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三位一体主日礼拝 説教 「胸に刻まれた神の御心」

日本基督教団藤沢教会 2018年5月27日

【旧約聖書】申命記       6章4~  9節
【新約聖書】マルコによる福音書 2章9~11節

「胸に刻まれた神の御心」
 聖霊降臨の出来事を共々に祝い、主が共にいますことを知らされた私たちが一巡りの歩みを終え、こうして再び礼拝へと招かれ、そこで思うことは、私たちが、父、子、聖霊なる三位一体の神様との交わりに生かされているということです。それゆえ、礼拝とは、そのような神様との交わりに生かされている自らを見出し、また、取り戻す時だとも言えるのでしょう。それゆえにまた、教会が、長きにわたって、ペンテコステの翌週を三位一体主日と呼んできたことは、とても意義深いところがあります。それは、間を置かずに、この三位一体主日が定められているということはつまり、こうして教会の信仰に生きる私たちにとって、信仰とは、教会が立てられ、また、そこに加えられ、それで終わるものではなく、三位一体の神様との交わりにおいて続けられるものだということです。しかも、礼拝が、私たちの意思や気持ち以前に神ご自身の決意としてこうして備えられているように、それが続けられることが神様の願いであり、御心であるということです。従って、この、神様の「お前たちのことを離しはしないぞ」と言わんばかりのところに、私たちの信仰の醍醐味があり、また、この神様との交わりにおける、この醍醐味を味わい知るからこそ、私たちも、また、私たちの生活も、そこで、神様の御心にふさわしく整えられ、形作られることにもなるのです。ですから、信仰において、信仰者としての自分自身、私が私であること、私たちが私たちであることが明確にされるのは、そうした神様との交わりの中に置かれている、私たちのこの生活を通して、ということでもあるのです。

 そこで、この点を踏まえつつ、私たちの信仰を一言で語るなら、それは、どういうことになるのか。三位一体の神様との交わりに置かれているということはつまり、私たちの信仰は、交わりに生き、生かされてこそのものであり、これに背を向けて、信仰が信仰とされることはないということです。ですから、主イエスが私たちと同じように洗礼を受けられたということは、その点で重要な意味を持つことになります。主イエス自らが進んでヨハネから洗礼を受けられたということはつまり、主イエス自らが進んで私たちと同じ立場を選び取られたということだからです。従って、主、我らと共にいます、という私たちの信仰は、主イエスが、私たちと変わらない、同じであるというところに立って、語られているものであり、しかも、それが主イエスの意思としてなされたわけですから、先ほど申し上げた、「おまえたちのことを離しはしないぞ」という、神様のこの意思が、同じように、主イエスによっても現されたということです。ですから、この主イエスと同じである、変わらない、というところに立たされている、いや、立たざるを得ないのが、私たち信仰者でもあるということである以上、天が裂け、天上よりの神様の声として、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」と語られている神様のこの御心は、イエス様だけでなく、私たちに向かっても語られているものであり、まただから、神様とイエス様との交わりに生きる私たちは、神様のこの御心の中に自分自身の姿を見出すことにもなるのです。

 では、この交わりに生かされている私たちの姿とはどんなものなのか。それは、私たちが、神様の愛に生きるそのままの自分であるということであり、その愛を私たちは、神様の呼びかけ、語りかけ、それ以外の様々な出会いを通して、知らされているということです。そして、私たちは、それを知識としてではなく、経験として知っているわけですが、それは、普段から、そのことに親しんでいるからです。つまり、藤沢教会にこうして集められている一人一人にとって、神の愛は、日常の一コマでもあるということです。ですから、神様の愛とは、確かに特別なことではありますが、私たちにとっては、特別なことではないということです。従って、それは、これ見よがしになされるものではありません。やっていますよ、と、わざとらしくなされるものでもなければ、押し売りのごとくなされるものでもありません。共に、互いに、ということをそれぞれが意識し、大切にし合う、そんな中で与えられるものが、この神の愛というものでもあるのです。また、だからこそ、そこで、それを大切にするから、この交わりの中に、愛が自ずと現れることにもなるのです。それが聖書の語るところの愛だということなんだろうと思いますが、では、私たちの日常において、普通に、まさに空気のように私たちを包み込んでいるこの神様の愛とは、具体的にはどういうものなのでしょうか。

 この日の礼拝後、チャペルコンサートが予定されておりますが、このコンサート開催の目的は、大勢の人々を教会へと招き、私たちが受けている神様の恵みをそれらの人々と分かち合うことです。つまり、愛の業の一つとして、コンサートは行われるということですが、それゆえ、喜びを分かち合うという、まさに、神様の愛に生かされている私たちのあり方、その姿が、その中で、ごくごく自然な形で現されることにもなるのでしょう。従って、当然のことながら、私たちは、これ見よがしに、自分たちは愛の関係性を築いていますよなどと、そんなことを口にすることはありません。特に、今回のコンサートをこうして開催するに当たっては、そんな私たちのあり方、つまり、聖霊に導かれつつ、神様とイエス様と共に生きる私たちの姿が、そこにはすでにはっきりと現されていたように思います。

 共に、互いにということを大切にしつつ、私たちがこうして一緒にいるとことは、生きている限り、そこには、いろいろなことがあるわけです。病気になることもあれば、転んで、怪我をすることもある。のっぴきならない理由で、やりたくてもやれないこともありますし、また、愛する者との別れが突然訪れることもある。そして、愛ある関係性とは、そうした私たちが置かれている日常において与えられ、問われるものでもあるのです。それゆえ、その中で、じたばたするしかないのが、私たちでもあるのですが、けれども、その私たちが、じたばたするからこそ、神の愛は、そこに現されることにもなるのです。従って、そういう意味で、じたばたすることも恵みであり、そして、多くの場合、じたばたするだけで終わってしまうことの方が多いのでしょう。でも、神様の恵みが恵みであるのは、どちらに転んでも、その中身は同じであり、変わることがないのです。だから、それを知っている私たちは、いいことも悪いことも、その時に与えられた課題を互いに引き受け合うことができるのであり、だからこそ、またそこで、期待したような結果をたとえ手にすることができなくても、でも、互いに汗をかき、涙を流すことで、神様の愛を実感し、愛に基づく関係性は、より強固なものとされるのです。

 ですから、体調不良によって、出演を予定されていた方が降板し、その代役が立てられたということは、無事コンサートを開催できて良かった良かったというだけの話ではありません。出演者、その代役、そして、私たちが、互いに神の愛に生き、この関係性を日頃から大切にしていたがゆえのことだということです。まただから、私たちには、中止という選択肢もあったのですが、委員長はじめ、委員の皆さんは、そういう選択をすることなく、粘り強く、コンサートが実現するように最後まで祈り、動かれたのです。先ほど、「お前たちのことは離さないぞ」というのが、私たちに向けられた神様とイエス様の御心だと申しましたが、神様の愛の関係性に生きるということは、神様とイエス様がそうであるように、そういう粘り強さを伴うものでもあるのです。愛してますよ、愛することがとても大事ですよ、と、口先だけ語って終わるのではなく、こういうのっぴきならない状況の中で、粘り強く、最後まで諦めずにじたばたし、そして、ここが大事なんだと思います。焦る自分の気持ちだけを人にぶつけ、独り相撲をとるだけでは、人が共感を持って動くことはありません。自分のことだけで、気持ちよく、気分よく、人が一緒に居られることもありませんし、ある人たちの我慢によって成り立っている歪んだ関係性を、素晴らしいと、人が思うこともありません。状況が悪いときにこそ、互いを気遣い、その重荷を互いに引き受け合うということが大切なのであり、ですから、無理にしんどい思いをする必要はありませんが、しかし、端からしんどい思いを避け、重荷を押しつけ合うことで、愛ある関係性が築かれることは先ずあり得ないのでしょう。

 互いに、共に、と、聖書が語っていることが、昨日今日のことではないように、そこにあることは、長い時間を、それこそ共に汗を流し、一緒に涙したたくさんの人々の実体験です。そして、このたくさんの人たちが、共に、互いにという、この関係性を喜びをもって歩んだからこそ、聖書は、こうして語り聞かせられてきたのです。ですから、それは、まやかしなどではありません。こうしてコンサートが実現することになったように、共に涙を流し、互いに汗を流すことを何よりの喜びと感じる人々がいたからこそ、誰もが分かるような形で現されることになったのです。そして、それは、その私たちと、神様とイエス様が共に、一緒に歩んでくださっているからです。だから、無責任に神様任せにすることもなければ、イエス様任せにすることもない私たちは、同じ一つの交わりの中で変わりなく歩み続けているというこの実感を持つことができるのです。そして、この実感こそが、私たちを突き動かすことにもなるのですが、御言葉が、それぞれの賜物を生かし、「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして」と言っているのは、この点を踏まえてのことなのです。神様とイエス様が私たちのことを「お前たちのことは離さないぞ」と仰っているわけですから、それぞれに与えられている賜物を、だから、私たちは、神様に喜んでお献げすることができるのです。

 ですから、私たちとはそういうものでもあるわけですから、私たちは、そういう点で、人からそう思われることに臆するようなことがあってはなりません。神様が、隠れることなく、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」とイエス様のことを明らかにされたように、そのイエス様と、同じように変わらずに神様と共に生きるのが私たちでもあるわけすから、こそこそせずに、この神様の御心を現さなければならないのです。そこで、では、このこそこそしないということが、どういうことなのか。最後に、私自身の個人的な体験をお伝えしたいと思うのですが、教会の人というものは、私もそうですが、皆さん奥ゆかしく、目立つことには慣れていないところがあります。ですから、イエス様と同じ、変わりないということを言われると、どこか腰が引けてしまうところがあるように思います。そして、私たちがそう思うのは、言われ馴れていないことに加えて、それでいいとは誰もが思っていないからです。だから、慣れるということを言いたいのですが、それには、いろいろなところに身を置き、いろいろな経験をすることが大事なんだと思います。

 さて、所変われば品変わる、と言われるように、藤沢に参りまして二年、以前には、日常的に言われていたことが、今では全く言われなくなったことがあります。それは、私の方に向かって歩いてくる女子中学生、女子高生から、「きゃー、可愛い」と叫び声を上げられることがなくなったということです。女の子たちのそうした甲高い叫び声には、最後まで慣れることはありませんでしたが、ただ、それが、私の日常でもありました。しかし、もちろん、女の子たちは、私自身を「可愛い」と叫んでいたわけではありません。そう叫び声を上げられるのは、夕方の犬の散歩の時で、それが女の子たちの下校時間と重なっていたということです。ですから、自分に言われていないのは、分かっているのですが、私の方に向かって、そう言われるわけで、それが恥ずかしかったのは、それまでの人生において、ただの一度も言われたことがなかったからです。ですから、初めて言われたときには、本当に面食らいました。でも、すぐに、ああ自分ではない、犬かと分かって、とても納得したのですが、しかし、自分のことでないのは分かっていても、そう言われることには、最後まで慣れることはありませんでした。

 ところが、藤沢に参りまして、今度は、また違ったことを日常的に言われるようになったのです。そして、それは、慣れない、と言うことで終わることのできないものです。もしかしたら、慣れてはいけないことなのかも知れませんが、けれども、そう言われることに躊躇いを覚えることは、信仰者としても、牧師としても、また別の意味で間違っているようにも思うのです。さて、それが何かと申しますと、幼稚園の子どもたちから「黒田−、牧師−」と呼び捨てにされる一方で、時々言われることは、「神様ー、イエス様ー」ということです。そして、この「神様—、イエス様ー」という叫び声は、間違いなく、私に向かって、言われていることなのです。つまり、その子にとって、私がそう見えていると言うことなのかもしれませんが、もちろん、私は、神様でもなければ、イエス様でもありません。ですから、その発言自体が、間違っているとも言えるのでしょうが、そこで、皆さんが私だとしたなら、どうされますか。「嫌々違うよ」と言うのか、それとも、「そうだろうそうだろう」と思うのか。恐らくは、「違いますよ、私は神様でもなく、イエス様でもありません」と、毅然として、否を口にされるのではないでしょうか。そして、それは、正しいことです。ですから、私も、最初は、「違うよー」と返したのですが、返しつつ思ったのです。子供にはそう見えている、子供はそう思っている。知識としては正しくないが、けれども、子供は真実を見ていると、そう思ったのです。

 もし、それが私個人のことについて、子供が真実を見ているとと語るなら、それは明らかに間違っています。けれども、自分と他者との区別が明確になっていない子供がそう感じるのは、その子にとっては、そう見えているということであり、つまりは、私たちのこの交わりの中に、その子が神様とイエス様を見ているということです。つまり、その子にとって、神様とイエス様は、私だけでなく、私たちすべてなのであり、つまりは、皆さん一人一人が、神様であり、イエス様であるということです。そして、その子が、そう思ったのは、私たちがそのように生きているからです。つまり、神様の愛を口先だけで語って終わらないものを、私たち一人ひとりが、「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして」現しているということです。それが真実であり、だから、そう人から言われ、思われることに腰が引けるようなことがあってはならないのです。

 「聞け、イスラエルよ、我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と言われているこの御言葉は、そんな私たちに対し語られているのであり、だから、私たちは、全身全霊をもって神様とイエス様との交わりに生き、この喜びをたくさんの人たちと分かち合うようになるのです。私たちの交わりの中に置かれている子供の、その無邪気な叫び声が、明らかにしてくれているように、それが、こうして神様とイエス様との交わりに生きる私たちの、その日常的な姿であり、私たち自身でもあるということです。

祈り
 




晴 at10:30