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復活節第2主日礼拝 説教 「あなたがたに平和があるように」

日本基督教団藤沢教会 2018年4月8日

【旧約聖書】民数記       13章1~2、17~16節
【新約聖書】ヨハネによる福音書 20章19~31節

「あなたがたに平和があるように」
 主の復活を共々に祝い、祝された時間を分かち合った私たちが、それぞれの馳せ場へと送り出され、そして、再び、復活の主を礼拝するために、その御前へと集められて参りました。その私たちに向かって、今日、御言葉が語るところは、そんな私たち自身についてのことです。19節で「その日、すなわち、週の初めの日」と、また、26節では、「八日の後」とあるように、ここに記されていることは、主の復活を経験したばかりの弟子たちの、その後の一週間の姿なのですが、その当日と一週間後のそれぞれに共通していることは、固く閉ざされた家の中にいた弟子たちの元に、主イエスご自身が現れ、弟子たちは、主が活きて働きたもう方であることを実体験することになったということです。そして、その時の弟子たちの実体験を現実味を帯びて語るために、御言葉は、弟子たち、中でもトマスの復活の主イエスへの疑い、不信仰を取り上げるのです。それは、それがあるからこそまた、主の日での主イエスと出会いを通し、弟子たちのものの見方は大きく変えられ、復活の主を信じるに至ったからです。そして、それは、私たちも同じです。イースターの朝だけが、私たちの信仰を形作ったわけではなく、その後の主との出会いも含め、そのそれぞれが、私たちの信仰の中心を形作ることになるからです。従って、主の復活を祝ったばかりの私たちに御言葉が語ることは、主と現実味をもって、出会い続けることの大切さです。

 けれども、この「現実味をもって」というところが、どうしても心許ない。そう思う人は多いことでしょう。ですから、それを問われると下をうつむくしかなくまた、牧師もそんな人たちの顔を何とか上げさせようとして、その声を大きくして行くことにもなるのでしょう。ただ、そうしたやり取りを復活の主がご覧になり、どう思われることかとも思います。それは、この日、御言葉が語ることが、こうして復活の主と出会う私たちを、どうして、どうしてとやり込めるために語られているものではないからです。従って、もし、この時、そのようなやり取りが復活の主の御前においてなされたとしたら、下をうつむくしかない私たちも、また、声を大きくした畳みかけるように物言う牧師の姿も、そのそれぞれが間違っているということです。

 ユダヤ人を恐れ、不安に駆られ、身を寄せ合うように集まる弟子たちの前に、そして、俺は信じないと、強く言い張るトマスの前に、主イエスご自身がその姿を現わされたのは、彼らの後ろ向きな気持ちをぺしゃんこにし、責め立てるためではありませんでした。主イエスが彼らに最初に語ったことは、「あなた方に平和があるように」ということであったからです。そして、そこで主イエスが口にした「平和」とは、口先だけの希望的観測ではありません。あるのかないのか分からないような、そんなあやふやなものではなく、具体的にそこに実現しているものなのです。なぜなら、十字架に着くその直前に、主イエスは弟子たちに次のように約束されたからです。「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」と、また、「私は再びあなた方と会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなた方から奪い去る者はない」と。だから、主イエスは、「私は、平和をあなた方に残し、私の平和を与える」と、堂々とこのように仰ったのであり、そして、それが、今私たちの目の前で実現しているということなのです。

 ですから、私たちが復活の主を現実味をもって実体験するには、私たち自身、平安な気持ち、平和な心持ちを主を前にして抱く必要があり、従って、それは、下をうつむくことでもなければ、せき立てられることでもありません。ゆったりと静かに落ち着いた気持ちに、私たちが包まれるということで、こうして生きていること、生かされていることの喜びで、その心が一杯になるということです。また、だから、弟子たち、中でも、頑なに主の復活を拒んだトマスも、信じない者ではなく、信じる者へと、大きく変えられていくことになったわけです。そして、この同じ道を、復活の主は、この日、私たち一人ひとりに備えてくださっているわけですから、それゆえ、今、この時、私たちは、この世に恐れをなし、不安に駆られ、そこで、主イエスの復活に疑い惑うようなことがあったとしても、そのことを気に病む必要はありません。同病相憐れむように、弟子たちの後ろ向きな気持ちに自分自身を重ね合わせて、安心感を得る必要などまったくないということです。ですから、「あなた方に平和があるように」との主イエスのこの呼びかけに応え、主イエスの平安の中にただただ憩うこと、主が私たちに与えてくださろうとしていることは、この一点に尽きるものだということです。

 ただ、もちろん、そんなことを言われなくとも、皆さんは、よく分かっていることでもあるのでしょう。ですから、余計なことは言わなくていい、そんな声が聞こえてくるようにも思います。けれども、それがなかなか分からない。分からないからこうして毎週礼拝に通っているのに、それなのに、ますます分からなくなってしまっている。そう言われてみれば、最近特にそうだ。どうしてか。そうだ、牧師のせいだ。話が長い上に、小難しいことばかりを言い過ぎる。そうだ、そうだ、あいつが悪い。平和な心持ちになれないのは、全部が全部牧師が悪いのだ。それゆえにまた、牧師であるわたしも、主イエスの「あなた方に平和があるように」との言葉が気になって気になって仕方ないのです。それは、自分が責められたくないからではありません。実体験したいからです。ですから、それについては、皆さんと同じだということです。では、どうすれば、それを実体験し、そうだ、そうだ、本当にそうだと御言葉が語るとおりのそのままを実感できるのか。御言葉は、そのための道筋をこう語ります。「父が私をお遣わしになったように、私もあなた方を遣わす」と、「平和」が実現したことを語った上で、主イエスは、こう私たちに語りかけるのです。つまり、私と同じことをしなさい、私に倣いなさい、主イエスは、平和を実体験するための道筋として、主イエスご自身に倣うことを私たちに求めるのです。

 けれども、それは、誰もがすでにやっていることでもあります。しかも、どういうわけか、真面目にやればやるほど、真剣にやろうとすればするほど、返って落ち着きを失ってしまうことがあるのです。そして、これはまずいとそう思い、ますますまじめくさって、真剣ぶって、形から入ろうとするのですが、どうもうまくはいかない。それは、やり方がまずいからだとも言えるのでしょうが、しかし、形は大事なことです。形がしっかりと定まっていなければ、あっちふらふらこっちふらふらしかねないことにもなるからです。どんなに涼しい顔をしていても、形がなければ、足下にちょっと火がつこうものなら、あっちっち、と騒ぎ出し、直ぐに化けの皮が剥がれてしまうことにもなりかねないわけですから、それでは、主イエスに倣っているということにはなりません。けれども、形から入ろうとしてもダメ、人の話を聞いてもダメ、じゃあ、どうすれば、実現した主イエスの平和を、私たちは実体験することができるのか。ならば、できもしないことを,主イエスは言っているだけなのか。真面目であればあるほど,真剣であればあるほど、手を伸ばして、さっと手を引っ込められるような気持ちになり、苛立ちを募らせたと言うことが私にもあります。そして、主の日の朝をこうして皆さんとご一緒に迎え、主の平和と、口にしつつも、それが、体裁を繕うようなものであったことが、これまで何度あったかとも思います。そのため、時に、本気で、神様、そりゃあ、ないでしょうと、何度心の中で叫んだことかと思います。けれども、弟子たち、トマスがそうであるように、それが、復活の主の前にこうして立たされている私たちの偽ざる姿なのではないでしょうか。

 主に従う、倣うと言うことは、主イエスの仮面を被ることではありません。イエスぶることでもなければ、イエス臭く生きることでもなく、ご自分を現してまでその気持ちを伝えようとされている主イエスの気持ちを、私たちが、自分の気持ちを脇に置いてでも知ろうとすることです。主イエスに倣い、主イエスに従うと言うことは、そういうことであって、頑張って、イエスぶることでも、一生懸命イエス臭く生きることでもないのです。十字架の傷跡、その手、その体に刻まれたその傷跡を見せ、トマスに至っては、主イエスがご自身のその傷口にその手までを入れることをお許しになったように、主イエスの痛みを知るというところから始まっていくのが、主イエスに倣い、お従いするということなのです。そして、それは、主イエスの痛みが、私たち自身の痛みとなるということでもあります。ですから、先ほど、分からない、分からない、どうしてだと、そう思う私自身の気持ちをお話ししましたが、それはまた、主イエスの十字架の痛みを、私自身が感じて、そして、その痛みから逃れようとして、分からない、分からない、どうしてと、そう叫び声を上げているということでもあるのでしょう。ただ、このことはまた、主イエスの気持ちではなく、私たち自身が、自分の気持ちに溺れ、流されるだけでもあったということです。それだけ、主の十字架が重いものでもあるからです。けれども、では、主の十字架は、私たちにその重荷を背負わせ、苦しませ、平安な気持ちから私たちを遠ざけようとして、私たちの目の前に置かれているものなのでしょうか。それが、十字架の苦しみを味わい尽くし、復活された主イエスの御心であろうはずはありません。

 十字架による主イエスのその傷は、そこにまた、主イエスの気持ちが現れ出ているのであり、それは、痛みであり、苦しみでもありました。けれども、それは、主イエスを見殺しにした私たちのその罪を暴き出し、痛めつけるために、その手に、その脇腹に刻まれたものではありません。その痛々しい様は、痛々しい姿を現すためだけのものではなく、私たちを喜びへと導くものであり、私たちの平和の根源として刻まれたもの、それが主イエスの傷跡でもあるのです。そして、それは、主の赦しです。「誰の罪でも、あなた方が許せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなた方が赦さなければ、赦されないまま残る」と仰るように、赦された者として復活の主と出会っているのが、この場にいる私たちであるということです。それゆえ、このことが、私たちの信仰の扉を開くことにもなったのですが、ただ、この信仰を、私たちは、自分の力で、イエスぶって、イエス臭く生きて、イエス面して、手にしたわけではありません。主イエスご自身がその息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい」と仰ったように、信仰とは掴み取るものではなく、与えられるものだと言うことです。そして、このことはつまり、私たちが、すでに、主の赦しの中に生きているということです。それが私たちであり、主イエスに命の息吹を与えられ、こうして主の赦しに与り生きるのが、こうしてこの日御言葉に聞いている私たち一人ひとりであるということです。

 ただ、その私たちが、信仰者としての自分自身を演じ、窮屈な思いを感じているのは、どうしてなのか。それは、赦された関係性の中に生きる自分自身の姿に思い至らないからなのではないでしょうか。だから、それが鼻について、余計に真面目臭く、本気ぶって、信仰者としての自分を演じなければならなくなるのでしょう。あるいは、トマスのように、それを覆い隠すかのように、分かりやすい理屈を振り回し、自分は悪くない、正しいのだと、そう訴えることにもなるのでしょう。けれども、その傷を示しつつ、その私たちが主の赦しの中を生きていることを明らかにしてくださっているのが、こうして今私たちの御前に立つ復活の主イエスでもあるのです。だから、主の怒りではなく、主の赦しを知ることで、私たちは、イエスぶるのでもなく、また、イエス臭く生きるのでもなく、もちろん、イエス面して、偉そうなことを言うのでもなく、主の赦しの中を歩むことができるのです。従って、この赦しこそが主の御心、主が私たちに伝えようとされている気持ちであることを知る私たちにとって、この主の赦しこそが、私たちのありのままを現しているということでなのです。まただから、その自分自身のありのままの姿、つまり、それが私たちにとっての自然体、ありのままの姿であるわけですから、私たちは、肩肘を張らずに、主に赦されたそのありのままの姿を主イエスに倣い、現すことになるのです。

 その主イエスが「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」、「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と仰るのですが、では、信じないものではなく、信じる者へと、どのようにすれば、私たちが、この信じる幸いを実感することができるようになれるのでしょうか。これは、最後まで取っておいたことなのですが、これを言ったら、きっと、皆さんは、もっと早く言って欲しかったと、そう思うに違いありません。復活の主とこうして出会い、主の平和を実体験する私たちに許されていることは、私たちが、こうして主の御声に聞き、主のその気持ちを知っているということでもあります。つまり、安心して、その場に、つまり、主の御前にいることができるということです。そして、このことは、主の言葉を一言も聞き漏らさず、仰るその言葉をすべて分かってやろう、聞かせてやろう、分からせてやろう、そういう暑苦しく、恩着せがましいものではないということです。お父さん、お母さんに抱かれすやすや眠る幼子のように、復活の主と出会った私たちは、不安で眠ることもできない者ではなく、安心して眠ることのできる者だということです。従って、牧師が説教の度に、最初に皆さんに伝えるべきことは、もしかしたら、「これから、聖書のお話を致します。どうぞ、ゆっくりお休みください。」と、そうお伝えすることではないかということです。

 復活の主を実体験した私たちが、その後、イエスぶるのでもなく、イエス臭く生きるのでもなく、もちろん、イエス面をするのでもなく、主イエスの赦しに生きる自然なその姿をもって、与えられた命を、共にある人々共に喜びに溢れたその日その日を過ごすことが赦されるのは、主イエスの気持ちが、私たちから離れることがないのを知っているからです。このことを、様々あった一週間の歩みを終え、こうして皆さんとご一緒に復活の主と出会うことで、改めて、知らされたように思います。そして、このことはまた、だから、私たちが、イエスぶってはいけないし、イエス面をしてもいけない、ということではありません。小さい子どもが、お父さんの帽子を被り、お父さんの靴を履いて、お父さんづらをして、お父さんぶることがありますが、それは、微笑ましいものであって、決して、うさん臭さを放つものではありません。そのありのままの姿の中に、すべてを赦し合う安心できるその関係性が、そのまま現されているのだと思います。そして、復活の主との出会いを実体験した私たちの姿とは、そういうものであり、だから、つまらない理屈を仮に並べ立てたとしても、主イエスと同じように、神様の子として生かされていることを知る私たちは、だから、互いに赦し合うところから始めて、主にある平安な日々を過ごすことができるのです。

 復活の主は、すべての人々をこの平安の中へと現実味をもって招かれているのであり、そのための扉が開かれていることを、私たちは、復活の主に倣い、お従いすることで知らされるのです。弟子たちはそのことを実体験し、代々の聖徒らも私たちも、それを実体験すべく、だから、こうしてそれぞれの毎日が与えられてもいるのです。ですから、そのように、主の赦しに与る私たちでもあるわけですから、主イエスと同じように、赦すことから毎日を始めて行きたいと思います。

祈り
 






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