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降誕節第6主日礼拝 説教 「祈りは必ず叶えられる」

日本基督教団藤沢教会 2018年2月4日

【旧約聖書】列王記下      4章18~37節
【新約聖書】マルコによる福音書 2章  1~12節

「祈りは必ず叶えられる」
 私たちが百周年の祝された時間を共にする中で味わった喜び、それについて、御言葉は次のように語ってくれているように思います。「人の子よ、私が与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。」私がそれを食べると、それは、蜜のように口に甘かった。」と。では、この恵みを分かち合いつつこの一週間を過ごし今、皆さんの口の中にある言葉とは、どんなものでしょうか。甘いでしょうか。それとも、しょっぱいでしょうか。苦いでしょうか。あるいは、無味乾燥な味すらしないものでしょうか。ただ、そこで、だから、無理矢理、甘いと言わなければならないということではありません。

 御言葉が甘いと語る以上、神の言葉もその恵みも喜びも、私たちにとっては、蜜のように甘く感じられるものなのです。けれども、体調如何によっては、味を感じることができないように、甘いと感じられない状況に陥ることがあるのが私たちにもあるのです。従って、そのときに必要なことは、まずい、感じない、ということをしっかりと受け止めることです。と同時に、自分でどうすることもできない場合には、きちんと専門家に見てもらうということです。そして、その場合の専門家とはすなわち、私たちにとってはただお一人です。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」とそう仰っておられる、今私たちと共にいてくださっているイエス様に尋ね求めることが大切なのです。

 ただ、尋ね求めたとしても、直ちに改善されない場合もあります。そこで、味わいたくとも味わえない、味すらも分からない、そんな日常がずっと続いていくとしたら、そのとき、人は何を願うでしょうか。先ずは変わることを願い、そのために努力を重ねるのでしょう。けれども、それでもどうにもならないことがあります。そこで、古谷先生が、百周年記念礼拝の中で仰っていたことは、そんな私たち自身の弱さを受け止めることの大切さであったように思います。それは、この弱さに働きかける神様の御心を待つことができるのが私たち信仰者でもあるからです。しかし、そうであるからこそ、今すぐにこの苦しみをすぐに取り除いて欲しいと、私たちはどうしても思ってしまうのでしょう。そこで、切実な思いに駆られる者にとっての一縷の望みが御言葉であるのは間違いありません。けれども、生身の体をもってこの日常を生きる私たちの願うことは、そんな現実を根底から覆す奇跡であろうと思います。そして、今日のそれぞれの御言葉は、そう願う者にとって、奇蹟がないのではなく、あるのだ、と語りかけてくれています。ですから、奇跡的な出来事を願ってはならない、奇蹟などあるものか、と、そう思うことが私たちの信仰ではありません。そして、実際に、私たちの生きるこの地平で、奇跡は起こりうるものなのです。

 第二次大戦下、連合国の爆撃に曝されたある都市において、ある教会に大勢の人々が集まり、当然のことながら、主よ、お守りくださいとの切なる祈りが、人々によって献げられておりました。そして、祈りは聞かれ、その人たちは、助かったのです。それは、その人たちの上に、爆弾が落とされることがなかったからです。ただ、祈りを集めた人々には、祈りが聞かれ、助かったと言うこと以外、その理由は、何も分かりませんでした。では、どうして、彼らは、爆撃から逃れることができたのか。それは、爆撃手から見えるように、祈る人々の上空に、キリストが大きく現れたのだそうです。そのため、爆撃手は手を緩め、祈りを合わせていた人々は、その命を守られることになったのだそうです。そして、この話を、奇蹟の扱いに悩んでいた頃、ある牧師先生から聞いたのですが、ですから、奇蹟の是非について尋ねられた場合に、私は、こうお伝えするようにしています。御言葉にそう記されているわけですから、幼子のようにそのままを信じればいいのですと。そして、そのように申し上げるのは、奇蹟が現にあるからなのですが、ただ、それは、人間の理性に基づく科学的検証の向こうを張るように、あるものはあると、そうごり押しをしたいからではありません。

 列王記下の今日の箇所で、わが子を亡くしたばかりの母親がエリシャに文句を言っているように、聖書は、人間の理性的な働き、常識の範疇の中での心の動きを決して否定しているわけではありません。むしろ、きちんと取り上げており、つまりは、今日のイエス様の奇蹟物語も、その点を踏まえ語られているものだということです。ただ、一方で、そこに記されていることは、常識の範疇を覆すような出来事であり、しかも、その前提として語られている、天井を突き破るという、非常識きわまりない人々の行動は、律法学者の反応と比較して、ポジティブに語られてもおります。そのため、この常識と非常識さが交差する状況が、返って、奇蹟というものの扱いを難しくしているようにも思うのです。それゆえ、先ほどの幼子のようにという私の説明は、子供じみた、という誤解を与えかねないことになりましょうし、また、人間理性を無視してはいないということが、返って、奇蹟物語を昔話やおとぎ話であるかのような、そんな錯覚を与えることにもなるのでしょう。そうなると、どうしても、私たちは、奇蹟があるとかないとか、科学的であるとかないとか、本来御言葉が私たちに指し示そうとしているところとは違った方向に分け入ってしまうことにもなるのでしょう。それは、奇蹟という私たちにとっての常識を覆すような出来事に、私たちが慣れていないからでもあるのでしょう。

 ですから、もし、奇蹟を願い求めるなら、あるなし云々を問う以前に、天井を突き破った人々のように、あるということを当然のこととして受け止め、動き出す必要があるように思います。ただ、あると信じ動く以前に、御言葉が指し示す方向とは違った方向に分け入らないためには、聖書が私たちに伝えようとしていることと現代人の常識との、その着眼点の違いに気づく必要があります。つまり、聖書がそれぞれの物語をこうして語り、また人々がそれを受け継いできたのは、人間の理性的な働きを否定するためではなく、常識の範疇を覆すような形で起こる、神の介入というものを人々が実際に経験してきたということです。そして、それは、常識、非常識という人間レベルの事柄などではないということです。御言葉が神様を信じる人々のその姿をもって明らかにしていることは、神様との関わりを、人々がどのように見ていたかということであり、そういう意味で、奇蹟は、彼らの生活の中でないことではなく、時に起こりうることなのです。ですから、それぞれに記されていることは、彼らの日々の暮らしのありのままの姿でもあるということです。

 ただ、そこで起こることはすべて、人間の自由になることではありません。あくまで神ゆえのことであり、それが何気ない日常の一コマとして切り取られているのは、そういうわきまえを人々は持っていたということです。つまり、科学的であるとかないとか、それが事実であるとかないとか、常識であるとかないとか、そういうことが一番の関心事ではなく、日々の暮らしにおける神様との関わりを彼らが普通に受け止めていたということ、彼らが人間理性、科学的、常識的なるその言葉をもって、この世界を見ていたのではなく、共にいます神様との関わりにおいて、この世界を見つめ、捉え、そして、暮らしていた、それが、御言葉を信じる人々の姿であったということです。そして、このことはすなわち、彼らが、自分たちは、神様の御心の外に置かれているのではなく、御心の中に置かれているのだと、そう普通に受け止めていたということで、このように、聖書が物語る奇蹟とは、世界が神様の御心の中に置かれているという、この文脈の中で語られているものなのです。従って、私たちが奇蹟物語を理解するに必要なことは、世界は、神様の御心の中にあるのだとの認識に立って、受け止めるということであり、また、そのことを普段の日常生活の中で普通に受け止めるからこそ、奇蹟は、私たちの立っているところで起こりうるのです。

 ただし、そこで、一つ疑問が湧いてきます。神様の良き御心によって造られた世界に生きていながら、私たちはどうして苦しみを負わなければならないのかということです。それは、それぞれの罪ゆえのことでもあるのですが、ですから、そういう意味で、律法学者のここでのつぶやきは、とても重要です。なぜなら、彼らのつぶやきが、イエス様のここでの大切な言葉を引き出し、その言葉をもって、私たちのこの世界を見る目が、新たに開かれることにもなったからです。それは、世界が、ただ単に神様の御心の中にあるだけではなく、その御心とは、私たちのその罪を許すために注がれているものでもあるということです。その時々の困りごと、悩みの種、それを解決することだけが御心なのではなく、解決し、なおその先にある神の国へと向かわせてくださっているのが、神様の御心であるということです。従って、命が命として輝き、喜び多いものとされるのはそのためであり、また、そのために、神様は、イエス様という神様の御心を私たちの元に届け、その罪を贖い、そして、その上で、そのイエス様と共にあるこの今の暮らしを支えて下さっているということです。ですから、私たちの今このときの暮らしとはつまり、罪許された者としての暮らしであり、だから、そこに立つとき、私たちは、何があろうとも、どこに立ち、どこに生きているかを知っているがゆえに、どんな時にも平和に過ごすことができるのです。

 しかし、そうであるにもかかわらず、その私たちがどうしても穏やかに過ごすことができない。罪赦されながらも、罪の虜になってしまう。それは、もしかしたら、私たち信仰者にとって、それが一番苦手なことだからなのかもしれません。神様の御心の中にある自分の本当の姿を見る勇気が持てないために、逃げてしまう。時に、弱く、愚かであることさえ、信仰という言葉をもってして誤魔化そうとしてしまう。罪とは、神様に許された自分自身を素直に正直に見つめることができないところに起因するように思います。また、だから、常識を突き破るように私たちに働きかける神様のことを自分の常識の中に納め、意のままにしたいとの衝動に駆られることにもなるのでしょう。けれども、だからこそ、そこに介入し、破れを破れとして受け止めさせ、私たちに本当の自由を味わい知らせ、躓いたその先にある道を示すために、神様は、その私たちの元にイエス様をお遣わしになったのです。そして、人間にとっては、悪い冗談としか思えない、十字架という形で、この世界が、神様の赦しの中に置かれている、神様の赦しと救いの御心の中に置かれていることを明らかにされたのです。

 ですから、今日、イエス様が仰りたいことの中心は、奇跡の有無、その是非ではありません。常識を覆すような奇跡的な出来事を通し、世界もそこに生きる私たちも、神様の救いの中に置かれていると言うことを言いたいのです。ただ、だから、奇跡は二の次、三の次で良いということではありません。罪許され、神様への心を開くことのできる私たちは、弱くていいし、愚かでもいい、みっともなくてもいいし、みすぼらしくてもいいのです。ただ、神様は、私たちがそのような自分自身を喜びをもって受け止めることを求めるのです。ですから、奇蹟とは、そんな私たちが、イエス様という鏡に映し出される自分自身の姿をポジティブに直視するための勇気を持つため、備えられているものだと言えるのでしょう。

 神様に許された世界でこうして過ごし、喜びと平安に与りながら生きる私たちにとって、奇蹟とは、喜びと平安をいつまでも我がこととして受け止めるための必要として、神様が備えて下さる恵みです。だから、それは、理屈で割り切れることでもなく、常識と照らし合わせて云々することでもありません。もちろん、笑い飛ばしていいものでもありません。奇蹟とは、神様の私たちに向けられた身贔屓ゆえのものであり、弱く、愚かで、情けない、神様に造られ、導かれているそんな自分自身を、私たちが受け止め、神様の赦しを実感するために備えられているもの、それが奇蹟というものなのです。ですから、そう考えるなら、神様によって支えられている、この共にある暮らし、その一つ一つが奇跡であり、つまり、そうした私たちの歩み、その時代時代における暮らしを守り、支えて下さったのが、こうして百年を迎えた私たち藤沢教会と共にある神様であり、イエス様であるということです。

 従って、私たちが百年を迎えたということはつまり、その神様とイエス様が、再び、私たちを新たな歩みへと導くべく、私たちの今のこの暮らしを支えて下さろうとしているということです。そして、私たちのこの暮らしは、永遠に続けられるものでもあるのです。すでに天にある人々との再会を心待ちにしながら、これからの時を喜びと平安に満ちあふれたものとして、歩み続けることが許されているのが、私たちであるということです。それが、罪赦された世界を見つめる私たちなのです。そこで、最後に、私たちと同じように罪赦された世界に生きたパウロの言葉をご紹介し、終わりたいと思います。「あなたがたは以前には暗闇でしが、今は、主に結ばれて、光となっています。光りの子として歩みなさい」。祈りましょう。

祈り
 教会の頭である全能の父なる御神様
 弱く愚かな私たちをあなたの懐の中へと招き、こうして与えられた命をあなたゆえに良いものとして下さっていることを覚え、心より感謝します。どうか、そのような私たち自身であることを恥じることなく、また、こうして共にある兄弟姉妹との祝された暮らしをあなたに喜ばれる、まことに良いものとするためにも、私たちの今のこの暮らしの中にイエス・キリストを見つめ、喜びと平安の中にこれからも歩ませて下さい。貴き主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。




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