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聖霊降臨節第5主日礼拝 説教 「人生の海の嵐に」

日本基督教団藤沢教会 2018年6月17日








説教[講壇交換]
小河 信一 牧師
(日本基督教団 茅ヶ崎香川教会)
【旧約聖書】サムエル記下 6章1~23節
 1ダビデは更にイスラエルの精鋭三万をことごとく集めた。2ダビデは彼に従うすべての兵士と共にバアレ・ユダから出発した。それは、ケルビムの上に座す万軍の主の御名によってその名を呼ばれる神の箱をそこから運び上げるためであった。3彼らは神の箱を新しい車に載せ、丘の上のアビナダブの家から運び出した。アビナダブの子ウザとアフヨがその新しい車を御していた。4彼らは丘の上のアビナダブの家から神の箱を載せた車を運び出し、アフヨは箱の前を進んだ。5ダビデとイスラエルの家は皆、主の御前で糸杉の楽器、竪琴、琴、太鼓、鈴、シンバルを奏でた。
 6一行がナコンの麦打ち場にさしかかったとき、牛がよろめいたので、ウザは神の箱の方に手を伸ばし、箱を押さえた。7ウザに対して主は怒りを発し、この過失のゆえに神はその場で彼を打たれた。ウザは神の箱の傍らで死んだ。8ダビデも怒った。主がウザを打ち砕かれたためである。その場所をペレツ・ウザ(ウザを砕く)と呼んで今日に至っている。9その日、ダビデは主を恐れ、「どうして主の箱をわたしのもとに迎えることができようか」と言って、10ダビデの町、自分のもとに主の箱を移すことを望まなかった。ダビデは箱をガト人オベド・エドムの家に向かわせた。11三か月の間、主の箱はガト人オベド・エドムの家にあった。主はオベド・エドムとその家の者一同を祝福された。
 12 神の箱のゆえに、オベド・エドムの一家とその財産のすべてを主は祝福しておられる、とダビデ王に告げる者があった。王は直ちに出かけ、喜び祝って神の箱をオベド・エドムの家からダビデの町に運び上げた。13主の箱を担ぐ者が六歩進んだとき、ダビデは肥えた雄牛をいけにえとしてささげた。14主の御前でダビデは力のかぎり踊った。彼は麻のエフォドを着けていた。15ダビデとイスラエルの家はこぞって喜びの叫びをあげ、角笛を吹き鳴らして、主の箱を運び上げた。16主の箱がダビデの町に着いたとき、サウルの娘ミカルは窓からこれを見下ろしていたが、主の御前で跳ね踊るダビデ王を見て、心の内にさげすんだ。17人々が主の箱を運び入れ、ダビデの張った天幕の中に安置すると、ダビデは主の御前に焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげた。18焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげ終わると、ダビデは万軍の主の御名によって民を祝福し、19兵士全員、イスラエルの群衆のすべてに、男にも女にも、輪形のパン、なつめやしの菓子、干しぶどうの菓子を一つずつ分け与えた。民は皆、自分の家に帰って行った。
 20ダビデが家の者に祝福を与えようと戻って来ると、サウルの娘ミカルがダビデを迎えて言った。「今日のイスラエル王は御立派でした。家臣のはしためたちの前で裸になられたのですから。空っぽの男が恥ずかしげもなく裸になるように。」21ダビデはミカルに言った。「そうだ。お前の父やその家のだれでもなく、このわたしを選んで、主の民イスラエルの指導者として立ててくださった主の御前で、その主の御前でわたしは踊ったのだ。22わたしはもっと卑しめられ、自分の目にも低い者となろう。しかし、お前の言うはしためたちからは、敬われるだろう。」23サウルの娘ミカルは、子を持つことのないまま、死の日を迎えた。


「人生の海の嵐に」
 説教題の「人生の海の嵐に」は、福音讃美歌443番にちなんで付けました。私たちは、人生の海原、この世という海を巡り、さまざまな港に寄港しながら旅しています。そして私たちは、最後には天なる港、天国に入るという希望を抱いています。

 私自身、人生の中で、数々の嵐に遭遇してきました。それは数年毎に、自分を襲って来ているように思われます。なぜ嵐が巻き起こるのか、究極のところ、神のみぞ知るということですが、皆さんにも、天災や人災など嵐に巻き込まれたという経験があることでしょう。今苦しみの中にある人には指摘しにくいことですが、旧約の人物の次の言葉は注目すべきです。 
ヨナ書1章12節――
 ヨナは彼らに言った。「わたしの手足を捕らえて海にほうり込むがよい。そうすれば、海は穏やかになる。わたしのせいで、この大嵐があなたたちを見舞ったことは、わたしが知っている。」
 人生の中で、嵐、すなわち、混乱、挫折、周りの人への迷惑や高ぶりなどをつくり出したのは、自分自身であるということです。本日は、サムエル記下6章を通して、嵐の渦中にいたダビデの姿を捉えましょう。

 サムエル記下6章がドラマチックな展開になっていることは、最初と最後を見れば分かります。

 最初の場面では、これから神の箱をエルサレムに移送しようと、ダビデのもとに三万人の兵士が集っていました。それが最後には、ダビデとミカル、夫婦二人だけになっています。なおかつ、「ミカルは、子を持つことのないまま、死の日を迎えた」と言われていますから、精鋭部隊三万から始まった物語の行く末に、「そして誰もいなくなった」という消え入るような不安が漂っています。

 内容的にサムエル記下6章には、神の箱が都エルサレムへ運び上げられるという出来事が描かれています。地理的背景を補足しましょう。モーセがこの箱に入れられている十戒を授かったのが、シナイ山です。そこが大阪だとすれば距離的に、ここ藤沢がエルサレムに位置づけられます。そして、神の箱が20年間安置されていたバアレ・ユダは、エルサレムの西方、およそ10㎞ですから、今まさしく茅ヶ崎に神の箱があり、終着点の藤沢まで残りわずかということになります。モーセから始まって、約200年後に、アンカーとして王ダビデはバトンを引き継ぎました。これまでの生涯において三度も油注がれたダビデですから、神の箱を担ぎ上げる10㎞の行進など訳もないことのように思われますが、果たして……

 神と人の面前で有終の美を飾るべきところ、ダビデは二つの嵐に見舞われます。意外な方面からの苦難とも見えますが、そこにダビデの深い罪がひそんでいたと言えましょう。

 一つ目の嵐は、新しい車、牛車で神の箱が運ばれていた時、アビナダブの子ウザがその箱に触れて死んだことです。すなわち、牛がよろめいて、神の箱が転がり出そうになった時、ウザは手を伸ばして、箱を押さえたのです。忠実に職務を遂行していたダビデの部下が神の怒りに触れて、亡くなったのです。確かに旧約律法には、「聖なるものに触れて死を招くことがあってはならない」(民数記4章15節)と、かつて日本にあった駕籠(かご)のように、人力により(かつ)ぎ台と担ぎ棒を使って運ぶ等の掟がありました。惨事を招いたのは、指揮官ダビデが掟に反する「新しさ」にこだわったからでしょうか、あるいは、彼が部下に対し事前の説明を軽んじたからでしょうか。「ダビデも怒った」と言いますが、その怒りは彼の頭に積まれるべきだったのではないでしょうか。

 いずれにしても、ウザの急死は不可解です。ここで、ダビデの優れている点は、バアレ・ユダ~エルサレム間、すなわち、茅ヶ崎~藤沢間の移送を中止したことです。都エルサレムではすでに迎えの人が集まり始めていたかも知れませんが、ダビデは途中の民家に神の箱をあずけることにしました。怒りに包まれたまま、あせって事を進めようとは考えませんでした。いやそれ以上に、不可解さの中でダビデは神の御心を尋ねたのです。そして、その場所が「ペレツ・ウザ」(ウザの破れ)と名付けられたことを、ダビデは心に刻みました。三か月、ダビデは待ちました。

 二つ目の嵐は、公的な宗教行事をやり遂げたダビデの、その家庭内で巻き起こりました。すなわち、夫婦の不和が()き出しました。神の箱が無事、エルサレムに運び上げられ、天幕に安置されました。興奮さめやらぬダビデとて、さぞ疲れていたことでしょう。

 兵士全員ならびに群衆すべてが、輪形のパンなど御祝儀をもらって「自分の家に帰って行った」……各家庭の幸せな光景が目に浮かびます……その矢先の出来事です。

 〔幼少期からの竪琴奏者・ダビデの発言〕おれは()を描いて優雅に舞い踊った、〔王宮育ちのプリンセス・ミカルのお言葉〕いや、あなたがぴょんぴょん飛び跳ねるのは下品でした、というようなちょっとしたすれ違いが激しい口論へと至りました。

 妻は「今日のあなたさまは光輝に満ちておられました」と持ち上げておいてから、「だけど、あなたはからっぽ頭なのよ。裸になって恥ずかしくなかったの」と痛烈な皮肉を言いました。対する夫も言い返して、「わたしのような立派な王に、あなたの父上も、兄君も、弟君もなれなかったくせに」と妻の親族攻撃に走りました。

 夫婦の正面衝突と、神の箱のエルサレム到着とが、同じ日に記憶されるとは……神の勝利を祝うということは、自分の敗北、自分の罪に向き合ってこそ成り立つということでしょうか。

 ウザにおけるダビデのペレツ(破れ)と同時に、ミカルにおけるダビデのペレツ(破れ)が露わになりました。その破れかぶれの姿を、嵐に翻弄される自分を、ダビデは主の御前に隠しませんでした。そして、こう言いました。 
サムエル記下6章22節――
  「わたしはもっと卑しめられ、自分の目にも低い者となろう。しかし、お前の言うはしためたちからは、敬われるだろう。」
 主イエス・キリストが十字架に上げられることの、預言・先駆けであるかのように、神の箱の中の十戒がエルサレムに上げられました。十戒がこの世を(とも)す御言葉としてあるべき所に置かれた時、ダビデの罪深さが照らし出されました。その時、主の御前に、ダビデのとった姿勢は、「へりくだる」ということでした。

 ダビデは、自分の破れを神にゆだねました。彼はひとりではありませんでした。主の御前に、「へりくだる」友、はしためたちがおりました。ダビデと共に、力のかぎり讃美し踊った隣人、互いに敬い合う友です。イエスの母マリアもまた、「へりくだる」はしためでした(ルカ1章48節)。 
フィリピの信徒への手紙2章3節~4節――
  何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
 十字架と復活の主が、私たち一人ひとりの罪を赦してくださいます。自分のみならず、相手の中に降り注いでいるキリストの恵みを信じる者でありたいと願います。

 人生の嵐の只中にいる者、そして嵐を乗り越えて旅を続ける者、共に手をたずさえて、天のエルサレム、御国を目指して行きましょう。聖霊の導きをお祈り致します。

祈り

  


曇 21℃ at 10:30