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復活節第6主日礼拝
    説教 「今の満足ではなく、将来の喜びのために」

日本基督教団藤沢教会 2018年5月6日

【旧約聖書】創世記       18章23~33節
【新約聖書】ヨハネによる福音書 16章12~24節

「今の満足ではなく、将来の喜びのために」
 礼拝から礼拝へと導かれ、その一生を過ごす私たちに向かって、主イエスは、この日、こう仰います。「はっきり言っておく。あなた方が私の名によって何かを願うならば、父はお与えになる。今までは、あなた方は私の名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなた方は喜びに満たされる。」と。それゆえ、礼拝から礼拝へと導かれ、イエス様と出会う私たちは、神様の祝福ゆえに、喜びに満たされた一生を過ごすことになるのです。しかし、私たちの多くは、イエス様のこの言葉に強く引きつけられながらも、一方では、それを真実のこととして受け止めることができずにいることはないでしょうか。そして、そこで、牧師が、目をつり上げて、主の名によって何でも願わないからだと言おうものなら、皆さんは、どう思うのでしょうか。しかし、ここでのことは、主イエス・キリストが仰っていることでもあります。常に、絶えず、ここでこう言われている喜びに満たされるのが私たちであり、それが、主イエスのそのままの願いであり、望みでもあるのです。だから、イエス様も、「その喜びをあなた方から奪い去る者はいない」と仰るのです。ところが、その私たちが、喜ぶことができないことがあるのはどうしてなのでしょうか。

 そこで、それができない理由を、私たちは、自らの罪、不信仰に求めることもできるのでしょう。けれども。罪とは、一言で言えば、イエス様を拒むことでもあります。イエス様の仰っていること、イエス様のなさったことを受け入れずに拒む、聖書は、それを罪と言っているわけですから、私たちがいくら自分自身について、罪というレッテルを貼って、不信仰という表札を掲げたところで、それで、私たちが喜びに満たされ、笑顔に変えられることはありません。また、だからこそ、主の名によって願うということが大切になってくるのですが、ただ、イエス様のことを拒否することはなくても、どうせ、と、斜に構えて、イエス様のことを見つめている人は、少なくないのではないでしょうか。それは、これまで繰り返し繰り返し何度も、主の名によって願ってきたからです。つまり、何度も何度も繰り返し繰り返し、イエス様に裏切られ続けてきた、この実体験が、私たちから素直さを奪うということです。

 ですから、一昨日に届いた「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の正式決定は、裏切られたとの思いを強く持つ者にとっては、朗報ではなく、逆の意味を持つことにもなるのでしょう。なぜなら、逆境の中で信仰を守り抜いたのが、潜伏キリシタンと言われる人々であり、それゆえ、その人たちと自分自身とを重ね合わせることのできない者にとっては、どこか後ろめたい気持ちにもさせられるのでしょう。ただ、このように申し上げますと、喜ぶことができない者だけが悪いように聞こえてしまうのかも知れませんが、どこか後ろ暗い気持ちになり、喜ぶことのできない私たちをあげつらうことが、イエス様の願いであり、望みであるわけではありません。私たちには、喜びたくとも喜べないことがあるからです。

 村岡花子訳の少女パレアナという小説をご存じの方もおられることと思いますが、母を早くに亡くし、牧師である父に育てられたパレアナは、良かった探しの名人でもありました。けれども、パレアナが五歳の時、一人娘を残し、その父が亡くなった葬儀の場面で、パレアナがなんと言ったのか。何もいいことを見つけられない、つまり、良かった探しの名人でも、良かったことを探すことができない、そういうことがあるのです。そして、それは、物語の中のことではなく、私たち自身のことでもあります。愛する者との別れを経験したばかりの者に、喜べ、喜びなさいと、人がそう言ったからといって、そこで、すぐに笑顔を浮かべられる者はおりません。むしろ、そうした無理強いは、逆効果でしょうから、そんな愚かな真似をする者は、私たちの中には一人もおりません。喜びなさい、喜ばなければなりません、とお尻を叩くことよりも、共にある人の悲しみを自分自身の悲しみとすることことの方が、よほど大事なことでもあるからです。そして、イエス様もそのことはよくご存じでもありました。産みの苦しみがやがて喜びへと変えられ、その時、苦しんだことはやがて忘れることになると、そう仰るように、苦しみや悲しみにのみ込まれることを、イエス様は否定しているわけではないからです。従って、悲しむこと、苦しむこと自体がいけないわけではありません。そのままでいいし、悲しみ苦しむ人々のそのままを見つめ、共にいてくださっているのがイエス様だからです。それは、その人たちのことを誰よりもよくご存じであるからです。だから、イエス様も、「あなた方は悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」と断言されるのです。けれども、だから、また、私たちは分からなくなるのです。

 16節で、イエス様は、「しばらくすると、あなた方はもう私を見なくなるが、またしばらくすると、私を見るようになる」と、こう仰るのですが、16節から18節の中で繰り返されている、この「しばらくすると」という言葉が、イエス様の言葉が分からなくなる原因でもありました。では、弟子たちは何が分からなかったのか。見ているのか、見ていないのか、いったいどっちなんだということでしょうし、何よりも、弟子たちは、この時、今、イエス様をその目で見ているわけです。ですから、仮の話をいくらされたところで、分かるはずもありません。それゆえ、この時の弟子たちの願いは、イエス様が仰っているその言葉の意味が分かることでしたが、ところが、そこで、イエス様は、彼らの願いに応えようともしないのです。はぐらかし、ますますその悩みを大きくさせて言っているとしか思えないことを仰るのです。

 弟子たちの願いに対し、イエス様がなさったことは、自らの願いと望みを語るものでした。しかも、分からないのは、そこで語られている願いや望みを、今すぐに、実現してくれるならまだしも、「しばらくすると、しばらくすると」と、そう繰り返すだけなのです。しかも、もっと分からないことは、この「しばらくすると」ということが、そう遠くない将来を指し、イエス様の復活の出来事を意味しているのなら、どうして、私たちは常に絶えず笑顔でいることができないのでしょうか。また、もし、まだその時が訪れていないというのなら、「しばらくすると」と語られてから、一体どれくらいの時間が過ぎたのでしょうか。けれども、だからこそまた、私たちは、イエス様が仰るように、必ず変えられると信じさえすればいいのかもしれませんが、ただ、このことは、イエス様が、このままでいいし、このままではいけないと、そう言っているということでもあるのでしょう。しかし、パレアナのような良かった探しの名人でさえ、できないわけですから、どうして私たちができるというのでしょうか。そのため、この「しばらくすると」という言葉ゆえにまた、ここに記されていることが、イエス様の言い訳や言い逃れとして聞こえてもしまうのですが、けれども、もちろん、そうではありません。

 イエス様が伝えようとされていることは、言い逃れや言い訳ではありません。伝えるべきことをここではっきりと伝えてくださっているのがイエス様であり、ですから、問題は、イエス様の側にあるのではなく、私たちの側にあるのは間違いありません。ただ、そこで、罪とか、不信仰とか、そういうことをいくら持ち出したところで、それで、私たちが、イエス様の仰ることが分かることはありません。そして、それについては、イエス様もよく分かっておりました。だから、弟子たちのその問いに対して答えを与えるのではなく、自らの願いと望みを語っているのです。そして、そこに現されていたことは、イエス様の気持ちでもありますが、けれども、それは、私たちが、問題を誤魔化す手段としてよく用いる、「なっ、分かるだろう」ということではありません。イエス様が伝えようとしていることは、ただ単に気持ちの上でのことではなく、真実であり、弟子たちが置かれている現実そのものでもあるからです。

 ところで、皆さんは、最近始まったNHKの「チコちゃん」という番組をご存じでしょうか。このチコちゃんは、五歳の女の子という設定なのですが、このチコちゃんが、毎回出演者に、私たちが普段余り気にせずすませていることや、当たり前のように考え、深くは考えようとしていないこと、あるいは、ある意味で無関心であったり、予定調和に甘んじているだけだったり、そういう私たちの意識の外にあるようなところから様々な問いを発し、そこで、回答者が応えることができないと、チコちゃんは、その人に向かって、こう言うのです。「ボーッと生きてんじゃねえよ」と、五歳の女の子とは思えない毒を吐くのですが、そこで、このチコちゃんを思い出し、今、ふと思ったわけです。チコちゃんだったら、分からないと思う人たちに何と問いかけるのだろうかと。そして、問われた私たちは、そこで、何と答えるのだろうかと、合わせてそんなことも考えたのです。

 答えが間違っていたとき、チコちゃんは、「ぼーっと生きてんじゃねえよ」と毒を吐き、また、答えが正しいときには、「つまんねー奴だな」と悪態をつき、さらに、ほぼほぼ正解に近いときには「やりにくいなー」とぼやくのです。けれども、もちろん、イエス様が、私たちに毒を吐き、悪態をつき、ぼやくことはありません。ただ、分からない私たちのことを「困ったな」とは思っているようにも思うのです。頭の上にいくつもクェッションマークをつけている弟子たちに向かって、答えでなく、ご自身の願いと望みを口にし、その気持ちを外に出したということは、つまりはそういうことでもあるからです。それは、私たちに、「ぼーっと生きて欲しくはない」し、また、「つまんねー奴だな」と、世間からそんな風に見られて欲しくはなかったからです。そして、イエス様が弟子たちの求めをはぐらかすように答えを与えなかったのは、弟子たちに自主的に、主体的に、自分らしく、私たちが私たちである、そのままを生きて欲しかったからです。それは、イエス様がここで仰っておられる喜びは、私たちが分かっても分からなくても、イエス様が共におられることが胸に納まってさえいれば、常に絶えず自ずと湧き起こってくるものだからです。そして、この自ずとわき上がる喜びこそが、私たちが私たちであるということの何よりの証しであり、だから、そのままでいいし、また、だから、そのままではいけないわけです。

 イエス様は、このような、相反するような物言いを、また別のところでこう仰っておられます。「自分の命を得ようとする者は、それを失い、私のために命を失う者は、返ってそれを得るのである」という言葉を、皆さんはご存じのことと思いますが、このような逆説的な言い回しは、他のところでも様々見ることができます。その代表が、山上の説教でもありますが、このような逆説的な言葉が繰り返されるのは、「どうして」と言われると自信を失い、また、「そのうちね」と言われると不安に駆られてしまう、イエス様は、そんな私たちのことをよくご存じであるからです。そして、この不安と恐れでありますが、それは、問題集の正解を見るように、正しいことを正しいといくら言われたところで、それで解消されることはありません。だから、私たちは、行ったり来たりしてしまうわけですし、その中で、矛盾することを言ったりしてしまったりするわけです。従って、イエス様の逆説的な発言は、私たちをはぐらかすためではなく、私たちのことを誰よりもよくご存じであるからであり、そして、そのイエス様を私たちの許にお遣わしになったのが、私たちの神様でもありました。それは、収まりのつけられない私たちに一つの収まりを与えるためであり、そこに収まっているとき、私たちは喜ぶことができるし、悲しみを抱えたまま、私たちは、必ず喜びへと変えられることになるのです。それがイエス様が共にあるということであり、つまり、それが、イエス様と共にある私たちであるということです。ですから、私たちは、このままでいさえすればいいのであり、この「このまま」を約束し、お許しくださっているのが神様の御心でもあるのです。

 教会は、そうした神様の御心を摂理などと呼んだりもするのですが、アブラハムのここでの物語もこのことと関係しています。そこに記されていることは、神様の摂理の下に生きる私たち信仰者の真実な姿です。つまり、私たち信仰者は、神様に対してもきちんともの申すことができるから、人のことも考えることができるということです。ただし、自主的に、主体的に神様にもの申すことができたとしても、私たちは、神様ではありません。アブラハムの申し出に、分かった分かったと,そう神様が仰りながらも、ソドムの滅びが結局は避けられなかったように、神様を私たちの土俵に乗せて、好き勝手にすることはできないのです。そして、摂理というものはそういうものであり、つまり、弟子たちが、イエス様の言葉が分からなかったのは、神様を自分たちの土俵に乗せようとしているからです。けれども、その弟子たちを神様の御心という、この土俵へと招き、喜びを存分に味あわせようとされているのがイエス様であり、それがイエス様の願いであり、望みであるということです。

 ですから、私たちがこのままでいいのは、私たちがイエス様という神様の土俵の中に置かれているからで、だから、そのままでいいし、そのままじゃいけないわけです。アブラハムと自分とを比べると、私自身、自分がなんとみみっちいのかと思わされますが、このみみっちさをよくご存じであるのが、私たちの神様でもあるわけです。そして、かつて、自分の保身のために自分の妻をファラオに差し出したアブラハムが、みみっちいがゆえに、こうして神様に自発的にもの申すまでに立派に成長することになったのは、アブラハムが、神様の御心のままに生きたからであり、つまり、それが、神様がアブラハムに与えた祝福であったということです。そして、この祝福に私たちも与っているし、その祝福の中に置かれている人々のところに、だから、神様は、イエス様をお遣わしくださったのです。従って、このことからもう一度、ソドムの物語を見つめ直すなら、滅びは滅びではなく、死もまた死ではありません。ソドムがアブラハムの執り成しの祈りの中に置かれている以上、イエス様が「私の名によって何でも願いなさい」と言われているように、 アブラハムゆえの正しさを信じて召された者は、アブラハムの祈りゆえに、摂理という神様の土俵の外に放り出されることはないのです。イエス様の「あなたがたは喜びに満たされる」というこのお言葉は、そのことを私たちに伝えてくれているように思いますし、また、その私たちが、このイエス様の御心の中に置かれ、御心という「このまま」を生きるからこそ、私たちと共にある人々は、私たちの祈りゆえに、神様とイエス様の御心の中に置かれることにもなるのです。だから、私たちはこのままでいいのです。そして、この「このまま」を、私たちがこうして生きているからこそ、「そのままで」いることが許され、また、「そのままではいけない」のです。イエス様の願いと望みは、この点への気づきを与えるものであり、また、そこに私たちが気づき、神様とイエス様が与える「このまま」に生きるなら、私たちは、必ず喜ぶものへと変えられることになるのです。ですから、このことをしっかりと受け止め、新たな一週間を過ごして参りたいと思います。

祈り
 




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