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降誕節第7主日礼拝 説教 「恫喝の主イエス」

日本基督教団藤沢教会 2018年2月11日

【旧約聖書】ヨナ書       1章1節~2章1節
【新約聖書】マルコによる福音書 4章35~12節

「恫喝の主イエス」
 イエス様と共に神様の御前に立ち、こうして御言葉に聞く私たちについて、御言葉はこう語ります。「かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けているのです。愛する人たち、あなた方に勧めます。いわば旅人であり、借り住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい」と。そして、御言葉がこう語るのは、その私たちに福音が伝えられたからであり、私たちがイエス様と同じ命の道を生きているからです。ただ、それはまた、イエス様が「狐には穴があり、空の鳥に巣がある。だが、人の子には枕するところもない」と、ご自身についてこう語るように、こうして福音に聞き、イエス様と同じ命の道に生きる、私たち神の民とは、旅人、借り住まいの身であるがゆえに、イエス様と共に十字架へと向かう道を歩み、と同時に、復活へと至る道を歩んでいるということです。従って、このことに安心し、喜びをもって歩むのが、イエス様と共に命の道を歩む私たちクリスチャンだということです。

 けれども、今日の御言葉が語ってくれていることは、その私たちがそのことに安心できない、時に、それゆえに神様に背を向けることもあると、私たちが、この世の現実に対し、不安や恐れ、そして、時にこの世の現実に対し働きかける神様のその御心に、怒りすら覚えることがあるということです。また、だから、神様に背を向け、肉の欲に溺れてしまう。時に、溺れたことすらも分からず、この世の暗い現実に飲み込まれ、沈み込んでしまうこともある、そういうことです。ただ、それもこれも、御言葉が語るように、私たちが旅人、借り住まいの身であるがゆえのことでもあるのですが、しかし、私たちは、自分一人だけでこの現実を引き受けているわけではありません。今日のそれぞれの御言葉が語ってくれていることは、そこに、今ここに、イエス様と神様が共にいてくださっているということです。そして、それは、イエス様のここでの姿がすべてを明らかにしてくれているように、神様の御心の中に置かれている私たちは、ヨナのように、何よりもイエス様と同じように、この世の暗い現実の中に置かれようとも、神様の御心に立つ限り、いや、立っている以上、立たされているこの事実ゆえに、たとえ借り住まいの身だとしても、安心して、この命の道を歩み続ければいいということです。

 では、そのために私たちはどうすればいいのか。それは、それほど難しいことではありません。この命の道を、私たちはただ歩めばいいし、生きればいいということです。ただ、それは、だから、イエス様のように苦難を顧みずに安心して、(とも)を枕に寝ていればいいということではありませんし、もちろん、だから、ヨナのように神様に背を向けて、神様が示される正反対のところに逃げ出していいということでもありません。大切なことは、ヨナも、お弟子さんたちも私たちも、変わらずに神様が示された命の道を歩んでいるということです。もっと言うならば、ヨナに与えられたその使命を考えますと、悪の誉れ高いニネベの人々が救われたように、この命の道は、私たち人類すべてに開かれているものでもある以上、人類全体が、イエス様と私たちゆえに、神様が私たちを遣わすところで、それは、家庭であり、地域であり、職場であり、学校であるかもしれません。ヨナのように特別な使命を帯び、遠い外国へと派遣される場合もあるかもしれません。それがどこであるのかは、神様がお決めになることですが、でも、私たちが置かれているところ、そこに、神様の命の道が開かれている、だから、私たちは、自分がどこに行き、どこに向かうものであるのかを深く自覚しつつ、自らを見つめるなら、この世の現実にあって心からの安息を覚え、そして、この幸いを人と分かち合うことができるのです。私たちにとって、生きるとはそういうことであり、そして、私たちが、自らの生をそのように語ることができるのは、神様が、ヨナのように私たちのことを、それこそ、深く暗い、光すら届かない海の底を経験させ、そこでその救いの手を差し伸べてくださるからなのです。

 ですから、イエス様が、ここで恫喝しているとも思える叫び声を上げているのは、ただ単に弟子たちのことが気に入らなかったからではありません。イエス様のここでの叫びは、怒りに任せたものではなく、お前たちは、本当に命の道を見出しているのか、生きているのかとの、弟子たち、私たちに向けられた愛の叫び、呼びかけでもあるのです。また、だから、私たちは、イエス様の叫び声、呼びかけが届くところに立ち、イエス様のことをはぐらかさずにしっかりと見つめる必要があるのです。そして、このことはすなわち、私たちがイエス様と共にその足下の現実をしっかりと見つめるということであり、それゆえ、現実に引きずられ、自分だけの気持ちに溺れ、沈み込んだままでいいということではありません。なぜなら、恐い恐いと現実に引きずられるだけで終わってしまったなら、私たちの信仰は、調子に乗り、有頂天となるか、さもなくば、絶望するだけか、神様がイエス様の命を賭けてまで示された命の道が、そういう軽佻浮薄なものに過ぎないものとなってしまうからです。けれども、そうではない、そうではないということを、また、それぞれの御言葉は、今日、私たちにきちんと語ってくれてもいるのです。

 今、私たちの目の前にいるイエス様は、私たちがこうあって欲しいと思うイエス様の姿とは、だいぶ違う姿を示しているように思います。そのため、イエス様の厳しさばかりに目が向いてしまうのではないでしょうか。それは、優しく柔和な姿を常に示して欲しい、優しく分かりやすい言葉をもって導いて欲しい、そう願うほどに、私たちの生きる現実は厳しく、まさに、そういう荒海にもまれるがごとき現実に生きるのが、私たちでもあるからです。だから、余計に優しくあって欲しいと願ってもしまうのでしょう。しかし、今私たちの目の前におられる方がイエス様なのです。そして、このイエス様が私たちを命の道へと導いてくださっているのです。ですから、私たちは、そこから目を逸らしてはなりません。けれども、状況が状況でもあります。こんな中で大声を上げられたら、誰もが縮み上がってしまうのも当然でありましょう。しかし、その中で、イエス様は、「なぜできぬ」と、そう私たちに問うてこられるのです。それゆえ、私たちは、このお言葉に聞き従わなければならない。ヨナのように、神様の方にしっかりと顔を向き直さなければならないのですが、では、どうすれば、震え上がらずにイエス様のことをしっかりと見つめることができるのでしょうか。神様は、そのためにヨナのように自分自身に破れる機会を私たちに与えるのです。

 そこで、私たちは知らされるのです。私たちが神様から見放されたわけでもなく、見捨てられたわけでもないということをです。ただ、経験の浅い私たちにとっては、この御心は、とても分かりにくいものなのかもしれません。だから、ヨナのように、神様の前から逃げだそうとしてしまうのでしょう。しかし、今日のヨナ書の直後に語られている言葉、魚の腹の中でヨナが口にしている言葉が、神様への讃美であるように、讃美とは、そんな自らに破れ、その上でなお神様が見放しもせず、見捨てもせず、神様が命の道へと私たちたちを導こうとされている、この神様の御心に触れるがゆえに自ずと出てくる言葉、それが讃美であるということです。ただ、讃美の声を上げたヨナが置かれている状況、そして、弟子たちの置かれている状況は、後のないところでもあります。命の道が閉ざされたとしか思えない状況であり、それが彼らが置かれた現実のすべてであるようにも思われます。けれども、そこで、讃美の声を上げているのがヨナであり、そして、そこで同じように、信仰を告白し、讃美の声を上げているのが弟子たち、私たちでもあるのです。なぜなら、そこに神様の救いがあり、そこにイエス様が共にいてくださっているからです。

 ですから、「先生、私たちが溺れても構わないのですか」との弟子たちの叫びは、だらしのない弟子たちの弱音などではありません。「溺れても構わないのですか」とのこの言葉を、私たちも同じように口にしたことを思い起こしていただきたいのですが、それを口にするとき、私たちは何を思い、何を考え、この言葉を口にしているのでしょうか。その時、私たちは自分自身に破れているのは間違いありません。弱音を吐き、そのだらしのない信仰を嫌というほど噛みしめてもいるのでしょう。けれども、その時、何もできない自分自身、立派なことなど何一つ口にできない自分自身、辛うじて保っている自分自身に破れ、けれども、そこで、「先生、私たちが溺れても構わないのですか」とイエス様に真剣に祈り、神様にすべてを委ねてもいるのが私たちなのではないでしょうか。ですから、この弟子たちの姿は、そういう私たち自身であり、それを思うと、この弟子たちの言葉は、こうして命の道を歩む私たちにとっては、全く違った色彩を帯びて聞こえてくるのではないでしょうか。つまり、この弟子たちの叫び声は、私たちにとっての信仰告白であり、讃美以外の何ものでもないということです。

 もしかしたら、私たちは、弱音を吐くこと、小さいこと、弱いこと、愚かであること、主を前にし、破れざるを得ないそんな自らを恥ずかしく思い、否定的に捉え、そして、そこに敢然と立ち向かうことが信仰だと、そう思っているところがないでしょうか。けれども、その小さく、情けない、時に浅ましくもある私たちと共にいてくださり、この小さい私たちのことを抱きしめてくださっているのが私たちの神様であり、イエス様でもあるのです。ただ、私たちは、自分自身の小ささをどうしても受容することができない。それは、その時、言いしれぬ痛みを覚えることになるからです。そのために、少しでも大きくなることを願ってしまう。けれども、そうであるからこそ、御言葉は、そんな私たちが主を前にし、破れざるを得ないことを語るのです。そして、破れた自分自身と神様が共にあることを経験せしめ、その弱さゆえに信仰を告白し、讃美の声を上げさせ、私たちが、主にあって、その恐れと不安が取り除かれることを知らしめようとされているのです。

 イエス様は、そんな私たちと共にいてくださり、そのイエス様のいますところに私たちもこうして立つことが許されているのです。私たちの日々の暮らし、兄弟姉妹とのこの交わり、私たちは、この暮らしの中に、だから、イエス様を見つめることが許されているのです。ただ、そこで私たちは、この現実のつらさ、苦しさ、厳しさゆえに、どうしても、イエス様に向かって、だって、でもねと、その小ささを露わにし、そして、その小ささ、弱さゆえに、嵐の中の弟子たちのように、日々破れざるを得ないのが私たちでもあるのです。そのため、私たちは、日々誘惑に晒されることになります。嵐なんて何でもないと、無謀にも、小さい自分自身をイエス様を前にし大きく見せようとする誘惑、また、その逆に、その小ささを認められず、誤魔化そうとして、必要以上に自分を小さく見せようとする誘惑、つまり、神様に愛されている自分自身を掛け値なく受け止めるのではなく、自分自身を勝手に値踏みし、自分の思う通りを神様に認めさせようとする誘惑が働くことになるのです。けれども、だからこそ、私たちは、そんな自分自身に破れる必要があるのです。それは、この痛み、この経験を通して、私たちは、ヨナのようにはっきりと自分自身を知ることになるからです。また、だから、小さく弱い私たちのことを掛け値無しに愛してくださっている神様とイエス様のありのままの姿を、破れを経験することで私たちは知らされることになるのです。

 神様にとって、私たちは、それ以上でもそれ以下でもありません。信仰が大きいと自分自身納得できるから、私たちは、神様に助けていただけるわけではなく、神様に背を向けたヨナのその姿がすべてを明らかにするように、神様に生理的な嫌悪感すら表すことのある私たちのことを救い出してくださるのが私たちの神様なのです。イエス様の「なぜ」との問いが、この点をすべて明らかにしてくれているように思います。そして、その私たちが、そのイエス様を頭とする、イエス様のその体である教会にこうして繋がって生きていることが許されているのです。ですから、イエス様の立つところが私たちの立つところであり、命の道は、ここからすべて始まっていくのです。そして、神様は、ここに私たちを、世にあるすべての人々を、等しく招いてくださってもいるのです。つまり、神様が与えてくださるこの現実をより多くの人々と分かち合うことを通し、ご自身を知らしめようとしてくださっている、それが、イエス様をお遣わしになった神様であり、また、だから、イエス様の立つところに私たちも立ち続けるがゆえに、この地で百年の時を歩み続けることが許されたのです。

 午後には、百年をこの地で過ごしてきた私たちが、これまでの恵みに感謝し、一つの課題を共有すべく懇談の時を持ちます。そして、そこで受けた恵みとはすなわち、私たちが主を前に破れざるを得ないがゆえのものであり、そういう意味で、私たちの百年の歴史は、嵐の中の弟子たちのように、主を前にし、何一つ(いさお)しのないものであったのは間違いありません。けれども、その私たちが百年をこうして歩み続けることが許されてきた。そして、その主により頼み、讃美の声を上げてきた。八十四年前、鳩サブレの豊島屋さんから今のこの土地を購入し、この地に会堂を建て、そして、その翌年にみくに愛児園を始めたのは、先達が自らの小ささ、弱さを主にあって経験し、そこで声を合わせ、讃美の声を上げたがゆえのことでありました。あの人が、この人が、ということではありません。小さい人々が祈りを合わせ、その小ささを主を前にして深く見つめ、そして、この小さいゆえに新たな幻を与えてくださった、それが、私たちの神様であり、私たちの歴史とはつまり、そういう歴史であり、この命の道を歩んでいるのが私たち藤沢教会であるのです。

 ですから、そういう意味で、教会が成長したのは、ブームゆえのものではありません。私たちが主に愛されているからであり、主に愛されている私たちが、この地で主が私たちの元へと送り出される新たな人々と共に、主の御栄えを現すことが許されたから、だから、その弱いがゆえに「恐れるな、強く雄々しくあれ」との神様の声、「なぜ怖がるのか、まだ信じられないのか」とのイエス様の叫び、共にある神様とイエス様に励まされ、こうして歩み続けてきたがゆえに、今の私たちがあるのです。従って、私たちの歴史とは、そのままが命の道であり、それゆえにまた、新たな一歩を踏み出すべく、祈りつつ讃美の声を上げ、ヨルダン川を渡る私たち藤沢教会でありたいと思うのです。

祈り
 




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