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受難節第5主日礼拝
  説教 「与え、奪い、我らを新たにするのは主」

日本基督教団藤沢教会 2018年3月18日

【旧約聖書】哀歌          3章18~33節
【新約聖書】マルコによる福音書 10章32~45節

「与え、奪い、我らを新たにするのは主」
 レントのこの時、主の十字架と復活の出来事を伝える御言葉に聞きつつ、私たちが力づけられるのは、復活の主イエスが傍観者のように、ただ横にいるだけの方ではないからです。罪深い私たちと神との間を執り成し、神様のその御心に触れさせ、私たちを新たにしてくださろうとしているのが、主イエスであり、また、そうであるからこそ、この主イエスの働きかけを信じる私たちは、どんな時にも希望の中に主の十字架を見つめ、己が十字架を負いつつ、主の御心が指し示す方向へと進み行くことができるのです。それゆえ、この信仰ゆえの大きな力が与えられている私たちは、力強く、時に大胆に、自らの言葉として神の御言葉を口にし、また、人にも伝えることができるのです。従って、この力強さ、大胆さこそが、私たちの信仰の健全さを推し量る上での一つの指標にもなるのでしょう。

 けれども、何をもってして、健全と言うかは、そう単純なことではありません。信仰は、私たち自身の生き方であると同時に、命の問題でもあるからです。それゆえ、その正常な状態については、当然、その関心も高まることになります。哀歌3章18節には、「私の生きる力は絶えた。ただ主を待ち望もう」と、さらに、24節では、「主こそ私の受ける分と私の魂は言い、私は主を待ち望む」とありますが、私たちは、ただぼんやりと主を待ち望んでいるわけではありません。主にこそ希望を置き、どんな時にも、その御心が必ず現れると信じ、主を待ち望むのが、こうして御言葉の前に立つ私たちなのです。ですから、それゆえに、「主」というこの言葉の前に立ち、その信仰の健全さ、命の健全さというものが、推し量れることにもなるのでしょう。では、私たちは、このように語られている御言葉を自分のものとし、自分自身の言葉として口にしているのでしょうか。

 ただ、このように問われ、そこで、私たちは、立ち止まらざるを得ません。「生きる力は絶えた」とはつまり、健康状態や精神状況が最悪なだけでなく、事柄はもっと深刻であり、その状態の中で、果たして、本当に、それこそ安心して自分自身のすべてを神様に明け渡すことなどできるのかと思うからです。 そして、このことは、イエス様が、弟子たちを集め、ここで語ったことと重なるものでもありますが、しかし、正直に言いますと、私の場合、そう問われれば、下をうつむくしかありません。ただ、そこで、困ったときの神頼みのように、神様にお願いするということはあるのでしょう。けれども、それでは、そこに「ただ主を待ち望む」という力強さも、大胆さも、何一つ見出すことはできません。また、と同時に、よほどの信仰の達人でもない限り、果たしてどれだけの人が、そのような時、力強く、大胆に振る舞うことができるのだろうかとも思います。ただ、いずれにせよ、力強さ、大胆さ、さらには、それに伴う健全さというものは、いずれがと、自分の気持ちと神様とを天秤にかけるところから出てくるものではありません。力強く信仰の言葉を口にし、大胆な実行が問われている以上、そこに立つか立たないかが問われているのであって、二つのことを同時に見ているようではお話にもなりません。それは、御言葉が求めるところが、「主」という言葉にのみ望みを置くという、この一点に尽きるものだからです。

 十字架と復活の出来事の中へと大胆に近づく主イエスの姿を見て、弟子たちはじめ、主イエスに従った大勢の人々が驚き恐れたとあり、そして、それを見た主イエスが、十字架と復活の出来事を再び語ったと御言葉にはあります。それは、驚き恐れるということが、答えが見つからない、見ていないという曖昧さに起因するものであり、そこで、再び、主イエスが十字架と復活の出来事を語ったということはつまり、「主」というこの言葉に望みを置くことの理由が、十字架と復活の出来事の中にあるからです。従って、イエス様が私たちに望むことは、驚きや恐怖心でその心が一杯になることではありません。十字架と復活の出来事が、「主」という言葉に希望を置くことのできる徴である以上、それゆえ、感謝と喜びをもって、この出来事を見つめること、それが、十字架と復活の出来事をこれから引き受けようとされている、イエス様ご自身の願いでもあるからです。

 それゆえ、御言葉は自信の持てない私たちの背中を強く押し、そこで、押されるからこそまた、私たちは、神様が指し示す道へと向きを変えることにもなるのです。そして、それは、私たちがその御言葉をこうして受け継いできたことから、それが真実であることが分かります。ですから、もっと深く御言葉の力強さを味わい知るためにも、私たちは、十字架と復活の出来事の中へと飛び込む必要があるのですが、しかし、十字架と復活の意味が分かっていると言ったヤコブとヨハネの兄弟に向かって、イエス様が、いや、お前たちは実は分かっていないのだと、そう仰り、また、この二人の抜け駆けを怒った他の弟子たちを呼び集め、一言釘を刺したように、そもそも十字架と復活の出来事を分かると言うこと自体がどういうことなのかとも思います。ですから、イエス様の願いに応えるためにも、また、健全な信仰を私たちが維持する上でも、私たちはその答えを求め、ためらわずに、十字架と復活の出来事の中へと飛び込む必要があるのです。

 十字架への道筋を辿るために、エルサレムに向かって自ら先頭に立って、イエス様が進んで行かれたのは、世界の歴史が、神様の御心に従うイエス様の姿を通し築かれることを明らかにするためでもありました。けれども、それは、直ぐに分かるものではありません。また、だから、イエス様も、同じことを繰り返し語ったのであり、また、だから、同じことを繰り返し聞いた弟子たちの間にも興味深い変化が生じることとなったのです。ヤコブとヨハネが「栄光をお受けになるとき」と、そう口にしているように、弟子たちは、主の十字架と復活の出来事を主の栄光の出来事として理解するに至ったのです。けれども、それだけでは不十分であったのです。新たに開かれた弟子たちの境地をよくやったと褒めていないことから、その点が明らかにされています。それは、彼らが、この神様の栄光をこの世における栄達、個人的な成長と発展を促す力だと、つまり、自分たちの手の中に置きたいと願うものの算段として、十字架と復活の出来事を理解していただけで、「主」というこの言葉にのみ望みを置くわけではなかったからです。

 弟子たちが、十字架と復活の出来事を神の栄光の現れだと理解したことは、間違いではありませんでした。けれども、その正しさは、自分というものを離れてのことでもありませんでした。むしろ、反対に自分に拘り、しがみつく中で、いわば、自分というものを基準に置き、導き出した結論であったのです。けれども、神様の栄光は、人が願うものとはまったく正反対の経験を通し、明らかにされるものであり、つまり、神様の栄光を知るには、その理解に加えて、その理解が根底から揺さぶられる経験をも必要としていることなのです。そして、それは、多くを手にしたいと願うものにとっては、多くを奪われる経験をするということでもあります。けれども、この経験を通して、私たちの目に明らかにされるものが、神様の栄光でもあるのです。

 従って、この、人間の理解を超えたものを経験として知るには、じたばたする必要があるのでしょう。ですから、ここでの弟子たちの有様を、私たちは他人事のように笑うことはできません。むしろ、目の前に置かれているその姿こそが私たち自身であり、けれども、その私たちが、十字架と復活の出来事を経験して、弟子たちと同じように、必ず変えられていくのです。それは、一言で言えば、思い違い、考え違いが正されるということであり、自らの不健康な状態を知って、健全な生活を取り戻すということでもあるのでしょう。ですから、そういう意味で、私たちに必要なことは、自らの健全さを誇ることでもなければ、健全な状態を手にしようと、あくせくすることでもありません。むしろ、自らの不健全さをしっかりと見つめることであり、自分ではどうすることもできないことをしっかりと自覚し、じたばたすることです。イスラエルにとってのバビロン捕囚がまさにそういうものであり、哀歌は、まさにその嘆き悲しみの中にあって、なお主に望みを置く人の言葉として、語られているのです。そして、それは、主イエスの十字架と復活の出来事も同じです。神の子を見殺しにしたという経験、もう世界には救いはないとの経験、この経験を通して、そこで、弟子たちは知り、分かったのです。手の中に何もない、自分たちの生きる世界には救いがない、そう実感せざるを得ない状況を味わい知ることで、そこで、神の栄光を見ることになった、それが主の弟子たちであり、そして、それが、こうして御言葉に聞いている私たちでもあるということです。

 主イエスは、分かったと言う彼らに、「この私が受けることになる杯を飲み、この私が受けるバプテスマを受けることができるか」と尋ねておりますが、覚悟を決めた彼らにとって、この問いに答えることは、難しいことではありませんでした。当然のことのように、彼らは、「はい、できます」と返事をするのですが、けれども、そこで、主イエスが彼らの言い分を否定せずに認めたのは、彼らの覚悟がいずれ覆ることを知っていたからです。ここではその原因については語られてはおりませんが、けれども、物語の先を知っている私たちには、彼らに何が足りなかったのかは見当がつきます。弟子たちが、主イエスを裏切り、主イエスに最後まで従いきることができなかったのは、彼らができると思ったその覚悟が、実のところ、まったく定まったものではなかったからです。つまり、彼らの「できます」という大胆さは、分かっているからではなく、分かっていなかった、それゆえのことであったということです。

 従って、信仰は、覚悟や意気込みの問題ではありません。自分自身に拘るだけのみみっちい態度を誠実と呼ぶような、そんな身勝手で愚かなものでもありません。もちろん、自分にできもしないことを人に強要するような、そんな傲慢で恥知らずな態度を良しとするものでもありません。主イエスがここで謙ることを弟子たちに勧めているように、謙るということは、自らは何の功しもない、誇るべきところ、自慢すべきところなどなにもない、それが自分だと言うことを体験的に徹底して知っているということでなされるものであり、なおかつ、そのような自分が見放されてもいないことをその人生において、自らの経験として知って、初めてなすことのできるものだということです。つまり、「主」という言葉に望みを置くがゆえの自己肯定感、謙遜とは、この「主にあって」というところから与えられるものであり、十字架と復活の出来事は、まさにこのことを経験として私たちに知らしめてくれるものなのです。ですから、御言葉が語る通りに、この経験を自分のものとすることのできる私たちは、「生きる力が絶えた」と思える出来事、愛する者の死、自分自身の死をも、主というこの言葉だけに望みを置くがゆえに、やがて必ず受け入れることができるようになるのです。また、それだけではありません。主というこの言葉によって、罪深い自分自身が、神様に受け入れられていることを知った私たちは、感謝と喜びをもって、罪深い自分自身をも受け入れることができるのです。それは、こうして、今、主の御前にあって、こうして御言葉に聞く、私たち一人一人の人生、その命が、主と共にある中で築き上げられるものだからです。

 ですから、主の弟子たちが、十字架と復活の出来事を受け入れながらも、なお、保身に走ってしまったのは、彼らが主と共に歩む歴史、その物語を知らなかったからです。ただ、まだその時は訪れてはいないわけですから、それも仕方ないことです。しかし、まただから、彼らは、自分なりの物語、自分だけが願う物語を描こうとして、そんな自らと神様の栄光とを安直に結びつけてもしまったのです。けれども、自分なりに描く物語がいずれ破綻するのは必定です。だから、御言葉も、そのことを私たちに伝えてくれるのです。弟子たちは、やがて、十字架と復活の出来事を通し、痛い思いをすることになるのですが、しかし、十字架と復活の出来事を外より眺めている時には分からなかった彼らが、この出来事の奥深くへと導かれることによって、自らの人生が主と共にあることに気がつかされ、そして、知ったのです。十字架の言葉がどれほど力強いのかを。主の物語を明確に意識して、その背中を押され、一歩を踏み出した時、弟子たちは、はっきりと分かったのです。自分たちが十字架と復活の出来事の傍観者ではなく、登場人物として、主の物語に生きていることを、彼らは身をもって理解し、御言葉がどれほど力強いかを経験させられることになったのです。

 それゆえ、私たちは、この信仰ゆえに、大事なもの、掛け替えのないものをも、しがみつくのではなく、時が来たれば、安心して手放すことができるのです。主にあって結ばれた私たちのこの交わりが、私たちの努力や忍耐によって、築かれるものではなく、主によって、「主」というこの言葉によって築かれ、また、私たちがそこに希望を見出しているからこそ、一つの終わりが終わりではなく、新たな始まりであることに、私たちは気づかされることにもなるのです。卒園式を迎え、今年も大勢のかわいい子供たちを、私たちは、上の学校へと送り出すことになったのですが、私たちが、そこに大きな喜びと希望を感じたのは、私たち藤沢教会が、そのような主の物語に生きているからです。そして、それは、私たち一人一人、この教会にこうして招かれているすべての人々が、そのような人生を実際に歩んでいるのであり、私だけがとか、誰かだけが、ということではなく、こうして御言葉に聞いている私たちすべてが、「主」というこの言葉に希望を置くことが許されているがゆえに、「主」が私たちのこれからの歩みを必ず良いものにしてくださると、そう信じているからです。

 ある方が、「子供たちと共に私たちは、小さな書物を携えて、道の途上にあるのです。それが希望における道であり、神への道であるなら、私たちは幸せであるでしょう」と仰っていましたが、私たちの携える書物とは、聖書の御言葉であり、御言葉を携えるがゆえに私たちは神への道を幸いの内に歩み続けることができるのです。それは、私たちが十字架と復活の物語に生きているからであり、だから、辛く苦しい時、主がその重荷を背負い、共に歩んでくださるのです。だから、病に冒された時にも、老いの坂を上る時にも、また、その先に何が待ち構えているか分からない不安を抱えた時にも、たとえ死と直面させられるその時にも、主と共に生きる私たちには、「主」というこの言葉に望みを置くがゆえに、その先は必ず開かれるのです。ですから、このことを信じ、自らが生きるこの物語をこれからもこうして歩み、主というこの言葉に望みを持ち続けるなら、私たちの一生は、必ず幸いなものとされるのです。そして、それは、私たちが、主と共にある物語に生き、語り続けるということであり、この幸いを多くの人々と分かち合わうということでもあります。なぜなら、分かち合えばこそ、そこで新たに開かれていくのが、多くを与えられ、多くを奪われることの多い私たちの人生だからであり、けれども、そこで、神様の御言葉を信じ、神様の物語に生きるからこそ、私たちは、その人生において、御言葉の力強さを感謝と喜びをもって、受け止めることになるのです。そのことをもう一度しっかりとその胸に落として、大胆に主の物語に生きる私たちでありたいと思います。

祈り
 




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