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聖霊降臨節第3主日礼拝 説教 「苦悩の中で」

日本基督教団藤沢教会 2018年6月3日

【旧約聖書】歴代誌下      15章  1~  8節
【新約聖書】マルコによる福音書 1章29~39節

「苦悩の中で」
 葛藤と苦悩の内にあるイスラエルの王に向かい、神の霊に満たされた預言者は、こう語ります。「私に耳を傾けなさい。あなたたちが主と共にいるなら、主もあなたたちと共にいてくださる。」と。つまり、私たちの葛藤は、私たちの問題であるだけでなく、共にいます神様の問題でもあるということです。そして、混乱の最中にあって、そのことが、先ず、確認されているのは、それが、どんな状況にあっても、私たちが、見失ってはならないことだからで、また、それが、こうして神様の御言葉に耳を傾ける私たちにとっての礼拝だということです。だから、私たちは、神共にいますことを告げる礼拝を大切にすべきだし、私たちのことを拘りをもって礼拝へと招かれる神様のことを、私たちは,だから、忘れてはならないのです。そして、それは、私たちが、自分自身の中に一つの収まりを見出すために最も必要なことだからです。

 それゆえ、皆さんが礼拝を休まれる際などに「次は休みます」と申し訳なさそうに言われるのは、今申し上げたことを皆さんがしっかりと受け止めてくださっているからだと思います。ただ、そう言われる度に、私がいつも思うことは、もしかしたら、皆さんにそう言わせるところが私にはあるのではないかということです。ですから、その度に、我が身を振り返らされるのですが、それは、日頃から、極力そういうところは避けたいと思っているからです。そもそも、礼拝とは、自発的で、自由なものであり、誰かに強制されたり、誰かの顔色をうかがってなすべきものではないからです。神様が私たちのことを自発的に進んで自由に招かれているように、この神様の御心に応えたい、だから、応えねばと、そう思わされるものが、礼拝というものなのだと思います。

 けれども、信徒の皆さんには、だから、いつでも来られるときに好きなときに来てくださいなどと、そんな安易なことを申し上げることはできません。なぜなら、共に、ということが、ここで葛藤と苦悩を抱える者に語られているように、来なければ、この共に、ということが分かりようはずもないからです。それゆえ、この、共にという感覚は、別の言い方をすれば、絆、ということでもあるのでしょう。そして、この絆は、会うことがなければ、薄められこそすれ、強まることはありません。従って、そういうときにどういうことが起こるのか。神様を見ていないわけですから、自分の気に入ることをしてくれるものにふらふらと心を寄せることにもなるわけです。それは、一つには、他の神様を拝むということでもあるのでしょう。けれども、それは、偶像として刻まれた神様を拝むということだけではありません。お金であったり、人であったり、満足を与えてくれるものすべてにひれ伏すのが、神様を見失った者の姿でもあるのです。それゆえ、時に、自分自身すら拝むこともあるのです。

 そして、信仰において、そういうことが起こるのは、私たちがいい加減で適当だからではなく、真面目で熱心であるからです。けれども、だから、真面目で熱心であることが悪いと言うことではありません。問題は、その真面目さと熱心さがどこに向かっているのかということです。そして、それが図らずも、現れ出ることにもなるのは、私たちが神様を見失っている時です。見失っているがゆえに、自分自身への拘りが強くなり、結果、自分の考え方、感じ方がすべてとなってしまう。ただ、その場合ですが、もしかしたら、その多くが、一見すると、正しいことを言っているようにも見えるのかもしれません。けれども、そこで、対話が成り立つことはありません。それゆえ、結果、関係を築くどころか、破壊しかねない状況が生じることとなるのですが、ただ、それが深刻なのは、当の本人だけの問題ですまないからです。周辺をも巻き込んで混乱を助長し、結果、巻き込まれたすべての者が神様を見失ってしまうことにもなる。歴代誌の中で語られている混乱とは、まさに、そういう状態を指すのであり、また、だからこそ、信仰の原点である、神様が共にあるということが先ず語られてもいるのです。

 しかし、それがまたこうして語られているのは、単純に、ここでのことが、だからダメだダメだダメなんだと、御言葉がそう言いたいからではありません。それすらもまた、御言葉は恵みとして受け止めているのです。ただ、もちろん、だから、混乱があってもいいということではありません。「神があらゆる苦悩を持って混乱させられたので」とあるように、複雑に入り組んだ人の世のあり様を単純に切り捨てていないのが、長く神様と人との関わりを見つめ続けてきた聖書の御言葉なのです。従って、2節にある「もし、主を捨てるなら、主もあなたたちを捨て去られる」というこの言葉を、捨て去られないために必死になって神様にしがみつかせるための勧告だと、そんなふうに誤解してはなりません。バビロン捕囚が示すように、捨て去られたとしか思えないことは、確かにあったのですが、けれども、それは、最後の最後の手段です。だから、その直後で、「彼らは、苦悩の中でイスラエルの神、主に立ち帰り、主を求められたので、主は彼らにご自分を示してくださった」と言っているのです。それは、捨て去ることが神様の御心ではなく、ご自分を示し、その主へと立ち帰ることが、神様の御心であり、願いでもあるからです。

 ですから、御言葉が多少キツいことを言うのは、「お前なんか、家の子じゃない」というところで、神様が、私たちを縛り上げたいからではありません。言葉で追い詰め、萎縮させ、力尽くで押さえつけようとするのが神様の御心であれば、それでは、今話題となっている運動部と変わりないことになってしまいます。神様の御心として示される「共にある」ということは、萎縮させ、思考停止させるところで現されるものではなく、また、熱に浮かれ、なされるものでもなく、もちろん、あなた任せの無責任な形でなされるものでもありません。自主的に、自発的に、自由に、神様が共にあるがゆえに、私たちの尊厳は保たれているのであり、だから、喜びをもって自ずと現されるものが、神様が共にあるということなのです。従って、それは、体裁だけを整えれば、それでいいということではありません。新しい祭壇が築かれたとあるように、神様が共にいますということは、神様の御許へと立ち帰りなされるものであり、つまり、私たちに新しさをもたらすものでもあるのです。そして、その新しさが形となって私たちの手によって現されることになるのが、こうして私たちが献げる礼拝でもあるのです。

 ですから、礼拝というものは、同調圧力の結果としてなされるものでもなければ、共同幻想を抱くかのごとく、ありもしないものをあたかもあるかのごとくあがめ奉ることでもありません。そこには、私たちの生の現実すべてが現されているのであり、そもそも、共にあること、私たちが絆と呼ぶべきものとは、そういうものなのではないでしょうか。けれども、それだけにまた、分かりにくいのが、この共にある、ということなのだと思います。それゆえ、この分かり難さがまた、私たちの葛藤を助長することにもなるのです。それは、御言葉が、ある意味で、殺し文句のように、共にあるということを語っているからであり、そして、そこで合わせて語られる御言葉の厳しい要求が、さらにその葛藤を深めさせることにもなるからです。また、だからこそ、「勇気を出しなさい。落胆してはならない」と、語りかけられもするのですが、それは、「あなたたちの行いには、必ず報いがある」とあるように、葛藤の中にこそ、神様の御心が現されてもいるからです。

 しかし、そこで、必ず、と言われているのはどういうことなのでしょうか。つまり、葛藤は今しばらく続くということであり、また、だからこそ、聞き耳立てて、神様の御声に聞き、礼拝を通して、私たちは、新たに整えられていく必要があるのです。ですから、勇気を持ちなさい。落胆してはならないということは、私たちが、そういう中で礼拝を献げ続けるために語られているものでもあるということです。そして、そうした歩みをずっと続けてきたのが、イスラエルでもあり、また、その中で語られているのが、今日の主イエスの物語でもあるのです。

 私たちは、今、神様の右に坐したもう復活の主と共に、こうして礼拝を献げているわけですが、そこで、私たちが体験していることが、マルコの1章29節以下34節で語られていることです。ただ、御言葉がそのように語りつつも、御言葉に語られていることと、こうして礼拝を献げている私たちの思いとは、必ずしも一致しているわけではありません。なぜなら、御言葉を通しての主イエスとのここでの出会いが、 葛藤を覚え、癒やしを求める私たちのその手に、求めるものが欲しいだけ置かれることはないからです。けれども、だから、御言葉は何もしないままでいるわけではありません。奇跡の場が、会堂であったり、自分の家のベッドであったり、町々村々のその戸口、門であったりと、それが、私たちが日常的に身を置くすべてのところであるように,主イエスが足を運び、そこで起こったことが、ここにある奇蹟物語でもありました。このことはつまり、ここに記されていることは、それが主を信じる私たちの日常的光景であり、つまり、救いようもない現実に生きるのではなく、救いのある世界に生きているのが、こうして主を礼拝し、御言葉に聞いている私たちであるということです。けれども、その私たちが、そう語る御言葉と思いを一つにすることができずにいる。それゆえにまた、私たちは、落胆せずに勇気を持ち続けねばならないのですが、けれども、私たちが御言葉とその思いを一つにすることができないのは、もしかしたら、今申し上げた「それゆえに」というところに理由があるのかもしれません。

 私たちが、礼拝しなければ、礼拝を休んではならない、まるで追い立てられるようにそう強く思うのは、もしかしたら、勇気を持ち、落胆してはならいとの思いが、強すぎるからではないでしょうか。ですから、「礼拝を休みます」、「気がついたら、説教が終わっていました」との帰りがけの一言が、もし、牧師である私の一言一言によるものであるとしたら、それは申し訳ないことですし、私自身改めなければなりません。なぜなら、それが、神様が私たちに望んでいることではないからです。そして、もし、追い立てられるように、せき立てられるように、神様の望んでいることに応えなければならないのが私たちだとしたら、恐らくは、神様がこうしてこの場に私を立たせることはなかったでしょう。

 牧師は、初めから牧師であったわけではありません。皆さんと同じように信徒の中から立てられるのが牧師であり、ですから、かつては、皆さんと同じようにいろいろありました。ただ、基本的には、その頃の自分と今の自分とは、何かが大きく変わったわけではありません。けれども、昔と変わらないからといって、だから、それでいいということでもありません。それゆえ、私なりに牧師であることの葛藤を抱えてもいるのです。けれども、与えられている役割は違っても、そこで思うことは、皆さんと同じです。「イエス様何とかしてください。応えてくださいイエス様」と、こう祈らない日はありませんし、それは皆さんも同じなのではないでしょうか。けれども、祈りが切実であればあるほど、直ちにその祈りが聞かれることは多くはありません。そして、そういうことが繰り返される中で、信じたって、礼拝に出たって、という思いが強く大きくされていく。また、そういう中で、責め立てられれば、嫌気がさして、交わりに背を向けることにもなるのでしょう。けれども、御言葉がすごいところは、そういう私たちに向かって、ちゃんとものを語っているところです。それが、35節以下で語られていることです。

 御言葉は、葛藤を抱え、祈りつつ毎日を生きる私たちの思いをこう述べてくれています。イエス様がいないことに焦る弟子たちのその気持ちを「みんなが捜しています」と語るのですが、すると、そこでイエス様は何と答えたのか。「近くの他の町や村へ行こう。そこでも、私は、宣教する。そのために私は出て来たのである」と言うのです。ですから、弟子たちも、置いてけぼりされては困るので、だから、勇気をもって、落胆せず、そして、報いを手にするために、それこそ必死になって、イエス様と一緒にいなければ、と、そう思ったことでしょう。そして、それは、ある意味で、イエス様の役割、その使命というものを、弟子たちが正しく理解していたからです。けれども、それが、神様の御心の中心ではありませんでした。もし、それが神様の御心であったとしたら、福音は、世界が神様の救いの中にあることを伝えるのではなく、世界の救いようもないその姿を明らかにするだけのものとなってしまうからです。なぜなら、必死になってイエス様にしがみつこうとした結果が十字架であり、たとえイエス様が復活なさったとしても、「みんなが捜しています」とのこの一言が示すように、いくらその使命を理解したところで、一緒にいて欲しいと思うイエス様は、宣教に忙しく、その姿を見つけ出すことはできないからです。そのため、私たちは、孤児のように、泣き叫び、時にわめき立てることにもなるのでしょう。では、そこで、力尽くで、私たちを黙らせようとするのが神様なのでしょうか。けれども、そこで見捨てられてはいないと、経験として知らされたのが、聖霊降臨の出来事を経験した私たちでもあるのです。

 その最大の贈り物が、今日の礼拝の中で行われる聖餐です。聖餐を通し、私たちは、主の命そのものを頂くのです。主の命をむしゃむしゃと食べ、それが私たちの血となり肉とされていく、それが、主の聖餐であり、その食卓へと主イエスは、信じる私たちすべてを招かれるのです。そして、そこで、重要なことは、食べるか食べないか、食べていいのかいけないのか、と言うことに加えて、それ以上に大事なことは、御言葉に聞き続けることと同様、食べ続けるということの大切さです。そして、そこで問われていることは、単に食べるか食べないか、と言うことではありません。私たちの命がどこで育まれ、養われているのかということであり、つまり、私たちの目から見れば、この世は救いようもない世界に映ることもあるのですが、こうして礼拝へと招かれ、主の御言葉に聞き、主の食卓へと招かれている私たちは、救いのない世界に見えるこの世にあって、救われし身として、この世界に生きているということです。そして、主は、この恵みをすべての者に与らせようとしてくださっている。必死になって主イエスに従ったわけではないペトロの母を救いへと招かれたように、私たちと関わるすべての者を私たちと同じ立場に置こうとしている。それが、命の主であるイエス様なのです。

 ですから、この関係性を水増しして、薄めるようなことがあってはなりません。ただ、そのためにも、私たちは、性急に答えを求めすぎてはならないのです。葛藤を覚えつつも、共にいます主の御心が必ずなることを信じ続けるその先には、私たちの求めるその答えが、必ず用意されているからです。そして、そのことを現実味をもって新たにしてくれるのが、神共にいます日々の中心にある礼拝です。礼拝で御言葉に聞き続け、主イエスの命をいただき、これまでを歩んできた私たちは、だから、救いようもないものとしか見えないこの世界が、実は、主によって救われていることを知るのです。私たちが生きる世界、私たちの命とは、そういうものでもあり、この思いを新たにさせられるのが礼拝というものなのです。ですから、主とのこの絆、関係性が、断たれることはなく、続けられることを私たちは、だから知っているのであり、また、だから、私たちは、一個の人間としての収まりを自らに見出すことができるのです。

 葛藤を抱えることは、嬉しい事ではありません。自分がどこに置かれ、どのような命に生きればいいのかすら分からなくなることがあるからです。けれども、こうして神様を礼拝する私たちの上から、主が共にいますがゆえに、どんなときにもその希望の灯火が消えることはないのです。ですから、これからも、主が共にいますことを礼拝を通し、私たちが、この一点に自分自身の収まりを見出すことができるなら、私たちは、必ず大きな報いを受けることになるのは間違いありません。

祈り
 




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