、私に従いなさい、私について来なさい、とそう仰っているわけですから、だから、私たちもまた、その言葉に従わないわけにはいかないのですが、では、そのためには、どうすればいいのか。その点をよく考えてみたいと思うのです。

 そこで、私の献身の際のことを少しお話しさせていただきます。神学校に行くことにまったく不安がなかったということではありません。不安ばかりであったように思いますし、だから、従わねば、やらねば、と、真面目に考えましたし、ある意味で必死で真剣であったからこそ、「ねばならない」という思いに囚われていたようにも思います。そして、それは、後ろに投げ捨てたものへの拘りがまだあったからであり、そうしたものにまだしがみつこうとする気持ちが心の中に残されたままだったからだと振り返りそう思います。また、だから、従わねば、やらねばと、自分を奮い立たせ、そういう思いを振り払おうともしたのでしょう。ただ、振り払おうとしたものは、それまで私が一番大事にしてきたものでもありました。少なくとも、その時点で一番大事であったのは間違いありません。けれども、それを振り払って、神学校に入っわけです。ですから、後戻りできないということもありましたし、それ以上に、もう戻るべきところがない、この戻るべきところがないことを実感させられたところに、不安の一番大きな原因があったように思います。そして、その原因を造ったのは、他でもない神様とイエス様でしたので、どれだけ、文句を言ったことかと思います。

 ですから、そういう意味で、私は、皆さんに対し、偉そうなことは何も言えません。いたずらな覚悟を求めたり、やせ我慢を強いたりすることもできません。もちろん、自分を誤魔化し、きれい事のように信仰を語り、それこそ、自分のしてきたことを誇るように、御言葉を伝えねば、伝えなければとも思いません。そして、それは、自分ができなかったから、ということではありません。時に、美しい言葉を用い、聖書的、信仰的、教会的、と語られる「ねばならない」という言葉が、言葉そのものが意味するものから大きく逸脱するように、「ねばならない」ということはつまり、後ろに捨て去ったはずの過去のものに、自分がしがみつき、引きずられているか、あるいは、自分自身の思いを遂げようとする自分自身への拘りか、それとも、そう言う自分自身にしがみついているだけだからなのか、いずれにせよ、神様でもイエス様でもなく、自分の力ですべてを解決し、何とかしようとする、自分にしがみつくあざとさが人をしてそう言わしめているように思うからです。

 そして、そう思うのは、こうしてイエス様にお従いする中で、自分自身の中にそういうものを見出したからであり、けれども、そんな私が、後戻りすることなく、こうして立たされている。それは、戻るところがなくなったからだとも言えますが、けれども、それだけではありません。イエス様以外のものにそれでも縋ろうとする自分自身に繰り返し破れ、そして、恐らくは、これからもイエス様の御前にこうして立ち続ける中で、同じことを繰り返すものなのでしょう。けれども、自らに破綻し、それでも、神様とイエス様は、私たちのことを見捨てずに共にいてくださるのです。神様がエレミヤに対して語っていることは、そのことであり、ですから、こうして立っている理由は、神様がエレミヤに対し語った、「私は共にいて救い出す」という、この一言でしかありません。

 神様とイエス様が仰ることは、自分にしがみつき、自分に拘り実現するものではありません。一切を捨て去って、ただお従いする、イエス様について行く、それが難しいことを誰もが知っているだけに、だから、そのことに躓かない者は一人もいないわけです。ただ、まただからこそ、私たちの多くは、ねばならない、しなければならない、私たちの真面目さと真剣さが余計にそう思わせもするのでしょう。また、それを完璧にこなせない自信のなさが、自分にしがみつかせもするのでしょう。ですから、退路を断つように前に進むことは大切なことでもあります。けれども、退路を断つかのようにイエス様について行った弟子たちが、やがて、ついて行こう、ついて行かねばとそう思う自分自身に破れ、信仰的破綻を味わったように、破綻は、私たち信仰者の定めなんだとも思います。しかし、だからこそ、ついてくるようにと、イエス様もそう仰るのです。ですから、物わかりのいい人は、それゆえに尻込みしてしまう。そして、できない理由、したくない理由を口にするのでしょう。それゆえ、今日の御言葉だけを抜け出すなら、何も言わずにイエス様に従った弟子たちは、だから、偉かったと言うことにもなるのでしょう。けれども、結局は、躓き、一端、後ろに投げ捨てた故郷ガリラヤへと逃げ帰ることになったのです。しかし、福音の種は、そこから世界中に蒔かれることになったのです。

 破綻した弟子たちの口の中に、その時あった言葉は、どんな言葉だったのでしょうか。美しい、誰もが目を引く立派なものだったのでしょうか。あるいは、自分ができなかった、やらなかったことへの言い訳でしょうか。それとも、罪深い自らに破れたことを誤魔化すだけの、いじましくも醜い、そういう言葉だったのでしょうか。もちろん、そうではありません。弟子たちの口の中にあったものは、自らに破綻し、彼ら自身が経験した、御言葉が語るところのそのままの喜びであり、それゆえ、その彼らの浮かべる微笑み、彼らの笑顔が、彼らの語る言葉に聞き従おうと、人をしてそう思わせることになったのです。そして、この弟子たちの微笑みは、イエス様から受けたものでもありました。ですから、今日ここで、弟子たちが経験したであろう、イエス様の笑顔を同じように見ているのが、こうして御言葉に聞く私たちなのです。

 「私について来なさい」とそう仰るイエス様について行くと言うことがどういうことなのか。イエス様が仰る福音を信じなさいということは、どういうことなのか。福音を信じ、従う、神様が招かれている私たちとは、どういうものなのか。御言葉は、そんな私たちのことをこう言っています。「私の名によって呼ばれる者。私の栄光のために創造し、形作り、完成した者」と、神様の招きに応える私たちのことをこう言うのです。それは、しかめっ面をして、こうしなければ、ああしなければと、青息吐息で毎日を生きることではありません。鞭打たれ、泣きべそをかきながら、後を付いていくと言うことでもありません。また、絶対的正義を振りかざし、他者を自分の都合のいいようにコントロールすることでもありません。ただし、それは、私たちの人生において、そういうことがないということではありません。なぜなら、私たちは、こうしなければ、ああしなければと、自分自身にしがみつくがゆえに、そんな自分自身に躓かなければならないものだからです。けれども、この醜い自分、異臭を発する自分と、それでも、というところで共に歩み続けてくださるのが、イエス様と神様なのです。そして、そこで私たちは、神様の深い愛を本当の意味で知るのです。

 ですから、私たちは、人間を取る漁師にならなければらないわけではなく、また、見せかけのように漁師然として、振る舞わねばならないわけでもありません。ついていくと言うことは、共に暮らすと言うことであり、その暮らしのすべてを支えてくださるのが、神様であり、イエス様であるということです。ただ、それは、とても不安の伴うものでもあり、一番大切なものを後ろに捨て去ることでもあります。そのため、そういう自分自身に破れなければならないのですが、けれども、そういう自らに破れた後の弟子たちはどうだったのでしょうか。彼らがイエス様と出会った、彼らが捨て去ったはずの、彼らが最も大事にしていた故郷で、再び、イエス様と出会い、そして、その喜びが彼らをして、神様は、彼らに御言葉を語らしめることになったのです。そして、それは、この土地で百年を過ごしてきた私たちも同じです。

 もしかしたら、信仰的、聖書的、教会的という、このねばならないというところに常に躓いてきたのが、この百年を歩んだ私たちなのかもしれません。私たちが気がつかずとも、イエス様の目に映る私たちとは、常にそのようなものだったのかもしれません。けれども、イエス様が復活された日曜の朝、こうしてイエス様の前へと、戦争中も、災害に見舞われたそのときにも、私たちが後ろに捨て去ったと思い込んでいる故郷へと招き、そこで出会い続けてくださったのが、私たちの主イエス様なのです。私たちは、自分がついていくか行かないかは、自分のこととして大事にしなければなりませんし、決してなおざりにすることなどできないことです。けれども、そこで、できてもできなくても、その私たちと一緒に歩んでくださったのがイエス様であり、そのことへの気づきが、私たちを笑顔にさせ、また、そんな私たちをして、イエス様がこの町の人々を笑顔にさせることになったのです。来週は、創立百周年記念礼拝を献げるわけですが、では、その私たちの口の中にある言葉はどういうものなのでしょうか。そのことをもう一度深く味わい、イエス様を通して明らかにされた神様の御旨に立ち帰る私たちでありたいと思います。なぜなら、今、私たちの口の中にある言葉が次の百年を切り開いていくことにもなるからです。

祈り




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