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聖霊降臨節第4主日
 子供の日・花の日合同礼拝 説教 「神様への献げもの」

日本基督教団藤沢教会 2018年6月10日

【旧約聖書】サムエル記上   16章14~23節

「神様への献げもの」
 今日は、「子どもの日・花の日合同礼拝」として、子どもたちと一緒にこの特別な礼拝を、私たちは守っているわけですが、そこで、子どもたちに聞いてみたいのですが、みんなは、どんな人になりたいでしょうか。みんなにとって、将来はどういうものであって欲しいでしょうか。その思いは、一人ひとり違うことと思いますが、でも、そうした中で、一つだけ、同じことがあるように思います。それは、どういう人になろうとも、自分らしさだけは失いたくはないということでしょうし、また、将来は、この自分らしさを失うものであって欲しくはないということでもあるのでしょう。けれども、この自分らしさというものが、自分ではなかなか分かりにくいところがあるのです。特に、成長の過程にあるみんなにとって、自分とはこういう人間ですと、きっぱり言い切ることは、難しいことでもあるのでしょう。でも、子どもであっても、それをきっぱりと言えるのが、こうして神様を礼拝している私たちでもあるのです。

 先ほど、一緒に聞いた聖書の御言葉には、ダビデという人が登場しましたが、そこには、実にダビデのダビデらしさがよく現されていたように思います。そして、こうして聖書の御言葉に聞いている私たちは、このダビデらしさの中に、また、自分自身の姿を見ることができるのです。それは、ちょうど、ダビデの裔であるイエス様の中に、私たちが自分自身の姿を見出すことができるのと同じなんだと思います。では、私たちが真っ先に気がつくダビデの姿とはどういうものなのか。竪琴を弾くのがとても上手であり、それだけではなく、とても勇敢な戦士でもありました。今日の聖書の箇所の直ぐ後で、まだ小さな子どもに過ぎないこのダビデが、力尽くではなく、頭を使って 3メートルもある巨人ゴリアテを打ちのめしたように、とても頭が良かったのが、このダビデでもありました。そして、さらに、聖書が「言葉に分別がある」と言っているように、ただ頭が良かっただけではなく、性格も良く、そのために、誰からも慕われたのがこのダビデでもあり、しかも、その見栄え、姿は、とても良かったのだそうです。ですから、私たちが、こうなりたい、こうありたいと思うすべてを持っていたのが、このダビデという人であり、そして、さっき、言ったように、このダビデの中に、自分らしさを見ることができるのが、私たちでもあるということです。

 さて、そこで、今、みんなが何を思っているのか、当ててみましょうか。それは、「どこが、どうして」ということなんだろうと思います。それは、今、ダビデについて、僕が言ったことを想像し、それと、みんなの目の前にいる僕とを見比べるなら、答えは、それしかないからです。ですから、そうみんなに言われれば、普通でしたら、返す言葉もないのでしょうが、けれども、誤解を恐れずに言えば、だからこそ、私たちは、このダビデの姿の中に、私たちらしさを見ることができるのです。

 23節に「神の霊がサウルを襲うたびに、ダビデが傍らで竪琴を奏でると、サウルは心が安まって気分が良くなり、悪霊は彼を離れた」とあるように、悪夢にうなされるイスラエルの王様であるサウルを慰めるために、その宮廷へと召し出されることになったのがこのダビデでありました。そして、そこでまた、私たちは、このダビデらしさを通して、気がつかされることになるのです。それは、音楽の力強さです。今、子ども聖歌隊、聖歌隊の奉献讃美を聞き、多くの慰めを受けたばかりの私たちには、このことは、よく分かることでもあるのでしょう。ですから、そういう意味でみんなは、このダビデの中に自分自身の姿を見ることができるのです。けれども、大人の人たちはどうでしょうか。今、御言葉を通し、私たちが聞こうとしていることは、多くの慰めを受けたサウルのことではなく、それほどまでに多くの慰めを与えたダビデについてであり、このダビデの中に、私たちが、自分自身の姿を見出しているということです。つまり、ダビデが大きな慰めをサウルに与えたように、それぞれの賜物を生かし、ダビデのように悩み苦しむ人々に慰めを与えることができるのが,私たちであるということです。

 ただ、このように言うと、きっと、大人の人たちは、こう思うことでしょう。「いや、私はできない、できるはずもない」と、そういう声が聞こえるように思います。それは、みんなの歌声に、それだけ大きな慰めを受けたからでもあるのでしょうが、それだけにまた、ダビデのような力も経験もないと、そう思い込んでいるからなんだと思います。だからまた、できないし、やりたくないと、そう思ってしまうわけです。けれども、だからこそ、そこでもう一度、子どもであるみんなも、大人の人たちも、一緒に見つめ直して欲しいのです。ダビデらしさというものは、この時、この場限りのものではないということを、です。

 ダビデが、多くの賜物を持ち、それゆえ、ここでは、それがためにまた、サウルに大きな慰めを与えることにもなったのですが、けれども、このダビデの持ち味が災いし、やがてサウルに疎まれ、殺したいとまで忌み嫌われるようになったのが、このダビデでもありました。そのため、ダビデは、数々の試練に見舞われることにもなったのですが、しかし、それでも失われることがなかったのが、このダビデらしさでありました。そして、それは、十字架を経験したイエス様も同じでした。

 私たちは、もしかしたら、この自分らしさというものを、人をひきつける上で自分がどれだけ多くのものを持っているか、また、それを生かして、自分がどれだけのことをできるのか、そういうところから考えているところがあるのかもしれません。そして、ダビデがその持ち味を生かし、サウルに大きな慰めを与えたように、この持ち味をどれだけ生かし、どれだけ大なことをするかは、この自分らしさとまったく無関係であるわけではありません。だから、僕のような音痴な人間は、みんなのように人を慰めることなどできないと、そう思い込んでしまうわけです。でも、そこでまた思うのです。みんなは、まだ、出来上がってはいない子どもです。その子どもであるみんなが、大人の人たちに大きな慰めを与えたのです。そして、ダビデも、みんなと同じ子どもでした。自分はこうだ、こういう人間なんだなどと、はっきり言えるまで大きくなってはいませんでした。けれども、それにも関わらず、ダビデらしさ、ダビデの自分らしさが、サウルに大きな慰めを与えることになったのです。

 ダビデらしさというものは、さっき言ったように、その時、その場限りのものではありません。神様が示された道をダビデが歩み始めたように、その道を歩んでいる限り、そこで、現されるものが、この自分らしさというものなのです。つまり、この道に一遍立ってみなければ、この自分らしさが引き出されることはありませんし、たとえ、その持ち味が人に疎まれるようなことがあっても、神様が示された道を歩み続けていれば、それも、手を抜かず、一生懸命に与えられた賜物、その持ち味を生かそうとするから、この自分らしさは失われることはないのです。では、この自分らしさを失わないためには、私たちは、どうすればいいのでしょうか。そのために必要なことを一つお伝えすると、それは、楽観的であるということです。

 私たちが歩む道は、神様ご自身が共にいてくださるもので、その中で私たちは、それぞれに与えられている賜物、その持ち味は、この道を歩み続けるために与えられているものなのです。それも、自分だけが、ということではなく、みんなが、たくさんの大人の人たちに慰めを与え、その顔を笑顔に変えたように、こうして一緒にいるすべての人々を笑顔に変えることができるのが、神様が共にいる道でもあるのです。ですから、みんなは、もう、その道を歩み始めているわけで、そして、それは、みんなだけでなく、ここにいる大人の人たちも同じです。だから、安心していいし、楽観的にその道をこれからも歩み続ければいいのです。つまり、自分らしさとは、神様の道を一緒に歩む私たちが、いつも笑顔でいられる、笑顔になれる、この笑顔の中に現されるものだということです。

 アメリカの俳優さんで、マイケル・J・フォックスという人がいるのですが、みんなは、この人のことを知っているでしょうか。この人は、人気絶頂のその時、パーキンソン病という重い病気にかかり、それまでと同じように活躍することができなくなってしまいました。けれども、それでも、役者であることを辞めることはありませんでした。そして、もちろん、自分自身の境遇を悲観することもありませんでした。ですから、そんな自分自身について、この人は、「救いようもない楽観主義者」と言っているのですが、この楽観的である自分らしさが、自分自身をも力づけ、また、周りの人たちをも力づけてもいるのです。そして、それは、彼が特別な能力を持っているからではありません。彼は、自分自身を信じているし、それは、彼自身を信じてくれたただひとりの人の言葉を信じているからです。

 ある学者が、そんな彼の気質、性格を調べたところ、彼は、楽観的というよりも、悲観的に物事を考える傾向があるのだそうです。でも、無理をして、自分のことを「楽観主義者」と呼んでいるわけではありません。ですから、「救いようもない楽観主義者」というこの呼び方の中には、楽観的であるよりも悲観的である自分自身のことをよく理解している、そんな彼自身の自己理解がそこには言い表されているようにも思います。人が言うような楽観主義者でも、悲観主義者でもない、彼は彼自身であるということです。そして、そのことを彼に気づかせたのは、彼のおばあちゃんでした。彼がまだ小さかった頃、両親もそれ以外の大人たちも、彼に対して、大きな期待を持つことはありませんでした。けれども、このおばあちゃん、たった一人だけが、彼のことを「この子は大きくなったら有名になる」とそう言い続けてくれたのだそうです。そして、彼もそれを信じた。たった一人自分のことを信じてくれているおばあちゃんの言葉を信じて、有名になっても、病気になっても、ただ一人おばあちゃんが示してくれたその道を歩み続けている。それが、この「救いようもない楽観主義者」と自らのことをそう呼んでいるマイケル・J・フォックスという人なのです。そして、それは、ダビデも、みんなも、こうして神様を礼拝する私たちも、同じなのです。

 彼がおばあちゃんの言葉を信じ続けたように、信じるというのは、たった一人自分のことを信じてくれている方の言葉を信じ、その方が示された道を歩み続けると言うことです。そして、その言葉通りの道を歩み続けるからこそ、そこに現されるものが、自分らしさ、その人らしさというものなのです。このことはつまり、ただ一人の方に信じていただいているただ一人の自分であることを信じて、どこまでも同じ一つの道を歩み続けるということです。だから、そのために、その持ち味が生かされ、回りの人たちをも笑顔に変えることができるし、自分も笑顔になれるのです。何があっても、どんな時にも、ただ一人に愛された経験があるから、だから、楽観的でいられるのです。ですから、そのためにも、私たちは、人と一緒にいなければならないのですが、一緒にいるということは、自分も人も笑顔になれるわけですから、自分らしさを言い張ったり、押しつけたりするものではありません。マイケル・J・フォックスという人のおばあちゃんのように、そっと側にいるということかもしれませんし、べそをかいている子には、大丈夫だよ、とそういって上げることなんだと思います。そして、それは、何か特別な力をたくさん持っていないとできないことではなく、みんなのように何も持っていないし、持っていなくていいんだと、そう思えるからこそ、一緒にいて安心できるし、その安心が自然と自分も人をも笑顔に変えていくことになるのだと思います。

 そして、それができるのは、ダビデが、とか、マイケル・J・フォックスさんが、とか、そういうことではありません。こうして神様を礼拝している私たちは、みんな一緒で、私たち一人ひとりすべてが、だだ一人のお方である神様に愛されているたった一人であり、そのたった一人の私たちが、こうして神様の前に集まって、一緒に同じ一つの道を歩んでいるのです。ですから、その私たち一人ひとりが、こうしてたくさん集まっているわけですから、何ができる、何を持っているなどと競い合うように自分は、こうなんだと、こうなんだと言い張る必要もないのです。ただ一人のお方が、その方にとって、ただ一人である私たちのことを「この子は大丈夫」といつもそう言い続け、一緒にいてくださっているわけですから、くよくよせずに、のびのびと、自分らしく笑顔をもって歩むことができるのが、こうして神様を礼拝する私たちなのです。

祈り
 

  




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