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受難節第3主日礼拝 説教 「裏も表もない」

日本基督教団藤沢教会 2018年3月4日

【旧約聖書】イザヤ書      1章  1~8節
【新約聖書】マルコによる福音書 8章27~33節

「裏も表もない」
 主のご受難を覚えつつ、一巡りの歩みを過ごして参りました私たちを、イエス様は何を思い、今週もまた、こうしてご自分の御前へと集められたのでしょうか。先ず言えることは、イエス様の十字架と復活の出来事を思い起こさせるため、ということです。そこで真っ先に思い起こさせられることは、私たち自身の罪です。では、私たちがいかに罪深く、ダメな人間なのかを知らしめるために、神様は、イエス様を十字架にかけたというのでしょうか。もし、それが神様の目指すところであれば、そもそも、独り子であるイエス様を十字架にかけるまでもなかったはずです。今日のイザヤ書の中で語られているように、わざわざそんな回りくどいことをせず、我慢ならないことは我慢ならないと、そうはっきり言えばいいわけですし、それでもダメなら、イザヤ書にあるように、私たちを八方ふさがりの状態に置いて、懲らしめ、痛い思いをさせ、その罪深さを体で覚えさせれば、その方が、よっぽど手っ取り早かったはずなのです。

 けれども、回りくどい方法をわざわざ選ばれたのが私たちの主なる神様でもあったわけです。独り子に苦しみの局地、絶望の極みを味合わせ、しかも、陰府にまで下らせ、その上で甦らせ、そして、復活したイエス様のその姿を弟子たちの前に現させたのです。このことはつまり、この回りくどさ、分かり難さを、私たちは引き受けねばならないということです。そして、それを避けずに引き受けるからこそ、イエス様の十字架を見つめる私たちは、そこで、イエス様を信じるがゆえの喜びを自分自身のものとすることができるのです。そして、それが、イエス様のことを知る、イエス様を体験するということであり、まただから、イエス様を知り尽くしている私たちは、暗い顔をするのではなく、笑顔をもって歩むことができるのです。つまり、いつも申し上げていることではありますが、私たちがクリスチャンであるということは、ですから、そのように笑みを絶やさず、いつも笑顔をもって歩むことが許されているということなのです。

 ただ、このように申し上げ、以前、ある方から「いつも笑ってなんかいられるわけはないじゃないか」とそう言われたことがありました。そこで、私自身も、もっともだと思いました。そう言われたからといって、はい分かりましたと言って、すぐに実行に移せるほど、人間は単純ではないからです。洪水の出来事のその直後、ノアに祝福を与えるに当たって、神様が「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」と仰ったように、普段は隠されていたとしても、時折、この暗いものが顔を覗かせることがあり、そのため、周囲の人々の顔を曇らせることがあるからです。また、だから、そういう暗い面をできる限り取り繕い、隠そうとしてするのですが、隠したくとも隠せないのは、私たちの生きる現実がそれだけ楽なものではないからです。だから、それに気づいた人は、なおのこと、明るさを求め、神様に縋ろうともするのでしょう。そして、私もそんな一人でありました。

 私が教会に通うようになったのは、ちょうど、25歳ぐらいの頃、今から30年ぐらい前のことでした。そして、その頃のことを振り返り思うことは、今も何も変わってはいないということです。ただ、これだけは、はっきりと言えるのですが、神様は、出会う以前もその後も、恥ずかしく、穴があったら入りたくなるような時代にも,この私とずっと一緒にいてくださったということです。そして、それは、私だけでなく、弟子たちもそうですし、皆さんともそうです。例外なく、誰とでも一緒にいてくださるのが、私たちの神様であり、つまり、信仰とは、それに気がついているかいないかの違いであって、すべての人のことをその心にとめ、豊かな導きを与えようとされているのが、主イエス・キリストの父なる神様でもあるのです。だから、そのことへの気づきが、また私たちをして、自ずと笑顔へと変えることになるのです。

 では、どのように、神様がそういう方であることを、私たちは気づかされるのでしょうか。受難節の歩みがこうして与えられているのは、そういう意味で、気づく機会だとも言えるのでしょうが、ただ、それは、私たち自身のたちの悪さを明らかにするためではありません。たちの悪さを抱える私たちと、それでも一緒に居てくださっているということを知らしめ、実際に体験させようとしているのが、この期節を共に歩むイエス様であり、ですから、そのためにも、私たちは、ここで、イエス様が、「私のことをどう思うのか。」と、弟子たちに尋ねているように、イエス様のことをしっかりと知る必要があるのです。そして、そのためにも、イエス様について、正しく、このお方がどういう方であるかを言葉に言い表す必要があるのですが、それは、この問いにきちんと答えられてこそ、私たちは、イエス様のことをはっきりと知り、私たちの暗い顔が明るい顔へと変えられることになるからです。ですから、イエス様のことを人に伝えるということは、人のためであると同時に、それ以前に自分のためでもあるということです。まただから、イエス様がどんな方なのかを、自分の頭で理解し、心の中を整理して、自分の言葉できちんと言い表すことが、私たちの信仰においては、とても大事にもなってもくるのです。もし、それができなければ、神様がいつも一緒にいるということも、私たちには分かりませんし、それが分かっていなければ、神様がこういう方であるなどと、人に正しく伝えることなど、とてもできることではないからです。

 では、そんなイエス様のことを聞き、イエス様と同時代を生きた人々が、イエス様のことをなんと言っているのか。ある者は、洗礼者ヨハネ、ある者は、エリヤ、また、ある者は、預言者の一人であると、そう思っていたということですが、このことはつまり、多くの人々は、イエス様のことを普通ではないと、そんな風に受け止めていたということです。では、弟子たちはどうであったのか。ペトロが弟子たちを代表して、イエス様に「あなたは、メシアです。」とそう告白していますように、イエス様のことをメシア、救い主と、最上級の敬意を持って受け止めていたのが、イエス様と同時代を生きた弟子たちでありました。つまり、こいつはすごいやつだというところに留まらず、イエス様への期待値が100%を振り切っていたのが、その時の弟子たちであったということです。そして、その弟子たちが、イエス様の救い主としての本質をものの見事に言い当てているのです。それができたのは、長い間主イエスと一緒に居たからなのですが、イエス様の言葉、その行いを間近に見て、順を追って、イエス様とはこういう方であると言うことを、経験的に知ることができた弟子たちだからこそ、他の人々には口にできない、メシア、救い主という言葉を口にすることができたのでしょう。

 ですから、そんな弟子たちに向かって、イエス様がかけるべき言葉は、「よく言った。お前たち」というお褒めの言葉であり、100%の満足を笑顔をもって、その気持ちを受け止めるべきであったのだと思います。けれども、その直後にある御言葉は、ほめるでもなく、またけなすでもなく、「ご自分のことを誰にも話さないようにと弟子たちを戒められた」とあるだけなのです。弟子たちは、100%、いや、それ以上にイエス様を信頼していたわけです。嘘や誤魔化しなく、心からの思いをイエス様に伝えたのが、ここでのペトロはじめ弟子たちであったわけです。ところが、イエス様の反応は、何と鈍いことでしょう。何やら気まずい空気が流れているようにも思いますが、イエス様は、何か気に入らなかったというのでしょうか。そして、その直後のことを見ますと、やはりそうであったことが分かります。正しい答えをしたペトロに向かって、主イエスが、烈火のごとくその怒りをぶつけているように、彼らには何かが足りなかったわけです。そして、その足りないところとはつまり、弟子たちが、神のことを思わず、人間のことを思っていたということです。

 「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と、主イエスが、十字架と復活の出来事について弟子たちにそうはっきり告げたと聖書にはあります。ただ、これについては、人から大きな称賛を受けるべき方が、罪人として社会から抹殺されることになると、自分の口でそう語ったということですから、この一言は、弟子であれば、到底受け入れられることではありません。主イエスが立派な方で、間違いのない人だから、弟子たちもこの時ついていったわけです。それが罪人として処刑されることになると言うのですから、それがもし本当であれば、話が違うということにもなりましょうし、もしそうであれば、そのとばっちりは、ついていった者にも及ぶことになります。だから、それを聞いた弟子たちは、本当にびっくりしたわけです。ですから、ペトロが主イエスを脇に連れて行って、いさめた、とあるのは、もっともなことで、だから、とっさにイエス様のことを諫め、思いとどまらせようともしたのでしょう。

 従って、これは、同じ立場に立ってその場に身を置けば誰にでも分かることです。ましてやイエス様への期待値、信頼が100%を振り切っている者であれば、なおのこと当然のことです。このペトロのとっさの反応が示すように、何か深い考えがあってのことではなく、それは困る、止めてくれと、それが、ペトロの正直な思いであり、だからこそ、抑えようもなかったのだと思います。自分の人生を賭けてイエス様に従ったわけですから、私たちが同じようにその場にいたとしたら、私たちも、ペトロと同じような反応をしたことでしょうし、また、この様子を脇で見ていたとしたら、私たちもまた、きっと、ペトロよ、よく言ったと、ペトロのことを誉め讃えたに違いありません。

 ところが、イエス様がペトロのその言葉を聞き、どうされたのか。そこで発したイエス様の、「サタン、引き下がれ。お前は神のことを思わず、人間のことを思っている」というこの言葉は、いかがでしょうか。身に覚えのある私たちにとっては、身震いするほどの恐ろしい言葉なのではないでしょうか。けれども、イエス様にしたら、これだけは言わずにすますことはできなかった。先ほどの気まずい雰囲気がその伏線ともなっているようにも思いますが、感情を爆発させたイエス様のこの一言は、それだけに、嵐が通り過ぎるのを待つのではなく、私たちは、しっかりと、この時のイエス様の気持ちを受け止めなければならないのだと思います。では、そのイエス様の気持ちとはどんなものなのか。それは、出過ぎた真似はしない、ということでもあるのでしょうが、けれども、それが、イエス様の一番仰りたかったことではありません。イエス様が我慢ならなかったところは、「人の子は必ず多くの苦しみを受け」と言われた、そこで仰った「必ず」というこのことです。つまり、神様が必ずなさるということ、神様の必ず、必然、それを私たちがただただアーメンと受け止めることをイエス様は求めておられるということなのです。しかし、人にはそれができない。だから、このできないところに、イエス様は、ご自分の気持ちをぶつけて来られたのですが、では、どうしたら、イエス様のこの気持ちを私たちは正しく、きちんと受け止められるようになれるのでしょうか。

 困ったとの思いに駆られ、突然顔を覗かせたペトロの暗い面が、この時、イエス様の激しい気持ちに曝されたことは、ペトロはじめ弟子たちにとって、とても幸いなことでありました。それは、人間としての暗さ、そして、神の子にさえ許すことのできないものがこの世にはあるということを、ここでのやり取りを通し知らされたからであり、同時に、イエス様に100%、いや、120%。200%とそれ以上の期待をかける者、信頼しなければならないと思い込んでいる者にとって、イエス様も神様も、その期待、気持ちを完全に裏切ることがあるというこの事実を明らかにしてくれたからです。つまり、いつまでも明るい気持ちのままでいたい、今すぐに暗い気持ちが明るい気持ちへと変えられたい、期待感を膨らませ、それに押し出されるように、信頼しなければ、信頼しなければならないと思い込もうとする私たちにとって、イエス様のここでの一言は、冷や水を浴びせかけるものでもあるのですが、冷や水を浴びせかけるだけでなく、イエス様ご自身を知り、体験する上での大切なことでもありました。

 信仰は、熱いだけのものではなく、冷静さを必要とするものであり、また逆に、冷静なだけではなく、神様の必然に委ねるひたむきさを必要とするものでもあるということです。そして、それは、ちょうど、幼子が自分の父母が一番と思う、客観性を欠いた素直な気持ちと似ているのかもしれません。他と比べてどうのこうのということではなく、無条件にただただ自分という存在を包み込んでくれる親という存在に対して安心する幼子ように、神様もイエス様も、私たちにとってそういう方であると言うことです。だから、そんな幼子の姿が、多くの人々の心を和ませ、また、和まされることで、人は、私たちをして、神様が神様であり、イエス様がイエス様であるとの平安な気持ちを感じさせられることにもなるのです。つまり、イエス様を知り、体験すると言うことは、首ったけとか、ぞっこんとか、そういうものではなく、包まれているという安心と冷静さ、そういう意味での熱い思いというものがあってこそのものだということなのです。

 ですから、自分を納得させ、自己満足だけで終わるだけの完璧さ、きちんとした態度というものが、こうしてイエス様にお従いする上で、私たちに求められていることではありません。イエス様が「引き下がれ」と仰ったように、一歩引いた冷静さが必要であるとともに、その発せられる厳しい言葉を「必ずなる」と信じて、従うことが、私たちには求められているということです。そして、そのために、私たちは、十字架と復活の出来事を通し、自らの偽ざる姿を知ることが必要なのであり、同時に、その隠しようもない自分自身を愛してくださっている神様とイエス様のことを知る必要があるのです。こうして与えられた命を感謝と喜びをもって、笑顔で歩み続けるために、自分自身を痛めつけ、いじめ抜くのではなく、神様に愛されているというところから自分自身を見つめ直すことが求められている、それが私たちクリスチャンなのであり、ですから、イエス様のペトロに向かって語られた最後の厳しい一言は、そんな私たちを笑顔へと変えようとしてくださっている、大切な一言であると、そのように思います。従って、この一言に怯え、身震いして終わるのではなく、イエス様が、私たちを笑顔へと変えてくださることを信じて、レントの歩みを進めて参りたいと思います。

祈り
 




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