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復活節第5主日礼拝 説教 「神にとって一番大切なもの」

日本基督教団藤沢教会 2018年4月29日

【旧約聖書】出エジプト記    19章1~  8節
【新約聖書】ヨハネによる福音書 15章1~11節

「神にとって一番大切なもの」
 主の復活を共々にお祝いすることで始まった2018年度の歩みも、早一月が過ぎようとしておりますが、最初が肝心とよく言われますように、百周年を迎えた私たちにとって、この一年の歩みは、次の百年を方向付けることにもなるのでしょう。特に、今日は、礼拝の後、定期教会総会が行われるわけですが、それゆえ、この日行われる教会総会は、次の百年を方向付ける重要な会議の場ともなるのでしょう。ですから、そのためにも、私たちは、今この時、しっかりと御言葉に聞き、神様の御心と自分自身とをぴったりと重ね合わせる必要があるように思います。けれども、それは、我が心を御心となすということではありません。祈った結果が、神様の御心であり、それを御心として受け入れ、誠実に答えていくこと、総会決議において求められることは、この点であるからです。ただし、だから、私たちが、神様の御心にただ一方的に従わねばならないということでもありません。出エジプト記19章8節の御言葉にもありますように、神の民の歴史とは、神様と私たちとの共同作業によって築かれるものです。つまり、私たちが、総会という手法をもって、神様の御心に問うことが許されているのは、それだけ神様が私たちのことを信頼してすべてを任せようとされているからです。だから、この信頼にお応えすべく、私たちもまた、示された結果を誠実に喜びをもって応えていく者とされるのです。

 そこで、早速御言葉に聞いて参りたいと思いますが、この日、それぞれの御言葉が私たちに語ってくれていることは、御心に問いつつ歩む神の民の基礎がどこに置かれているかということです。つまり、その歩むべき道、もっと言えば、私たちの日々の暮らしの具体的な姿など、私たちの信仰が具体的、かつ、形あるものとされるための基礎が、このそれぞれの御言葉の上に置かれているということです。それゆえ、それは、昔は良かった、あるいは、これからはいい時代がやってくるなどといった、自分に都合ばかり良いものではありません。昔も今も変わりなく、私たちのことをその御心に留めてくださっているのが私たちの神様であり、だからこそ、私たちの日々の暮らしは、信仰ゆえにこうして成り立つことにもなるのです。ですから、私たちの日々の暮らしは、今も昔もこれからも変わることはありません。出エジプト記19:3で「ヤコブの家にこのように語り、イスラエルの人々に告げなさい」と、神様がモーセに語ったように、アブラハム、イサク、ヤコブの神が、時代を隔てたこの時も心変わりされることがないように、時に厳しく歴史と対峙される神様ではありますが、けれども、それゆえにまた、神様は、その慈しみと憐れみをもって、虐げられ、あえぐ私たちをご自分の前に連れ出し、言葉をかけ、導いてくださるのです。まさに父として私たちを守ろうとされているがゆえに、歴史に対する厳しい目、憐れみと慈しみとを惜しまず現わし、そして、その神様の思いを率直に知らされているのが、こうして神様の御前に立つこの時の私たちでもあるということです。

 そして、その私たちは、自らの父祖、こうして百年この教会を支えてこられた先達の方々と同じように、この神様の恵みに与ることが許されているわけです。ですから、神様のお気持ちを誰よりもよく知っている私たちは、5節に「今」とあるように、それゆえに「今」、私たち自身のことを「宝」、こうして集められている教会を「祭司の王国」、このように特別な神様の配慮をもって、父祖たちと共に生きることの許されている私たちを「聖なる国民」と呼んでくださっている神様との関係をただただ喜び、心を合わせ、それこそ、誰から強いられるわけでもなく、神様の御心に自由に答えることにもなるのです。従って、19章8節の「私たちは、主が語られたことをすべて、行います」との御言葉は、神様の御心に応え、従う私たちのそのままの気持ちでもあるということです。

 ですから、総会において決議された様々な事柄は、「私たちは主が語られたことをすべて、行います」と御言葉にあるように、それが、この場にいる私たちの総意であり、喜びをもって、心からこの誓約の言葉を口にするのが、こうして御言葉に聞いている私たちでもあるということです。そして、それが、神様がどんな時にも常に絶えず、私たちに望んでおられることであり、従って、それが、今日の結論でもあるわけですから、ということで、と、これで、説教を終わってもいいのかもしれません。けれども、それでは、皆さんはフラストレーションを溜めることにもなるのでしょう。この後、神様は、律法、戒めという形で、その道筋を歩むための具体的な示唆をイスラエルに与え、また、それが、彼らの暮らしを形作ることにもなったのですが、けれども、そこで彼ら自身が明らかにすることは、「私たちは、主が語られたことをすべて、行います」ということからは、ほど遠い現実であったからです。つまり、話が違うということを、私たちは知っているわけですから、威勢良く、はい分かりました、必ずやりますなどとは、おいそれとは、口にできない、それが私たちでもあるわけです。ですから、神様の御心に答え、その喜びを共にするためには、そう答えるべき理由をはっきりと知る必要があります。

 これまでの私たちの歴史が物語るように、神様のお気持ちに進んでお応えしたいと願ってきたのが、こうして御言葉に聞き続けてきた私たちです。ですから、聞きたい、従いたい、そう思う私たちにとって、それこそ、八節の御言葉こそが、その本心であるのは間違いありません。ただ、求められていることのすべてを完全につつがなく滞りなく行えるかというと、自信を持って、やりますと答えることができないのも確かです。そして、牧師もまた、それをよく知っているだけに、よほどの人物でもない限り、厳しいことを口にすることに躊躇いを覚えてしまうわけです。けれども、だから、牧師も信徒もお互いに腰が定まらなくていいということではありません。「これがイスラエルの人々に語るべき言葉である」と御言葉にもあるように、祭司の王国、聖なる国民とまで言われた私たちが、この神様の気持ちに応えないわけにはいかないからです。また、応えるからこそ、神様との特別な関係性に生きる私たちクリスチャンのアイデンティティー、私たちが私たちであるということが、そこで確かめられ、私たちの信仰は、より確かなものとされていくことにもなるのです。

 ですから、ここで御言葉が語るように、心を一つにし、元気よく、ハイやりますと言えることが、私たちの信仰にとっては、とても大切なことなのです。アーメン、アーメンとだけ言って、何もせずにいるだけでは、信仰の醍醐味を味わうことはないからです。しかし、ここに記されていることですが、実のところ、神様は、ここではまだイスラエルに十戒も律法も与えられたわけではありませんので、イスラエルの人々は、具体的に何が求められているのかも分からないまま、ただやりますと答えているのです。ですから、ここでのことは、空手形に裏版を押すようなもので、後のことを考えれば、非常に恐ろしいことだとも言えるのでしょう。ここでこのようなことを言ってしまったがために、イスラエルの人々は、神様に咎め立てられることにもなったわけですから、それが分かっているだけに、私たちとしても、強く求められれば求められるほど、返って、えっ、ちょっと待ってと言いたくなってしまうわけです。けれども、ここで一つだけはっきりしていることがあります。イスラエルの人々はこう神様に答え、答えればこそ、数々の罪と過ちを咎められ、糾弾されることにもなったのですが、それにもかかわらず、神様は、見限ることなく、最後には、独り子の命までも差し出して、その関わりを保とうとされたのです。このことはつまり、イスラエルが御心に完全に応えることができたかできなかったか、求められていることをすべて完全に行えたか行えなかったか、そういうことに関わらず、それでもイスラエルと関わり続けてくださったのが私たちの神様であり、そして、それが許されたのは、できないとき、やらなかったとき、その時にこの神様の御心へと常に絶えず立ち帰ったのがイスラエルであったからです。

 嘘偽りなく生きることは、私たちが私たちであるためにはとても大事なことです。ただ、それができなかったことを同時に物語るのが聖書の御言葉でもあります。けれども、そこで、何もやらず、何一つできないままで終わってしまったとしたら、御言葉は受け継がれることなく、歴史の中に消え去ってしまったことでしょう。けれども、そうではなかった。しっかりと歴史の中で大きな位置を占めたのが、聖書の御言葉であり、そして、神の民である教会であったのです。それは、人々が神様の御言葉の上にしっかりと立ち、歩み続けてきたからであり、神様に誓った事柄に対し、どういう形であれ、誠実であり続けようとしたからです。そして、その誠実さとは、できるかできないか、したかしなかったかといった、そんな自慢話の類いのことでもなければ、言い訳ばかりの卑屈な態度でもありません。やるかやらないか、できるかできないかと言うことばかりに気持ちが向かい、気もそぞろに何かをすることでもありません。自らに対する誠実さ以前に、神様への誠実さを優先したからこそ、許されたことでもありました。そして、それが許されたのは、すでに祭司の王国、聖なる国民とされているのが、この時のイスラエルであり、こうして御言葉に聞いている私たちであるからです。できるかできないか、するかしないかといった、神様に言質を取られることがどうしても気になってしまう私たちではありますが、けれども、そういうことは、まったく問題とされてはいないのです。ですから、8節の言葉は、言わされたことでもなければ、また、言わなければと思い込まされたものでもありません。神様との特別な関係性の中に置かれ、自ずとわき出るその喜びが、彼らをして自ずと自然に自由にこの言葉を言わしめたと言うことなのです。

 けれども、私たちには、どうしても、「それでも」というところが必ず残るものです。そこで、そういう私たちのために助け船を出してくださっているのが、今私たちと共にある主イエス・キリストというお方でもあるのですが、今日もそうです。主がここで、私に繋がっていなさい、と繰り返し仰っておられるわけですが、この繋がっていると言うことを繰り返し語るのは、最後の11節で「これらのことを話したのは、私の喜びがあなた方の内にあり、あなた方が喜びに満たされるためです」と仰っておられるように、私たちを笑顔にさせるために、主イエスは、同じことを繰り返し語るのです。そして、それは、出エジプト記19:1以下の御言葉も同じです。神様とイエス様が私たちに伝えたいことは、ご自身が、私たちに喜びを与え、私たちの顔を笑顔へと変える方だということなのです。ですから、私たちが私たちであるということを本質的に決定づけるものは、この笑顔でもあります。従って、教会員でない方は、これまで、自分とはまったく関係ない話を牧師が長々としていると思われたのでしょうが、けれども、ここでのことは、教会員であるとか未信者であるとか、そういうことを念頭に置きながら語られているものではありません。イエス様と繋がっている者は、すべて神様との関わりの中に置かれ、そして、そこに自らのアイデンティティーを見出す者が私であると、そう言葉に表すことの許されている者は、必ず喜びに満たされ、笑顔をもって、毎日を過ごすことになるのです。それが私たちの暮らし、生活となっていくのだと、私たちと同じようにこの地上での暮らしを味わい尽くされたイエス様がそう仰っておられるのです。

 そして、それは、私たちが、祭司の王国、聖なる国民として、歩めばこそのものなのです。神様に造られた人と人との関係を取り持ち、神様と人とを繋げる役割、まさに、祭司としての役割を私たち一人一人が担うからこそ、私たちが置かれているところに喜びが満ちあふれ、主が共にいます幸いにすべての人々が包まれることになるのです。しかし、御言葉がそう語りつつも、現実は、私たちの心と顔を曇らせることばかりが満ちあふれています。それゆえ、安易な気休めを口にすることは慎まなければなりません。現実を見ない安易な気休めや慰めは、返って、人と人とを、神と人とに距離を置かせることになるからです。ただ、そのようなとき、私たちは、何もできない自分自身を責めたり、何もしようとしない人を責め立ててしまう者なのかもしれません。そして、それが、いけないことだと分かっていながらも、そうしてしまうことがある。特に、距離のとりにくい関係性、切っても切れない関係性、親子であり、夫婦であり、兄弟であり、それだけに、関係していることに時に嫌悪感すら覚えてしまうところで、互いに傷つけ傷つけ合うということが起こりやすいのだと思います。親子であることは辞めることはできませんし、兄弟、夫婦も同じです。いつでも解消できる関係でないだけに、自分で解決をつけようとして、返って、その傷口を広げてしまう、私にもそういう経験が何度となくありましたし、恐らく、これからもなくなることはないのでしょう。それが私だからです。

 けれども、その私が、私たちがイエス・キリストに繋がって生きることが許されているのです。悲しむとき、苦しんでいるとき、怒りしか覚えない時、人のことなど何一つ考えることができず、自分だけの思いで一杯になってしまっている時、そんな情けなくも悲しい、愚かで醜い姿を神様の前に晒すしかないそんな私、私たちと、イエス様は繋がって、神様の示された道を終わりの時まで一緒に歩み続けてくださっているのです。そして、この関わりは、何があっても失われることはありません。私たちの努力がこの関係性を支えるのではなく、家族とされた以上、この絆が断ち切られることがない、このことを身をもって私たちに示してくださったのがイエス様であり、しかも、このイエス様と共にある私たちの物語がまだ終わったわけではありません。

 幹より天に向かって大きくその枝を張るのが、木というものなのかもしれませんが、ぶどうの木が枝を張り、実をつけるためには、人の手を必要としています。イエス様は、その幹がご自身であり、そのぶどうの木の手入れをしてくださるのが神様だと仰るのです。ただ、伸びたい放題、やりたい放題を望む者にとっては、神様の御手の働きも、イエス様という幹に繋がっていることも、ただ煩わしく、八方ふさがりの状況を作り出す、その原因のように感じてもしまうのでしょう。あるいはまた、それを無理無理よしとしなければならないと思い込む人々にとっては、イエス様という幹との繋がりは、ちゃんと枝を伸ばさないといつ切り落とされるかも分からない、不安の原因ともなるのでしょう。けれども、それではそこに喜びはありません。幹に繋がっていることが不自由であり、不自然であると思うところでは、顔は引きつり、身はこわばり、自らを見失うことになるからです。けれども、まただからこそ、私に繋がっていなさいと言うイエス様のこの言葉が、私たちにとって大きな意味を持つことになるのです。

 私に繋がっていなさいということは、神様がイスラエルを宝、祭司の王国、聖なる国民と呼んだように、すでにイエス様に繋がって生きているのが私たちであり、繋がっているがゆえにまた、私たちは、自ずとその枝を大きく広げていくことになるのです。そして、実を結ぶために、その木全体をご覧になってふさわしく整えてくださるのが神様でもありますが、それゆえ、木の形、様子は、変わっていくとことにもなるのです。教会の姿形が時代時代によって変わるのは、それゆえのことでもありますが、ただ、そこで、幹に繋がっていることに不自由を覚え、神様の手の入れようを不自然だと感じる枝は、気持ちの悪さを感じもするのでしょう。変えられることに、時に痛みを覚えるのは、そのためでもあるのでしょう。けれども、長いその歴史の中で、私たちが現してきたことは、形が変えられたとしても変わることない幹と枝と農夫の関わりであり、つまり、枝は幹に繋がっているということ、木は農夫がふさわしく手入れをなさり、大きな実を結ぶと言うことです。だから、枝は安心して枝を伸ばすことができるし、木も安心して根を深く張っていくことができるのです。繋がっているという安心が私たちに自由を与え、また、私たちが私たちであるというその姿が、自然な私たちの姿でもあるから、あくせくせずに大らかに笑顔をもって、繋がっていることの喜びを、これからも、私たちは、こうして枝を張り、根を張って、この地に立ち続ける中で現すことになるのです。祈りましょう。

祈り
 




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