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棕櫚の主日礼拝 説教 「踊れ、歓呼の声をあげよ」

日本基督教団藤沢教会 2018年3月25日

【旧約聖書】ゼカリア書       9章9~10節
【新約聖書】マルコによる福音書 11章1~11節

「踊れ、歓呼の声をあげよ」
 「ホサナ、主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来たるべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」と、神様の御心が実現したと大喜びする人々のその声を聞き、今年も、棕櫚の主日が訪れたことを知らされます。そして、主のご受難を覚えつつこれまでの時を過ごしてきた私たちは、十字架へと向かう主イエスとの最後の一週間を共にする中で、それゆえにまた気がつかされるのです。主イエスの身に起こるこれよりの出来事を、傍観者のように眺めてはいない私たちは、そこにいる人々、これから起こる一つ一つの出来事の中に、自分自身も同じように置かれ、そして、その目の前にあるすべてが私たちの生きるそのままの現実を現していると、私たちは、気がつかされることになるのです。ですから、レントの期間の最後に与えられている受難週は、そういう意味で、主の御前に置かれている私たち一人一人の、その真実な姿と出会う一週間であると言えるのでしょう。

 それゆえ、そこで出会う自分自身の姿は誤魔化しようもないものとなります。また、それだけに、この現実を受け入れるよう、時に神ご自身が私たちに強く迫ることになります。主イエスがここに至るまで人々を魅了し、その期待値を最大限にまで高め、その後に従わせようとしたところからも、それが分かります。「ホサナ」という群衆の叫び声は、主イエスに魅了された人々のその気持ちを余すところなく現し、また、弟子たちも同じでした。約束の地エルサレムに立つこの時の弟子たちの高揚感はいかばかりのものであったか。ましてや、ゼカリヤの預言から500年もの長きにわたって、救い主の到来を待ち望んでいたのがイスラエルの人々でもありました。そして、時至り、神様もまたその御心を露わにされたわけですから、 聖なる者に触れているとの実感とこの時の高揚感の中に、人々に迫る神様の強い思いが現されていたと、私はそのように思います。

 ただ、気持ちを高ぶらせる人々がいる一方で、その輪の中に入れずにいる人々もおりました。虎視眈々と、主イエスを亡き者にしようと付け狙う人々、そもそも、メシアの到来など、端から信じようともしない、他の異教の神々を信じる人々、主イエスの十字架と復活の出来事の中には、これらの人々もまた、同じように置かれていたのです。ですから、十字架と復活の出来事は、ある特別な人たちだけに許されたものではありません。人類全体が、そこで神様のその眼差しの中に収まめられていたのであり、また、それが、主イエスゆえに現された神様の御心であったということです。そして、それから二千年、その間に何があったのか。主イエスが辿るこの最後の一週間をまた別の視点をもって生きる人々が、数多く生み出されることになったのです。そして、世界中に生み出されたこれらの人々によって、大切に守り続けられてきたものが、十字架からイースターへと向かう、この最後の一週間でもありました。そして、それが、主の弟子たちであり、こうして、今、神様を礼拝する私たち一人一人であるということです。

 ですから、私たちは、「ホサナ、主の名によって来られる方に祝福があるように」と、十字架の出来事を未だ知らぬまま、呑気に声を上げているわけではありません。毎年繰り返し経験させられる、この主イエスと共にある最後の一週間の間、十字架を前にする私たちが知らされることは、十字架のむごさであり、それに加えて、弟子たちの無理解とその非情さ、愚かさ、さらには、幾重にも積み重ねられた主より受けたその恵みが、一枚一枚剥がされ、その結果現される罪ある弟子たちのその姿を見つめ、しかも、その弟子たちの姿に、私たちもまた、自分自身の真実な姿をも見出すことになるからです。ですから、その罪深さを身に負う私たちは、この罪こそが自分自身を作り上げているものの一部であると、いや、それがすべてである、すべてなんだと、そう深く思わさせられることにもなるのです。それゆえ、これから起こることは、隠し通すことを願い、それができると思い込んでいるその醜さが、主の十字架と復活の恵みゆえにほじくり返され、暴き出されることになり、従って、当然、そこには痛みが伴うこととなります。ですから、これよりの一週間は、何一ついいことのない一週間だと、率直にそう思うことがあっても不思議ではありません。しかし、その私たちが、最後には、復活の主イエスと出会い、笑顔へと変えられていくのです。そして、そのためにまた、主イエスの出来事を通し、神様は、今年も、私たちを主イエスと共に十字架へと向かわせ、復活の出来事の中に現されている、私たちの真実なその姿を知らしめ、神様の御心を余すところなく味合わせようとされているのです。

 ただ、そこで、この主のありがたさを思うがゆえに、それを受け止める私たちの反応は、それだけにいくつにも分かれることになります。浮かれて有頂天になる人もいれば、心沈ませる人もいることでしょう。あるいは、幼子のように無邪気な笑顔を浮かべる人もいれば、青い顔をする人もいるのでしょう。また、気持ちを高揚させる人もいれば、冷静さを失わず、一歩下がったところで、主イエスの出来事を見つめる人もいるのでしょう。主イエスの出来事がそれほど恵み深く、また、それぞれの立っていると思うところがまったく同じではないために、どうしても、その人をして、自分自身を右か左か、上か下か、あの人は、この人はと、人と自分とを比べて、色分けさせることになるのです。そして、人をして、そのように思わせるのは、主イエスの出来事が、私たちと神様との距離が、遠いのではなく、それだけ近いということを明らかにしてくれているからです。

 近い、ということが明らかにされたその時、人が取る行動は一つです。その近さを、手応えをもって、受け止めたい、受け止めねばと、そう思いたくなるし、思ってしまう、神様との近さを知った私たちには、そういう真面目さがあるように思います。つまり、何事につけ、自分自身ですべてを決めたい、決めなければならないと思うところの多い私たちは、自分がどの当たりに立っているのかが気になり、確かめたくなってしまうということです。そして、その結果、一喜一憂することにもなるのですが、ただ、長い一生の間には、堂々と胸を張って、これからの一週間を過ごせることもあれば、下をうつむいて、過ごすしかない場合もあります。ちなみに、4月1日がイースターというのは、直近では、1956年、昭和31年で、その前がいつかというと、1945年、昭和20年でありました。ですから、その時、教会は、どのような思いをもってイースターを迎えたのかと思います。ですので、昭和二十年のイースターがどうであったかを覚えている方は、是非、その時の様子をお話しいただきたいと思うのです。空襲が激しさを増す昭和20年において、神様と自分たちとの距離、人間と神様とのその距離が、主イエスの出来事ゆえに近いのだと、果たしてどれだけの人々が心から実感することができたであろうかと思うからです。しかし、そのような中で、主の復活を心から喜ぶことのできた人々も必ずいたわけです。ですから、そのような中で、動かされることなく、イースターを笑顔をもって迎えることのできた人たちのことを、私たちは、すごいと、心の底からそう思い、驚きの声を上げることにもなるのでしょう。

 けれども、感嘆の声を上げつつ、また、そこで思うのです。その人たちにできたということはつまり、感嘆の声を上げた自分には、それができなかったということです。また、それだけに、そうなれることは大事なことですし、そうなれるよう努力することは、もっと大事にもなってくるのでしょう。そして、私たちをして、そう思わせるのは、神様の御心が、主イエスの出来事ゆえに、私たちのすぐ近くで、こうして立っているところに、直接届いているからです。つまり、神様と私たちとの間にあった隔ての壁が、すべて取り除かれ、私たちの目指すべきところまでの見通しが、それだけ良くなったからだということです。けれども、そこでよく見えるようになったのは、神様だけではありません。神様のその眼差しの中に置かれている自分自身の姿、そして、その置かれている現実をもよく見えるようになったということです。この時期、あの人はすごい、この人はダメだと、そして、自分もダメだと、そのような決めつけがなされるのをよく耳にするのはそのためであり、それは、神様の御心が、私たちそれぞれの心にそれだけよく届いているからです。ただ、そうしたことは今始まったものではありません。主イエスの十字架の出来事のその直後から、変わらずに私たちの身の回りで起こり続けていることでもあったのです。

 主イエスの十字架の出来事のその直後、その信仰を言い表した百人隊長のような人がいる一方で、主イエスを売り渡したユダのような人もおりました。それゆえ、一方を羨ましく思い、一方を蔑むと言うことがそこで起こることにもなりました。それは、主イエスの十字架と復活の出来事によって、それだけ神様の御心が、見通せるようになったからなのですが、それだけにまた、私たちの身の回りにおいて、似たようなこと、同じようなことが、見通しが利くがゆえに、未だに起こり続けてもいるのです。右か左か、上か下か、あの人が、この人は、というせめぎ合いを見出すことができるのは、神様が遠いからではなく、それだけ近くにいてくださっているからです。また、そうであるからこそ、この、神様が近いということを、私たち自身が捉え直すために、十字架へと向かう主イエスとの歩みを共にする必要があるのです。なぜなら、上か下か、右か左かということを、私たちがついつい考えてしまうのは、神様が遠くにおられ、それだけに、近づかなければ、近づきたいと、イエス様の出来事によって実現した神様のその御心を、自分がそれをするかしないか、できるかできないか、そういうところで見てしまっているからです。けれども、主イエスの出来事において、神様が私たちに明らかにされたその御心とは、果たして、そういうところで諮られなければならないのでしょうか。

 主にあっては、私たちが上にあると思う者も下にあると思う者も、右にある者も左にある者も、それほどの違いはありません。なぜなら、主イエスの出来事において、大切なことは、ここで「前を行く者も後に従う者も叫んだ」と御言葉にもあるように、前に行く者と後に従う者との中心、その真ん中にいてくださっているのが、私たちの救い主、イエス・キリストというお方であるからです。つまり、前でも後でも同じだと言うことです。そして、それは、私たちが罪赦されているからなのですが、ただ、そこで私たちは、誤解してはなりません。自らのその罪がまったくなくなったということではないからです。「高ぶることなく」主イエスが十字架へと向かわれたように、私たちもまた、自らの思いや考えから離れ、謙り、謙虚でなければなりません。そして、それは、主イエスがロバの背中に揺られながら、エルサレムへと入城されたように、ゆっくりゆっくりと十字架へと進みながら確かめる必要があるということです。そして、それは、私たちの自由が奪われる形でなすことではありません。私たちがその罪より解放された以上、私たちは、自由に自発的にそれぞれにあった形で、主に一切をお任せすれば、自ずと主イエスの願うその姿を手にすることができるのです。なぜなら、そこで私たちが、自らの罪、その至らなさ、欠けの多さ、愚かさとその醜さ、私たちの中に潜む、隠したいと思うその足下にあるそのすべてを自ら進んで引き受け、主に委ねるからこそ、私たちは、十字架の出来事を自らのこととして、感謝と喜びをもって、謙り、すべての現実を受け入れることができるようになるからです。そして、それができるのは、神様が、主イエスと共にある私たちのすべてをご覧になり、すべてをご存じであるからで、つまり、「高ぶることがない」とは、自分が自分がと、高ぶる必要などまったくなくなったからこそ、そこで初めて言えることだということです。

 このように、主の十字架と復活の出来事は、そこに至る歩みを共にする私たちを、主イエスと同じ歩み、生き方へと導くものであり、このことはつまり、私たちが主イエスと一つとされ、同じ命をすでに生きているということです。だから、私たちは、あの人がとか、この人がとか、自分と他とを比べる必要はないのです。神様の眼差しの中にあるすべての人々、百人隊長も、イスカリオテのユダも、そして、私たちも、更に言えば、世界中のすべての人々が同じように、主イエスによって現された神様の御心のただ中へと招かれているのであり、「諸国の民に平和は告げ知られる」とあるように、主イエスの出来事はすべての人々に平和をもたらすことになるからです。だから、この神様の御心を知った私たちが、絶望の中で希望を、空しさの中にあって、なお、安らぎと幸いを、必ず見出すことになるのです。

 ただ、それは、もしかしたら、私たちが望むようにはうまくは行かないものなのかもしれません。けれども、そこに、イエス様は立ち、その私たちと共にいてくださり、このイエス様ゆえの豊かさに与ることの許されている私たちに導きを与え、そして、その私たちを用いて、十字架のイエス様は、世にある人々をすべて神様の御心という陽の当たる場所へと導き、その平安で幸福なる日々の歩みを与えようとされているのです。神様の愛と私たちの悲惨さが十字架において交わり、一つとなって溶け合い、生み出されている現実、この現実の中に置かれている自らの姿を見つめつつ、主の平安と幸いとを身をもって現し、復活のイエス様の御前へと進み行く私たちでありたいと思います。

祈り
 




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