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復活節第7主日礼拝 説教 「魅力ある神様」

日本基督教団藤沢教会 2018年5月13日

【旧約聖書】イザヤ書      45章1~  7節
【新約聖書】ヨハネによる福音書 17章1~13節

「魅力ある神様」
 今、ご一緒に讃美歌一編510番を歌ったように、日本基督教団の行事暦では、今日は、母の日ということであります。ただ、母の日の由来については、多くの方が、すでにご存じのことと思いますので、その説明は、他に譲ることとし、今日は、早速、御言葉に聞いて参りたいと思います。

 さて、今日のそれぞれの御言葉が私たちに伝えてくれていることは、十字架に向かう直前でのこのイエス様の祈りが示すように、主の御前にこうして置かれている私たちは、神様の御心とイエス様の祈りの内に置かれているということです。それゆえ、私たちの信仰の豊かさとその深まりとは、ここから始まってゆくことになるのですが、従って、「永遠の命とは、唯一まことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」と、イエス様が仰っておられるように、すべからく、私たちに求められていることは、神様とイエス様との関わりの中に置かれている自らを見出すことです。そして、そこで私たちに現されることは、神様とイエス様の正直で素直な気持ちです。それゆえ、イエス様のこの率直なお気持ちがこうして伝えられているところに、聖書の味わいがあり、それがまた、信仰の豊かさ、聖書の味わい深さを引き出すことにもなるのです。そして、この味わい深さでありますが、材料が並んでさえいれば、それで、誰もができるわけではありません。なぜなら、聖書の味わい深さとは、互いにコミュニケーションを図ればこそのものであり、私たちがお母さんから受けたものと、ある意味で同じことだからです。つまり、教え込むものでもなければ、教え込まれるものでもない、一緒にいれば、自ずと伝えられるもの、それが、聖書の味わい深さであるということです。

 ということですので、その味わい深さを知るためには、それをきちんと伝える存在が必要なのですが、それが、イエス様であり、イエス様よりその味わい深さを知らされている、こうしてこの場にいる私たちであるということです。従って、聖書のテイストが本当に味わい深いかどうかについては、そういう意味では、私たち次第ということにもなるのです。それゆえ、この味わい深さこそが、私たちが、主イエスの出来事を人に勧める上での最大の理由ともなるのですが、ただ、私たちが、神様の魅力が余すところなくこの世へと伝えられるのは、神様の魅力のそのまま伝えるイエス様がいてくださるからで、そのイエス様の祈りの内に、私たちが置かれ、そこで、それこそ口移しで、イエス様がその魅力、味わい深さを私たちに伝えてくださっているからです。それゆえ、それは、一方的なものとなることはありません。互いに、共に、一緒に、というところがあってこそのものであり、ですから、私たちが、何かにつけ、私たち、我々と口にするのは、この、共にということの中に、イエス様を見出す者でもあるからです。従って、イエス様が一緒、ということを分かち合い、伝えることが、伝道、宣教ということにもなるのでしょう。

 では、どうすれば、この味わい深さを人に知ってもらえるのか、私たちにとって、それが、大きな課題だとも言えるのですが、課題というと何やらいかめしくも感じますが、イエス様と一緒、と言うところから考えるなら、まだ味わったことのない人たちにも、それは、それほど難しいことではないのでしょう。なぜなら、そこで求められていることは、ソムリエのような研ぎ澄まされた味覚、感覚ではないからです。こうして礼拝に集められ、主の御前において、御言葉に聞き続けてさえいれば、イエス様は、率直にそのお気持ちを明かしてくださるわけですから、誰もが分かることなのです。そして、今日は母の日と言うことでもありますが、それは、皆さんがご両親から受けたことを思い出せば、もっと分かりやすいのではないでしょうか。親から受けた有り難みと同じで、それは、知識や技術の習得とは別ものです。むしろ、掴み取ろう、与えてやろうというところは、返って邪魔でしかないのかもしれません。今日のイザヤ書の最後で、神様がご自身について「光を造り、闇を創造し、平和をもたらし、災いを創造する者」と仰ることを、知識や個人的な体験の数の多さ、その質の高さを誇るところから見て行くなら、結局は、それが邪魔をして、神様とイエス様をも、その狭い心ゆえに、自らの心の中から閉め出すことにもなるからです。

 ところで、私たち大人が、大人の真似をする子どもの姿をとてもかわいらしく思うのは、どうしてなのでしょうか。その子が立派であったり、身綺麗であったりするからではありません。そのぎこちなさであったり、たどたどしさであったり、何かを知っているか知っていないか、どれほどすばらしい物をもっているかもっていないか、そうしたものが、かわいらしいと思う条件とはなりません。それは、二の次、三の次のことであり、その子がどのような境遇、どのような状態に置かれようとも、共にある私たちとの関係性を喜びをもって受け入れているから、だからこそ、その姿を、私たちは、子供らしい、とそう呼んで、かわいらしいと、感じ取ることになるのです。そして、それは、聖書の御言葉の味わい深さも同じです。教え込んで、うまいうまいと、そう言わせることでないのは、私たち自身がよく知っていることです。ですから、先ほど、私たち次第だと申し上げたように、味わう人たちのそばに味わい深さを知っている私たちがいて、かわいいね、とそう言ってもらえる環境に置かれていることが、その人にとって、聖書の味わい深さを知る上で、とても重要なことなのです。

 そして、子供が私たち大人の「可愛いね」と口にする、そうした思いを素直に受け取ることができるのは、そもそも、初めからその用意ができているからです。ですから、物の本にも、子どもというものは、元来、宗教的なものに向かう心が備わってるとありました。それゆえ、慈しみをもって、自分を守ってくれる誰かが直ぐ側にいて、その愛の内に安んじていられるということを、心と体のすべてを通して子供たちが知ることは、子供たちにとっては、命に関わるほどに重要なことなのです。従って、子供たちのそうした要求に応えていくことは、心の問題というよりもむしろ、その子の人生がより豊かなものとされるための、もっと深い根源的なものであり、つまり、そういう子どもの生命的、宗教的求めに、深い尊敬と誠実さ、謙遜の思いをもって応えることが、私たち大人の役割でもあるということです。そして、このことはまた、ここでイエス様が「永遠の命とは、唯一まことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」と仰っていることからも分かります。「永遠の命」という、この信仰における重要な事柄を神様とご自分とを知るということで言い表しているからです。

 そして、このことは、子供に対しても、他者に対しても、同じことが言えると思います。そこで、私たちがいの一番にしなければならないことは、母の日の由来を語ることでもなく、また、昔キュロスというペルシャの王様がいて、この人はこれこれこういう人でしたといった、そんな通り一遍のことを伝えることではないからです。イエス様を通して現された神様のお気持ち、それを伝えんとするイエス様のお気持ち、そして、そのお気持ちを知っている私たちの気持ち、その素直な気持ちのそのままを人と分かち合うことが、いつの時代においても、私たちに求められていることなのです。従って、それは、これは味わい深いんだから、と、無理矢理それを人の口に放り込むことでもなく、口にするまで追いかけ回わすことでもありません。そんなことでは、その味わい深さど、人に分かろうはずもないからです。

 ですから、自然に手にとって、食べてみようか、食べてみたいなと、人をしてそう思わせるためには、私たちがその味わい深さを、心の問題といった曖昧なものとするのではなく、体で分かっている必要があります。そして、それには、子供たちに、あーんと、声を出して、食べ物をその口に運んで上げる、あーんというこの呼びかけに現される、自ずと口を開けたくなるような、そうした関係性が保たれていること、そういう環境がきちんと整えられていることが、だから大事なのです。それゆえ、お仕着せがましいものであっていいはずはありません。親が子供のために何かをするのが、親の面子や体裁を保つためではないように、面子や体裁が傷つくのを恐れるだけでは、子供は絶対に口を開けてはくれないからです。

 美味しいね、と言って、美味しいねと応えてくれる関係性、聖書の味わい深さを伝えることを、先ほど宗教教育などと大袈裟なことを申し上げましたが、もちろん、そこで分かち合われるものの味が、いいに越したことはありません。自分が美味しいと感じることがなければ、そのおいしさが人に伝わることはないからです。ただ、問題は、自分が美味しければ、人も美味しいかというと、必ずしもそうではないということです。そして、宗教、信仰の持っている味わい深さを、人が嫌だな、と思うことがあるのは、押しつけがましく、自分が美味しいということを言いすぎるからなのではないでしょうか。美味しいか美味しくないかを決めるのは、相手ではなく、その人自身であり、そして、それは、私たちにも言えることです。しかも、私たちの信仰の味わい深さは、普通の人が好むものばかりではありません。イスラエルにとってのバビロン捕囚、弟子たちにとってのイエス・キリストの十字架、それを味わい深いからと、言葉の上だけで伝えられ、無理矢理口に放り込まれたとしたら、イスラエルの人々、弟子たちがそうであったように、他の見栄えのいいものに飛びつくか、あるいは、そこから逃げ出すか、結果は火を見るよりも明らかなんだと思います。

 ただ、まただからこそ、そこで味わってもらわなければ、何も始まることはないのですが、じゃあ、私たちがしゃかりきになれば、それで、口を開いてもらえるかと言うと、そうではありません。ですから、そんなとき、口にどう運べばいいのか、どうすれば口を開けてもらえるのか、確かに、その方法論として、様々な知識を持つことは、何かの足しにはなるのは間違いありませんが、けれども、それはそれだけのことです。口にしてもらい、甘いね、と言われ、甘いということだけが分かったとしても、それが、知識、情報として伝えられるだけでは、甘いか苦いか、酸っぱいか、それだけが伝わるだけで、その味わい深さまでが伝えられることはないからです。ですから、先ほど、知識が時に邪魔になる場合があると申し上げたのは、甘くてもしょっぱくても、どちらでもいいのですが、それが伝わるだけでは、甘いことへの拘り、しょっぱいものへの執着だけがその人の気持ちの中に、大きな位置を占めるだけだからで

 宗教教育の豊かさは、知識の量、特異な体験の豊富さによって、左右されることではありません。イエス様が「世のためではなく、私に与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです」と仰るように、この豊かさは、究極的には、人間の理屈を越えたところにあり、ある意味で、神様の身贔屓ゆえのものでもあるからです。また、そうであるからこそ、神様は、イエス様と共にある私たち、一緒にいて、互いにその豊かさ、味わい深さを分かち合う私たちのことを、それゆえに、心に留めてくださるのです。

 ところが、さきほど、一緒に、共に、互いに、というところから、私たちが、私たち、我々と称することの中にはイエス様も含まれていると申し上げましたが、ここで、イエス様は、「私はもはや世にいません。彼らは世に残りますが、私は御許に参ります」と仰るのです。また、だから、イエス様も「私に与えてくださった御名によって、彼らを守ってください」と神様に願い、そして、イエス様がそう強く神様にお願いするのは、「わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守った」という、その経験とその思いがあったからです。しかし、そのイエス様が弟子たち、私たちを残して神様の御許へと向かおうとされているのです。そして、今、そのイエス様は、天において、神様の右に坐しておられるのです。教会暦に従えば、今年は、イエス様の昇天日は、10日です。ですから、そのことを思えば、一緒に、共に、互いに、ということは、人間の理屈からすれば、何かを曲げなければ、言えることではありません。けれども、私たちの置かれているこの状態を指して、イエス様は、ここで「私たちのように、彼らも一つになるためです」と仰るのですが、一緒に、共に、互いに、ということは、では、どういうことなのでしょうか。

 そこで、信仰の知識豊富な方は、直ぐに聖霊の働きを思い出されることでしょう。それが、神様、イエス様と私たちとが、一つであると、そう説明できる理由にもなるからです。しかし、私たちがキリスト教を知る遙か以前において、室町時代も、鎌倉時代も、平安時代も、神様の御心のままに吹いていたのが、聖霊であり、ただ、そのことに私たちが気がついてはいませんでした。では、一つであるということは、私たちが気がつく気がつかないという問題なのでしょうか。一つとなるために多くを手にしなければならないのが私たちなのでしょうか。けれども、まだ何も知らずにいた私たちが、イエス様と共に、一緒に、互いにと、気づかないその時にも同じように変わらずに、そう口にすることができるのが私たちでもあるのです。そして、聖書の味わい深さ、信仰の豊かさとは、その私たちが口にするものであり、つまり、この私たち人間の理屈に合わないところに立って、初めて言えるものだということです。だから、一つであることが、ありがたいし、嬉しいのです。

 さて、これまで私がお伝えしてきたことを、皆さん、お分かり頂けましたでしょうか。理屈にならないことをくどくど申し上げてきたため、なんだこいつと思われた方もいることでしょう。それゆえ、ただ私の拘り、気持ちをつらつらと述べているだけだと思われた方もいることでしょう。そして、それは、もしかしたら、その通りなのかも知れません。けれども、皆さんが、私と同じではなくとも、私たちは、こうして生きているのであり、生かされているのです。そして、それはどこか、ということです。それは、神様の御心の内であり、イエス様の祈りの内で、その名を呼んでいただいているのが、私たち一人ひとりであるということです。そして、それは、昔も今もこれからも変わることのないものです。けれども、だから、昔のまま同じように変わらずに同じことをやり続けてさえいれば、それで、このお方と一緒に、共に、互いに、ということが、だから、分かるということでもありません。いつの時代も、どんなところでも、神様とイエス様の私たちに向けられた愛ゆえに、神様とイエス様とが、私たちのことを可愛いね、いい子だね、そう言ってくださっているのが分かるのは、時代は変わり、状況も変わるからです。そして、そこで、私たちが、昔の人々、将来の人々と同じように一緒に聖書の味わい深さと信仰の豊かさを分かち合えるのは、イエス様と神様のお気持ちが、変わることがないからです。一つということは、つまりは、そういうことであり、聖書の味わい深さ、信仰の豊かさとは、神様の御手の中で、光の中にあっても、闇の中にあっても、私たちが、そういうイエス様のお膝の上に生かされている私たち自身であることを知って、そこで、知らされることなのです。

 ですから、そういう意味で、私たちは、もっともっと自分自身に自信をもっていいのだと思います。聖書の味わい深さ、信仰の豊かさ、神様とイエス様の魅力を伝えることにどこか自信を持ちにくいこういう時代であるからこそ、変わらずに自分たちがこうして生かされている場所、置かれているところに心を留め、その私たちがどこに導かれているかを思い起こしたいと思うのです。なぜなら、私たちは、神様とイエス様から離れたわけでもなく、また、隠れたわけでもないからです。主イエスと共に神様の御心の内に置かれ、身も心も一つとされているのが私たちであり、それは、三つの時も、二十歳の時も、還暦を迎えたときも、米寿を迎えたときも、こうして神様とイエス様と一つとされている私たちであることに変わりはないからです。そして、そこで知らされることが、信仰の豊かさであり、聖書の味わい深さであり、神様の魅力でもあるのです。祈りましょう。

祈り
 




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