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イースター(復活日)礼拝 説教 「今、ここに主はおられる」

日本基督教団藤沢教会 2018年4月1日

【旧約聖書】イザヤ書      42章10~16節
【新約聖書】ヨハネによる福音書 20章  1~18節

「今、ここに主はおられる」
 イースターおめでとうございます。主イエスの甦りの朝を、こうして、皆様と共に迎え、共にお祝いすることが許され、神様に感謝すると共に、百周年を迎え、新たな歴史を築くべく歩み始めた私たちが、この特別な年をイースターより始められますところに、また神様の特別な思いが置かれているのを感じます。ご存じのように、イースターは、主のご復活をお祝いする、キリスト教における特別な祝祭日です。ただ、そこで重要なことは、復活の有無、その真偽などではありません。今日の御言葉の最後のところで、「私の父であり、あなた方の父である方」と、復活の主イエスご自身がこう仰り、また、それを聞いたマグダラのマリアが、弟子たちのもとに走り、「私は主を見ました」と、そう伝えたとあるように、この日を境に、神様を私たちの父と呼ぶことが許されるに至り、神様と私たちとの絆が、人の目にもはっきりと知らされるようになった、それが、 私たちが主の復活を祝うべき理由です。

 そして、このことはまた、ある特別な、限られた人だけに許されたものではありません。教会のその後の歩みが示すように、神様との幸いな関わりは、この後、世界中に広がっていったわけで、このことはすなわち、主の復活によって神様と絆を結び歩んできた教会は、世間から浮き上がった存在ではなかったということです。むしろ、この世と歩みを共にすればこそ、その後の広がりが許されるに至ったわけで、ですから、自分たちだけで主の復活を、良かった、良かったと祝うのが、その当座は兎も角として、本来のその姿ではないということです。ですので、こうして年度初めとイースターとが重なることで、イースターを祝う教会の使命というものも、改めて思わされますし、それに加えて、新たな歩みが始まった私たちは、なおのこと、自らの信仰について深く考えさせられもするのです。また、だから、御言葉が語るように、この始まりの中に、私たちの信仰の真実な姿を、私たちは、まさに、マグダラのマリアのように、はっきりと見ることが許され、神様と私たち一人一人がしっかりと繋がって生きているということのイメージを具体的な形で持つことができるのです。

 ですので、御言葉が、その時の事の顛末がどういうものであったのかを、主に従った人々の具体的な有様を通し、伝えてくれていることは、新たな出発をなす私たちにとっては、余計に意義深いものでもあるということです。それは、結論を先に申し上げれば、始まりというものはそう言うものなのかもしれませんが、非常にちぐはぐだし、そういうものだということです。裃を着た、堅苦しいばかりのものではなくて、このちぐはぐさの中に、イエス様と共に歩み、神様との絆の絆に生きる私たちの瑞々しさ、神様との関係性に生きる人々の生き生きとした姿を見ることができるからです。だから、それだけに、この絆を、私たちは大事にしなければなりませんし、また、大事にするからこそ、私たちは、いつまでもその瑞々しい信仰を保ち、生き生きと、主と共にその生涯を全うすることができるのです。年配の方が、元気で生き生きとしている藤沢教会は、そういう意味で、まさに復活の主との絆を太くし、その信仰をしっかりと歩んでいるということでもあるのでしょう。ただ、この場にいる私たちすべてが同じようにこれまでを過ごしてきたわけではありません。マグダラのマリアのような方もいれば、主イエスの愛弟子のような人もいる。さらには、知らない、知らないと、主イエスを拒んだ、シモン・ペトロのような人たちもいる。また、それだけに、足並みが揃わず、ちぐはぐに動き回ってしまうことがあるのが、こうしてこの場にいる私たちでもあるのです。頭では分かっていても、その通りには動けないということがあるからです。ですから、それについては、主の復活の最初の証言者たちと私たちとは、あまり違いはないと言えるのでしょう。

 さて、弟子たちはじめ、主イエスに従った人々は、十字架の後に主が復活されるということは、主イエスご自身によって、予め、知らされていたわけです。ですから、何の疑問も持たずに、主が葬られた場所にいそいそと出かけて行って、空の墓を見て無邪気に喜んでもよかったわけです。けれども、御言葉は、主イエスが仰っていたことの意味を理解した者は誰一人としていなかったと言っているのです。しかも、そこで語られているそれぞれの動きをよく見ていきますと、本気で真面目な分、まるでドタバタ喜劇を見ているような思いがいたします。復活の主がそこに確かにおられるので、だらしがなく締まりのないものとはなっていませんが、けれども、空の墓の前に集まってきた人々の、その一つ一つの様子を見るなら、その厳粛さゆえに、返って滑稽な印象を抱いてしまう。まるで、チャップリンの無声映画を見るような、そういうおかしさがあるように思うのです。また、それだけに、一人一人の動きが、余計に生き生きとしたものに感じられるようにも思うのです。

 主イエスの十字架の死を悲しみ、いても立ってもいられずに墓に詣でたマグダラのマリア、このマリアが、墓が空であることを知るやいなや、ペトロと愛弟子と言われている、この二人のところに急ぎ事の次第を伝えに行き、そして、そこで、言ったことは、主イエスが復活しました、と言うことではなく、そのご遺体が盗まれたということでした。主が復活されたというのが、第一報だったのではなく、盗まれた、捕られたが、第一報だったというのです。そして、それを聞いた二人は、これは大変だと、墓に向かって走り出すのですが、年も若く、元気な愛弟子と言われている人は、ペトロを置いてきぼりにして、自分だけさっさと先に行ってしまう有様でした。そこで、ペトロが、待ってくれーといったか言わなかったかは分かりませんが、けれども、若いというのは、そういうものなのかもしれません。気力体力がみなぎっているわけですから、この重大事に待ってなんかいられるか、ということだったのでしょうか。でも、力任せに早く行くことはできても、やっぱりそういうところがまだまだなんでしょう。一人で墓の中に入っていく度胸がなく、ペトロが到着するまで、墓の前で佇んでいたというのです。ただ、佇むというと、聞こえはいいのですが、どうしよう、どうしようと、おろおろするだけだったと、そう言うことなんだろうと思います。そして、そこに、年配のペトロがいそいそとやって来て、墓の中にためらわずに入って行った。年を取るというのは、そういう図太さが身に備わるのでしょう。そして、ペトロは、墓が空であることを確かめ、その面目を施すことにもなるのです。そして、このペトロの報告を聞いて、この愛弟子は、墓の中に入って行って、墓が空であることを確かめ、そして、御言葉は、この愛弟子が、それを見て、信じたと言っているのですが、ただ、何を信じたのか。復活か、それとも、ペトロの言葉、その当たりがはっきりとはしません。けれども、御言葉が、「二人はまだ理解していなかったのである。」と語っていることから、主イエスの覚えめでたきこの愛弟子も、やっぱり分からなかったのだと思います。

 そして、良質な喜劇が、ペーソス、哀愁を漂わせるものであるように、マリアの涙によって、次の幕が開き、いよいよ、主イエスが登場するのです。ところが、主イエスが復活されたとの思い至らず、主イエスのご遺体が盗まれたと思い込むマリアは、墓の中にいる天使を見ても、その思いから離れることができずにいるのです。そして、そこに主イエスが現れるのですが、とんとんと肩を叩かれ、もしもしと尋ねられても、それが主イエスであることが分からず、マリアは、自分の気持ちをただはき出すだけなのです。これを見て、私は、人というものは、こういうものなんだなと思いました。真面目であればあるほど、大切に思えば思うほど、その思いの強さが返って仇となり、目が曇ってしまうことがある。けれども、そのマリアが、その名を呼ばれ、主イエスの声を聞いて、はたと気がつくのです。

 主と共にある歩みというものは、肩を叩かれ、ああ誰かいるなあ、くらいものではなく、その名を呼ばれ、互いに相手が誰かを確かめ合うことから始まっていくものであり、しかも、それは、整然とした形で段階を踏むように進むのではなく、ちぐはぐさの中で、始まって行っていくものだということです。御言葉は、この新たな始まりをそのように語るのですが、このちぐはぐさが、もしかしたら、私たちが主を信じる上で必要なことなのかもしれません。それは、主を信じることが理屈を積み重ね、それで、分かったと、そう言えるようなものではないからです。つまり、主に覚えられているという経験、それが私たちの心を開くのであり、そして、それは、あの人が、この人が、ということではなく、これまでの歴史を通じて、数え切れないだけの信じる者が起こされてきたように、すべての人々が、主に覚えられているということでもあるのです。そして、そのことを私たちが知らされるのは、本気であればこそのちぐはぐさ、いい意味での馬鹿馬鹿しい姿といったものを、正直に、素直に、主の御前に現せばこそのものでもあるということです。

 ただ、先ほど、人というもはこういうものなのかと申し上げましたように、人は、自分の気持ちだけをはき出せばそれでいいと思っているところがあります。特に、一つの思いで一杯になっているときなどは、なおのことそういうものなのだと思います。けれども、そういうときにこそ、私たちは、主の声を聞きたい、主とお会いしたい、というその思いを強くしていくことにもなるのでしょう。ところが、そのようなとき、主の声が届かずに、主は何もしてくださらない、してくださらないから、信じたってと、短絡的にそんな思いに駆られてしまうことが多いのです。けれども、そうした中にあっても、私たちの名を呼んでくださるのが、生きて働きかける私たちの主でもあるのです。ですから、そのためには、あたふたしていいし、じたばたしてもいい、主が呼びかけてくださらなければ、何も始まらないわけですから、それでいいのだと思います。ただ、そこで、大事なことが一つあります。私たちが、どこでじたばたするのかということです。それは一つ、主の御前において、ということで、だから、マリアは、主の呼びかけを聞き、そこで、はっと気がつき、また、だから、そこで、主よ、先生、と、主イエスと気持ちが通い合う経験をすることにもなったのです。

 ただし、その場合、まただから、なんでもかんでも自分の気持ちを主に覆い被せればいいということではありません。「私にすがりつくのはよしなさい」「しがみつくのは止めなさい」と、このマリアに向かって、主イエスがこう仰っているように、主イエスとの適度な距離感、それは、とても大切なことだということです。なぜなら、信仰は、主にしがみつくことではなく、主と共に歩むことであり、まただから、私たちが立ち上がることができないようなとき、主ご自身が,私たちのことを背負い、その先に向かって、共に歩んでくださり、そして、だからこそまた、そこで私たちは知るのです。復活の主が私たちと共にいてくださっていると。マリアが「私は主を見ました」と言っているように、振り返って、そのことを実感させられることになるのが、主の復活をこうしてお祝いする私たちであるということです。

 そして、私たちがそう実感させられるのは、主イエスの父を私たちも同じように天のお父様、アッバ父よと呼びかけることの許された、そのような関係性に生きているからで、だから、神様とのこの絆に生きる私たちのことを、主イエスもまた、兄弟姉妹と呼び、その歩みをいつまでもどこまでも共にしてくださるのです。だから、私たちは、あたふたしてもいいし、じたばたしてもいい。マリア,ペトロ、主イエスの愛弟子、その他の弟子たちも主に従ったすべての人々も、そして、じたばた、あたふたするだけの私たちも、そんな私たちすべてに、主イエス自らが働きかけ、呼びかけてくださっているのは、この地上で終わることのない、永遠の交わり、絆の中を、これからも歩み続けることが許されているからです。従って、主の復活の出来事は、私たちにとっては、この大きな神様の御心を伝える出来事であり、ですから、復活があったかなかったか、復活が本当か本当でないかと、それだけを抜き出して、何かものを言おうとしても、意味はないのです。「私は見捨てることはない」と神様がイザヤに約束されたその約束が、主イエスの十字架と復活の出来事において実現し、しかも、ただ実現しただけではなく、主イエスと共に、父と呼ぶことが許される強い絆を神様ご自身が結んでくださった、それが、主イエスの復活において現された現実なのであり、主イエスの十字架と復活の出来事は、そのことを私たちに伝えてくれているのです。

 そして、この町で百年の歴史を築いてきた、復活の主と共に歩み続けてきたその私たちが、この新たな始まりを主の復活をお祝いすることで始めることが許され、主が共にいてくださっていることを、この日また、新たにさせられているのです。ですから、共にいて下さる主に感謝し、ご一緒に、この町で、主イエスがこの地上に再びやって来られるその時まで、「私は主を見ました」という、この実感をさらに深め、その喜びを一人でも多くの人々と分かち合う私たちでありたいと思います。主は、私たちだけでなく、たくさんの人たちと、その絆を結ぼうとして、この時、うずうずしているのです。また、そのために、こうして御前に立つ私たちを、主が御心にとめる人々のところへと遣わし、主に覚えられている幸いを分かち合おうとされているのです。今年は、たまたま、年度の始まりとイースターが重なりましたが、でも、主にあるたまたまという出来事の中に、一番美味しいものがぎゅっと詰まってもいるものでもあるのです。御言葉がそう語ってくれているのですから、それを真に受けて、ドタバタ、じたばた、あたふたと、でも、復活の主の御前にあることだけは忘れずに、新しい歩みをご一緒に始めたいと思います。

祈り
 






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