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ペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝 説教 「神様の優しさ」

日本基督教団藤沢教会 2018年5月20日

【旧約聖書】ヨシュア記  1章1~  9節
【新約聖書】使徒言行録  2章1~11節

「神様の優しさ」
 復活の主と共に四十日間を過ごした弟子たちが、主が天へと上げられるその時に尋ねたことは、「主よ、イスラエルのために国を立て直してくださるのは、この時ですか」ということでありました。そして、その弟子たちに向かい、主イエスが仰ったことは、「父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなた方の知るところではない。あなた方の上に聖霊が下ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリア全土で、また、地の果てに至るまで私の証人となる」ということでした。そして、こう語るやいなや、主イエスは、弟子たちの目の前で天へとあげられ、その十日後、その約束通り、地にある弟子たちの上に臨んだことが、この聖霊降臨の出来事でありました。

 御言葉は、その時の様子をこう語ります。突然激しい風が吹くかのように轟音が天から鳴り響き、炎のような舌が別れ別れになって弟子たち一人ひとりの上に臨み、すると、そこで、何が起こったのか。時はちょうど、ユダヤの祝祭日である五旬祭でした。 ユダヤの民としてのその定めに従い、あらゆる国々に散らされていた大勢の人々が、エルサレムへと集まり、そこで、このただならぬ物音に気づいた人々が、弟子たちの元に集まることとなりました。そこで、彼らが見たことが、聖霊降臨の出来事でありましたが、それについて御言葉はこう述べています。「一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話し出した」と。つまり、あらゆる国々の出身者すべてに分かる言葉で、弟子たちが、神の偉大な御業を語っていたというのです。それゆえ、それを目撃した人々もまた、驚きを隠すことができず、ある者は、驚き怪しみ、ある者は、驚き戸惑い、また、ある者は、酔っ払いの戯言だと、蔑むように、この弟子たちの姿を見つめることになったのです。このように、弟子たち以外の大半の人々が、この聖霊降臨の出来事を喜ぶどころか、それとはまったく正反対の印象をもって、その時の光景を眺めていたのが、ペンテコステに起こった出来事でもあったのです。また、だからこそ、その時の出来事だけを語る聖書の証言にこうして聞き、思うのです。

 私たちが今聞いていることの中には、この出来事に対するその評価や説明は記されてはおりません。ペンテコステの出来事の様子だけを伝えるだけで、それをどう理解し、どう解釈すべきかは、まったく記されてはいないのです。ですから、もし、私たちここから何かを聞くことができるとすれば、聖霊体験をした弟子たちのその姿とこの光景の中からということにもなるのでしょうが、しかし、そうであるからこそ思うのです。では、どれだけの人々が、ここでの出来事を共感をもって自らのこととして受けいれることができるのだろうかと、そう思ってしまうのですが、皆さんはいかがでしょうか。

 そこで、ある種の生真面目さをもって、この出来事に聞こうとする人たちは、こう思うに違いありません。ペンテコステを祝うということはつまり、ここでの弟子たちと同じでなければならない。同じ姿をもってペンテコステを祝うことがなければ、祝ったということにもならない。そして、そこにまた、ペンテコステの出来事を経験した弟子たちの、主イエスの弟子としてのその雛形を見ることができる以上、そう考える人がいたとしても不思議ではありません。それゆえにまた、御言葉にそう記されている以上、そう本気で思っている人々のことをもの笑いの種にすることは許されません。けれども、物笑いの種にすることはせずとも、ここでの弟子たちと同じことを同じようにすることが、それが、ここで私たちに求められていることだとしたら、いかがでしょうか。正直、ご遠慮申し上げたいと、多くの人はそう思うに違いありません。つまり、クリスマス、イースターは、OK、でも、ここで、同じことを焼き直すように同じようにしろと言われることは、ご勘弁願いたい、そういうことです。けれども、それゆえにまた、そこで、こうも思うのです。共感できないなどと、そんな風に思ってしまっていいのだろうか。それは、ここでのことを否定することにはならないだろうか。だから、本当の気持ちについては、口をつぐむしかない、そう思うことにもなるのでしょう。そして、このことは、私自身、あるとき、ある方から実際に言われたことです。ですから、クリスマス、イースターと比べ、ペンテコステが今ひとつ盛り上がりに欠けるのは、そういう理由もあるのかもしれません。

 しかし、先ほど、私が申し上げたことをもう一度思い起こしていただきたいのですが、ここでは、いかなる評価も、いかなる説明も、何一つなされてはいないのです。ここに現されているのは、ただその出来事、その時の光景だけであって、それ以上でもなく、それ以下でもありません。ですから、この出来事をどのように評価するかは、ある意味で、私たちに任されていることでもあるのでしょう。従って、私たちが、そこでどのような印象をもったとしても、そのことに、後ろ暗い気持ちを持つ必要はありません。共感を強要されることに共感できないという思いを抱いたとしても、明確に線が引かれていない以上、誰からも不信仰と言われる筋合いはないからです。むしろ、共感できないと、率直にそう感じることも、聖霊降臨の出来事を理解する上での大切な一つである。明確に線が引かれていないのは、そういうことでもあるのでしょう。

 聖書の御言葉をいかに理解するかは、決してなおざりにすることのできない大切なことです。しかし、論語読みの論語知らずと、世間でも言われているように、正しい理解、正しい行動を巡って言い争うことが、こうして御言葉が何かを語る目的ではないのでしょう。ただし、だから何を言ってもいいということでもありません。神様の言葉が、ある立場にある人々の、その正当性を主張するところの材料、手段であっていいはずはなく、むしろ、そういうところを固く戒めているのが聖書の御言葉でもあるからです。それゆえ、多くの人々の共感を呼ぶであろう、どんなに素晴らしい発言、行動であっても、聖書は、それ自体を正当化することはありません。なぜなら、聖書の主人公、何かを語る場合のその主語は、私たち人間ではなく、イエス・キリストの父なる神様であるからです。そして、それは、こうして御言葉に聞いている私たちのことを、神様が、力尽くで押さえつけ、その言われるがままに言うことを聞かせようとしているからではありません。ましてや、今、どこかの国の大統領がやっているようなことなど言語道断なことです。聖書の御言葉を好き勝手に解釈し、周囲の止めてよという、その制止を振り切って、それこそ、後先考えずに、聖書の御言葉を盾に取って、自分は正しいんだと主張し、そこで、何をやってもいいということを、聖書は絶対に認めることはないからです。そして、それは、今日のそれぞれの御言葉を見ても明らかです。

 神様が、ヨシュアを通し、「強く雄々しくあれ」とイスラエルの人々に語るこの言葉は、強くありたい、雄々しくありたいと願う人々にとっては、自らを鼓舞する上で都合のいい言葉なのかも知れません。けれども、神様がここでこう語るのは、「強く雄々しくある」ことが、何かを手にする上での必要条件だからではありません。むしろ、その言葉から受ける印象とはまったく正反対に、「弱く、みっともない」姿しか示せなかったのがイスラエルであり、けれども、そのイスラエルをそれでも守り支え導かれたのが、他ならぬ主なる神様であったのです。従って、「強く雄々しくあれ」との御言葉を、この歴史的経緯を無視するかのように、自らの主張に合わせ、都合よく理解することは誤りです。そして、それは、聖霊降臨の出来事においても同じです。イスラエル、弟子たちだけが特別なのではなく、彼らが特別な存在として神様に覚えられているのは、彼らが神様の特別な使命に生きる者だからです。また、だからこそ、主イエスの出来事の後、地上に残された弟子たちの上に、聖霊が臨むことにもなったのです。

 そこで、一つ確認しておきたいのですが、この時点において、キリスト教と、ユダヤ教という明確な区別は、まだ確立されてはおりませんでした。それゆえ、弟子たちがとか、それ以外の人々がとか、私たち人間が便宜的に引くその線、隔ての壁などは、この時点では、何一つ出来上がっていたわけではなく、つまり、ここでのことを素直に聞いていくなら、聖霊降臨の出来事を経験したのは、神の足座が置かれているエルサレムに集う、神の民であったということです。けれども、そうであるからこそ、また、その受け止め方、理解を巡っては、様々別れることにもなったのです。そして、聖霊に満たされた弟子たちの姿を、多くの人々がいぶかしく思ったとあるように、神の偉大な業を語り伝えると言うことは、先ずそのような人の評価に曝されるということであり、また、御言葉がそれ自体をいいとも悪いとも語っていないということはつまり、だから、様々別れることが当然だということです。それが、教会の始まりにおける偽ざる姿であり、それゆえ、様々な受け止め方、様々な評価がそこでなされたとしても、それ自体いけないことではありません。あっていいことですし、むしろ、そうあることが自然だということです。

 けれども、だから、教会は、と、私たちが軽々に判断することは、固く戒められなければなりません。イスラエルがそうであるように、常にその内側にいろいろな問題を抱えているのが教会というものだからです。ですから、こうして教会に連なりながら、だから、ねー、と、目を合わせて、その思いが一致できないことの理由を、この始まりの中に見出そうとすることはダメです。聖書が証言するところは、あくまで、神様の偉大な御業であるからです。そして、この偉大な御業とは、アブラハムに与えられた祝福が、その神様の言葉通りに400年後に実現したとヨシュア記が語るように、 私たちの経験や想像を遙かに超える形で、丁寧に、しかも、粘り強く、現されるものであり、それは、神様が、神の民という共同体を形作ろうとされているからです。従って、こうして弟子たちの上に聖霊が臨んだのは、神様が、教会というコミュニティーを形作ることを願ってのことであり、また、だから、弟子たちもまた、「イスラエルのために国を立て直してくださるのは、いつか」と、神の御許へと上げられる直前の主イエスにこう尋ねたのです。

 ですから、弟子たちの上に聖霊が臨んだこの出来事の中に、その周辺に置かれている人々を含め語られていることは、とても大事なことです。なぜなら、周辺にある人々を含め、その祝福へと招かれるのが神様であり、その祝福にふさわしく共同体を形作ろうとされているのが、事をなす上での神様の御心でもあるからです。それゆえ、ペンテコステの出来事は、イスラエルがヨルダン川を渡ったのと同じで、教会という共同体そのものが、初めより神様の御心にその基礎を置いていることを示し、それゆえにまた、このペンテコステの出来事を聖書の歴史と伝統の中で聞いていくなら、それは、想定外の突飛なことではありません。むしろ、祝福に基づく共同体を形作ろうとされている、神様の固い意思の現れでもあるのです。ですから、この点から主イエスの出来事を振り返るならば、そもそも、主イエスの出来事も、個々の人間の個人的な救済を目指してなされたものでないことが分かります。十字架と復活の出来事は、こうして教会が立てられたように、救いに与る共同体を形作ることがその目的であり、そこにあらゆる立場の人々を招くためでもあった。それが、私たちの神様であるということです。

 それゆえ、そこでは、共同体としての一致が求められもするのでしょうが、ただ、この一致については、すべての人々がすでに経験したことでもありました。十字架を前にする人々が、弟子たちも含め、主を裏切ると言うことで一致したように、個々ばらばらに見える人間に一致という契機を与えたのが十字架の出来事でありました。しかし、この場合の一致は、主の共同体を形作るものではなく、その逆に作用するものでもありました。それゆえ、主イエスの復活は、それとは逆の意味での一致の契機ともなったのですが、ところが、その主イエスが、神の元へと上げられ、弟子たちの元を去って行ったわけです。このことはつまり、主にあって一つであるということが風前の灯火となったということです。復活を経験した第1世代は、遅かれ早かれいずれ世を去ることにもなるわけですから、一致の契機でもある復活の証言は、いずれどこかで途絶えることにもなるからです。けれども、そこで、神様がなさったことが、その人々の元へと聖霊を送るということであり、復活を信じる主の共同体の人々と、主にあっては一つであることが変わりなく続いていくことを明らかにされたのです。そして、それは、ごくごく狭い範囲に生きるしかない、聖書を自己を正当化する目的でしか理解できないし、しようとものしない、そういう人々に対し、なされたものではありませんでした。なぜなら、聖霊降臨の出来事を通し、伝えられているこの「一つ」であるということが、分かる人も分からない人も、そのそれぞれを含めたものであったように、すべての人々を主の御心の中へと招くのが、私たちの神様だからです。

 ですから、それが分かれば、敵を愛せと仰るイエス様のこの言葉も、分けの分からない話ではないのでしょう。分かり合える者も分かり合えない者も、主にあっては一つであり、つまりは、主にあっては敵同士などではなく、主に招かれた一人ひとりであるということです。それゆえ、そう語る主の御言葉に立って、世界とそこに生きる人々を見つめるなら、この世に敵などいるわけもありません。従って、主にあってこうして一つとされ、このペンテコステを祝う私たちが、その神様の御心に反し、一つであることを投げ出したり、途中で止めたり、もちろん、ぶつかり合い、互いに傷つけ合ったりと、主の共同体を壊すような振る舞いをなすはずはありません。そもそも、敵などいないわけですから、敵か味方かなどと、そんなことに汲々としないのが、こうしてペンテコステを経験した私たちだということです。けれども、その私たちが、それでも神様が必要としていないことをしてしまう。そのため、神様が求めておられることを手にしたい、掴み取らねばと、それこそ懸命に努力するのが私たちであるようにも思います。そして、神様の偉大なる御業の目的が、神の民という共同体を形作るということを考えると、結果は思うようにうまくはいっていないようにも思えます。しかし、ペンテコステは、また、そうであるからこその出来事でもあるのです。

 こうして地の果てに生きる私たちは、主の十字架と復活の証言者として立たされているわけですが、そこで、私たちが何を証言するか。それは、主の恵み深さとその恵みが私たちの上に置かれているということです。そして、私たちがこの神の恵みを実感させられるのは、この恵みを分かち合おうとするからです。ただ、その分かち合いが時にうまくいかず、ぎくしゃくすることもあります。けれども、ぎくしゃくしてもしなくても、この神様の恵みが取り上げられることはなく、また、ぎくしゃくするからこそ、その恵み深さを強く意識させられもするのです。なぜなら、一致とは、私たちのやり方がうまくいっているから許されていることではなく、聖霊の働きによって、自ずと与えられるものだからです。つまり、懸命に掴み取ろうとするものではなく、自ずと与えられるものであり、このことを互いに喜び、分かち合う中で約束されているものだということです。ペンテコステの出来事は、そのことを私たちに知らしめてくれているのであり、それが私たちが置かれた現実であり、事実であるのです。だから、御言葉は、ここでその評価もその説明も一切することはないのです。まただから、聖霊を受けた私たちは、自分の主張を押し通し、自分の思い通りにすべてをつかみ取ろうとする必要もないのです。このように、与えられたものを分かち合い、主にあって一つであることを信じて歩む、そんな教会の始まりを示すものが、ペンテコステの出来事であり、その後の教会の歩みが、そのことの真実を今日まで伝えてくれているように思います。

祈り
 




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