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復活節第4主日礼拝 説教 「笑顔であるために」

日本基督教団藤沢教会 2018年4月22日

【旧約聖書】レビ記       19章  9~18節
【新約聖書】ヨハネによる福音書 13章31~35節

「笑顔であるために」
 様々な出会い、出来事を通し、主が活きて共におられることを知らされることの多い私たちですが、先週もまた、それを知らされた一週間であったように思います。昨日、藤沢友の会主催による「ペーパーランタン」という映画の上映と出演なさった森重昭さんの講演会が教会で行われましたが、広島への原爆投下によるアメリカ人捕虜の犠牲という長く隠されていた史実を、長年にわたる調査によって掘り起こされた森さんのお人柄に触れることが許され、様々な気づきが与えられたように思います。私も、友の会のご厚意により、一昨日、昨日と、森さんと直接お話しする機会が与えられ、新たな気づきが与えられた一人でありますが、そこで、森さんより伺ったことを一つだけご紹介させていただきますと、それは、森さんがお帰りになる直前のことでした。森さんがその業績によって、オバマ大統領とお会いし、森さんへの謝辞がオバマ大統領より直接なされたことは、皆さんご存じのことと思いますが、ただ、オバマ大統領とお会いしたということだけが一人歩きし、森さんが本当に伝えたいことが伝わらない。そして、それは、原爆についても同じで、従って、その真実な姿については、ただ経験するしかない、森さんご夫妻が声を揃え、仰ったことは、この、伝えたいことが伝わらないもどかしさでありました。それだけにまた、だから、伝えるということを森さんご夫妻は、自らの使命として、講演活動を行っているとのことでしたが、そこで、別れ際ではありましたが、森さんご夫妻に、私は、こうお尋ねしてみたのです。

 「伝えたいことが伝わらないもどかしさを感じつつ講演活動をなさっているとのことですが、森さんは、どういうお気持ちで講演活動をされているのですか。そのようなとき、分かってくれる人にだけ分かってもらえればいいという消極的な言葉をよく耳にするのですが、森さんご夫妻からは、そういう印象を受けることはありませんでした。ご自身のなさっていることをみんなに聞いて欲しい、伝えたい、分かってもらいたい。ただそれだけの思いで行動されているように思ったのですが、いかがでしょうか」と、こうお尋ねしましたところ、ご夫妻は、声を揃えて、「その通りです」と、その強いお気持ちを口にされたのです。そして、森さんご夫妻のこの声が頭から離れなかった私は、主の日の備えをする中で改めて知らされたのです。それは、今日、御言葉を通し語りかける神様もイエス様も同じであるということです。同じように、私たちに聞いて欲しいし、伝えたいし、分かってもらいたい、今日の御言葉はそれぞれ、この神様とイエス様の気持ちを私たちに率直に伝えてくれているということでした。

 気持ちが通じ合い、分かり合える喜び、人と人とのあらゆる関わりにおいて、私たちが期待することは、この一点であるように思います。マニュアル通りに動くよう命じられているコンビニの店員さんともそうです。会計の際など、にっこり微笑みかけてもらえれば、何か得をしたような気持ちにさせられるのはそのためです。従って、そこでは単に物のやり取りだけがなされているわけではありません。昔、ファーストフードのお店で、スマイルゼロ円と値段表に書かれていたことがありましたが、けれども、それが長続きすることはありませんでした。人の好意、気持ちという物を数量化することへの抵抗感があったからか、あるいは、子どもたちがよく「スマイルください」と、品物を買わずにそれだけを言って帰って行くことが多かったからか、その真意は分かりませんが、兎も角、長くは続かなかったことだけは覚えております。ただ、スマイルゼロ円というサービスを思いついたと言うことはつまり、気持ちの通じ合うことをそれだけ人が望んでいるということであり、また、人がそれを望むのは、人と分かり合うことがそれだけ難しいと、つまり、笑顔が貴重だと、多くの人々がそう受け止めているからでもあるのでしょう。ですから、御言葉が語る隣人愛、相互の愛は、そういう意味で、人類全体が望む、普遍的な課題がここでこのように提示されているということです。そして、神様とイエス様が、それを戒め、掟として命じておられるということはつまり、それが、神様とイエス様の願いでもあるということです。ですから、私たちが、御言葉にこうして聞き、御言葉を通して神様とイエス様のお気持ちに触れることの許されている以上、その願いに応え、お互いに気持ちを通わせ、笑顔をもって互いに接しないわけには参りません。

 さて、ここで現されている神様とイエス様の願いは、神様が独り子であるイエス様を十字架に着けることで現されたものでもありました。ですから、それが高価であるのは間違いありません。ただ、この願いはすべての人のためでもありました。従って、それは、誰もが手にすることができるものだということです。御言葉は、この神様の低さを、ある意味での私たちの信仰の垣根の低さを、ここでは、栄光という言葉をもって現すのですが、それゆえ、十字架と復活の出来事を主の栄光の出来事だと信じる私たちは、当然のこととして、この神様とイエス様の願いを、その願い通りに受け止め、過ごさなければならないわけです。ですから、私たちは、この神様の低さを感謝して、それを自分のものとして、大切にすればいいのですが、ところが、それが、高価なだけにまた、難しいところがあるわけです。

 神様が望んでおられることは、この恵みを私たちが普段使いすることです。ところが、私たちは、まさか値上がりを期待してということはないのでしょうが、それを希少価値が高いものだと思って、仕舞い込んでしまっているところがあるように思うのです。また、それだけではありません。高価すぎて、自分は手にすることができないと思い込んで、諦めてしまっているところもあるようにも思います。だから、壊したらどうしよう、無くしたらどうしよう、誰かに盗まれたらどうしようと、あれこれ考えてしまうのでしょう。だから、顔が引きつって、笑顔になれない。あるいはまた、諦められず、裏から手を回してでも手に入れたいと思ってしまう。けれども、それが見当違いのやり方であることが分からず、結局は、諦めの気持ちを大きくすることにもなるのでしょう。ですから、それでは笑顔なんてほど遠いことにもなりましょうし、まただから、隣人を自分と同じように愛すること、互いに愛し合うことも、ますます希少価値が高いものと思い込み、諦めてしまうことになるのでしょう。そして、愛というものが、絵に描いた餅でないだけに、結果、なかなか手の届かない、陳列棚の一番上に飾られているような、「高嶺の花」であると、そう思い込んでしまうことにもなるのでしょう。けれども、またそうであるからこそ、神様も、さあ、手にとってご覧なさいと、気持ち全開で勧めもするのです。私たちを笑顔であることから遠ざけないために、盗むな、欺くな、悪口を言うな、弱い立場のものへの配慮を怠るなと、みんなが笑顔であり続けるために必要な道筋を示すのです。

 それゆえ、この神様のお気持ちに触れ、この道筋を懸命に従おうとしたのがイスラエルの人々でもありましたが、ところが、聖書が証言しているように、そこで、ことごとく失敗したのが、イスラエルという神の民でもありました。ただ、神様は、それでもイスラエルの人々を見限ることはありませんでした。だから、彼らもまた、諦めずに懸命に戒めに聞き従おうとしたのです。ですから、彼らの真面目さは、自らの失敗と懸命に向き合おうとしたからであり、伝えられていることを伝えられたままに行動する彼らのそうした姿勢は、間違いなく、その信念に基づく、彼らなりの正しさを貫くものでもあったわけです。けれども、この正しさが、返って、逆の結果をもたらすことにもなりました。それは、自らの正しさ、その思いに忠実であろうとするが余り、笑顔を失っていったのです。それは、神様の気持ちがすこんと抜け落ちてしまったからでもありますが、だから、人を傷つけ、自分自身をも傷つけるその窮屈さゆえに、ますます笑顔を失い、雰囲気を悪くしていくことにもなったのです。

 イエス様が、そういうユダヤの人々の態度を「律法主義」と呼んで、厳しく接するのは、それゆえのことでもありましたが、けれども、イエス様がそう言ったからといって、私たちが、まるで鬼の首を取ったように、彼らのこの真面目さを物笑いの種にすることはできません。ここで、イエス様が「ユダヤ人たちに言ったように、今、同じことをあなた方に言っておく」と仰っているのは、私たちにもそういうところがないのではなく、あるからです。ですから、それだけに、ここでイエス様が、「新しい掟」「新しい戒め」を与えると仰っていることは、とても有り難いことだと言えるのでしょう。笑顔を見失っている人に新たな道を示すものでもあるからです。では、この新しさを、私たちは、それこそ有り難いものとして受け止め、実際に、この新しさに生きていると言えるのでしょうか。こういうとき、幼稚園の子どもたちは、自信をもって、はいはいはいと元気よく手を上げてくれるのですが、皆さんはどうでしょうか。

 多少の脱線はあったとしても、十戒で命じられていることについては、特に意識せずとも、日々、忠実にその言葉どおりに歩んでいるのが私たちであるように思います。ところが、神様とイエス様のその願い通りに生きたいと願う私たちが、日々、笑顔でいられないのは不思議なことです。それは、イエス様がここで仰っている新しさを、私たちが誤解しているからです。愛を説きながらも愛がない、冷え切った関係性がそこで生じることになるのは、そのためです。新しい掟を元に互いに生きようとするのではなく、掟という言葉に引きづられてしまっているからです。ですから、当然そういうところでは笑顔は失われることにもなります。そして、笑顔でいられない理由を自分以外のものに求め、そのため、このイエス様の言葉を、どこか、できもしない、手にすることもできないものだと考えてしまうのです。イエス様の新しさに生きることが希少価値の高いものと私たちが思い込んでしまうのは、そうした理由からからなのだと思います。

 けれども、イエス様ゆえの新しさは、私たちの手の届かないものではありません。「私があなた方を愛したように」とイエス様が仰るように、私たち一人ひとりに与えられているものでもあり、それゆえ、誰もが必ず分かり、すべての人々を笑顔に変えることのできるものなのです。ですから、できない、理由があるとすれば、それは私たちの側にあるということです。だから、「互いに愛し合いなさい」と、その願いを、その気持ちを、それこそ、懸命にイエス様は伝えようとされているのです。従って、それは、分かる人だけが分かればいいというような、消極的なものではありません。冒頭で「さて、ユダが出て行くと」という、この一言をもって、「互いに愛し合いなさい」とこの新しい掟を口にされているように、また、この直後では、ペトロの裏切りの予告が明確に語られているように、ご自分の気持ちを弟子たちが勝手な思い込みゆえに誤解していることは、イエス様ご自身、はっきりと分かっていたのです。けれども、その弟子たちに向かって、「互いに愛し合いなさい」というこの新しい掟を伝えているのがイエス様というお方なのです。

 互いに愛し合うことの貴さ、正しさ、笑顔をもって生きることを可能とするこの愛の有り難さは、誰もが分かっていることであり、ただ、このことの前で失敗し挫折を繰り返してきたのが、私たちでもありました。また、それが分かっているだけに、私たちも愛することの貴さを口をとんがらせて訴えようともするのでしょう。でも、そのどこが新しいと言えるのでしょうか。愛を説き、愛の重要性を語り、それだけで何かが変わるくらいであれば、イエス様は、十字架につく必要はなかったはずです。けれども、それにも関わらず、十字架につかれたのがイエス様だったのです。イエス様が仰る新しさとは、一体,何が新しいのでしょうか。それは、イエス様が私たちと活きて共にいてくださっているということなのですが、このことはつまり、今、ここにイエス様がいてくださっているということです。愛を求めつつ、裏切ることでしか返すことのできない私たちと、イエス様は、どんな時にも共にいて、一緒に歩んでくださっているということで、そのイエス様のいらっしゃるところに私たちも一緒にいることが許されているということです。新しさとは、この点にあるのであって、理屈の上のことではないということです。私は、このことを皆さんとご一緒にこの一週間を過ごす中で、自分自身、新たにされたように思います。

 この、イエス様と一緒にいるというイメージは、どういうものでしょうか。これまで、先頭に立って私たちの気持ちを奮い立たせ、導かれるイエス様、あるいは、後ろから私たちの背中を強く押し、ご自分がここにいることを強く訴えるイエス様、そんなイメージでイエス様のことを語っていたように思います。そして、それは、もちろん、間違っていたわけではありません。けれども、それだけではなかったと、御言葉を通し、新たにされたように思います。イエス様が、「私があなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい」と仰った「互いに」ということは、前とか後ろとか、そういうことではありません。「互いに」ということはつまり、目と目を合わせて、互いの気持ちを理解し合えるということです。裏切ることしかできない私たちの手を振り払うのではなく、横にいて手を繋いで、一緒に歩んでくださっている。それが私たちのイエス様であり、そのイエス様が、あの人がとか、この人がとか、そういうことではなくて、私たちすべてと一緒に歩んでくださっている。新しさとは、この神様とイエス様の丁寧な、まさに神対応を言うのであって、教え諭し導くと言った、上から目線のものではないということです。そして、このことを。イエス様は、私たちだけにそうするようにと命じられているわけではないということです。

 「弟子であることを、皆が知るようになる」とイエス様が仰るように、イエス様と共にある私たちは、イエス様と同じように、イエス様の願い、そのお気持ちを人に伝えることができるのです。それは、イエス様が私たちの横にいてくださっているからであり、それゆえ、私たちは、目と目を合わせ、気持ちを通わせて、このことをしっかりとこの町の人々に伝えることが許されているのです。ですから、この点について、私たちは自信を持っていいわけです。なぜなら、いろいろある私たちとそれでも共に歩んでくださっているのがイエス様であり、そのイエス様が、ただ共にいてくださっている。それが許されているのが私たちでもあるわけですから、キリストの弟子であり、イエス様と神様の意をしっかりと汲む私たちは、笑顔をもって自ずと互いに愛し合い歩むことが許されるのです。笑顔でいなければとか、互いに愛さなければとか、そういうことではなく、主が共に生きて働いている以上、笑顔をもって互いに愛し合うのが私たちである。御言葉は、この神様とイエス様の気持ち、その願いをこの日率直に伝えてくれているのであり、それが私たちの足下に置かれている神様の御心でもあるのです。祈りましょう。

祈り
 




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