印刷用PDF(A4版4ページ)
聖霊降臨節第6主日礼拝 説教 「主よ、何処に」

日本基督教団藤沢教会 2018年6月24日

【旧約聖書】エステル記       4章10節~5章9節
【新約聖書】マルコによる福音書 6章14~29節

「主よ、何処に」
 主の御言葉によって養われ、それぞれの馳せ場へと送り出された私たちが、再び主の御前へと集められ、これより御言葉に聞こうとしているわけですが、主我らと共にいます信仰に生きる私たちにとりまして、こうして御言葉に聞き、礼拝を献げる上での最大の目的とは何か。それは、交わり、共同体、コミュニティーを形作ることであり、また、そのために求められていることは、異質なものとの関わりです。なぜなら、異なるものとの交わりを避けて、私たちの信仰が信仰とされることはなく、また、そこに信仰共同体が築かれることもないからです。終末までの歩みを共にする私たちが、異質なものとの関わりを通し、主にあって一つであることを常に絶えずイメージできるからこそ、福音は福音としてその輝きを増すのであり、そうであるからこそまた、キリストを隅の親石とする教会は、大きく成長し、主イエスが再臨されるその時、こうして主の御前に立つ私たち一人ひとりは、主に喜びをもって受け入れていただくことにもなるのです。

 そこで、今申し上げた、異なるものとの交わりを避けないということを心に留めつつ、早速、御言葉に聞いて参りたいと思うのですが、ただ、そのことの大切さは、私などが敢えて言うまでもなく、皆さん、すでにお分かりのことと思います。ですから、それが大切だ大切だと繰り返し語るだけでは意味はありません。私たちがそこから逃げずに実際に行うことが肝心なことでもあるのでしょう。しかし、いざ行動に移すに当たってはどうでしょうか。求められていることのイメージが、いいイメージで刷り込まれていれば、「いっちょやったるか」ということにもなるのでしょうが、その逆のイメージが定着してしまっていると、どうしても二の足を踏んでしまうものなのではないでしょうか。特に、今日のそれぞれの御言葉に記されているよう最悪のケースが想定される場合などは、なおのことそうなのだと思います。しかし、そうであるからこそまた、そこで私たちに迫るものが御言葉というものなのです。

 二の足を踏むエステルに対し、モルデカイが「この時に当たって、あなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済はほかのところから起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるに違いない。この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか」と、こう語っているように、たとえ二の足を踏むようなことがあっても、その与えられた使命を全うすべく召されているのが私たちでもあるのです。ですから、そこで言い訳ばかりを繰り返していても仕方ありません。それゆえにまた、その使命に生きねばならない者に対しては、モルデカイのように、その背中を押して上げるのが親切というものなのでしょう。ただ、そう言われ、エステルのように、「私は死ぬ覚悟で参ります」と言えればいいのですが、みんながみんなエステルのようには参りません。背中を押されても、逃げ出したくなることはありますし、実際に逃げ出してしまったということもあるのでしょう。けれども、そこで逃げ出したところで、神様がヨナをどこまでも追いかけ続けたように、どこまでも追いかけ、その恵みを私たちの口に放り込むのが、私たちの神様なのです。ですから、必要であれば、神様ご自身がなさるわけですから、私のような者が大袈裟に何かを語り、皆さんの背中を押す必要もないのでしょう。

 けれども、現にそういうものであっても、様々な思惑の中に身を投じることは、特に、御言葉にあるような、結果が火を見るよりも明らかな場合には、やはり腰が引けてしまうものです。それゆえ、腰が引け、そこでまた思うのです。そのような自らと正面から向き合い、「主よ,何処に」と。そして、そう思うのは私だけではなく、この思いをもって、常に絶えず歩み続けてきたのが、私たち主の教会に生きる者でもありました。それは、今日の御言葉が明らかにするように、福音に生きるということは、時に過酷で、私たちを精神的にも肉体的にも痛めつけるものでもあるからです。けれども、「主よ、何処に」と問う私たちは、そこでまた知らされるのです。それが、神様の御心であり、つまり、福音が福音であるということの偽らざるそのままの有様を、この世の現実のただ中にあって、腰が引けようがどうしようが、逃れられないところで福音に生きればこそ、私たちは、福音の真実に触れることになるのです。

 主を礼拝する私たちは、この時、等しく一様に主の福音に聞いているわけで、その恵みから漏れる者は誰一人としておりません。このことはつまり、礼拝とは、そのように祝福された時であり、そういう場であるということです。自分だけではなく、こうして、主の御前に集められているすべての者が、この祝福を分かち合う者であるということです。ですから、主にあっては、私たちはすべて同じであり、そういう意味で、自分と周囲にある者とを区別する垣根は取り払われているということです。従って、この祝された状態を他のことに置き換えるなら、いわゆるお祭りの賑わい、喜びを共にするのが、この時の私たちであるということです。だから、祝わなければならないし、祝わずにはおれないのです。ハレルヤ、アーメンと、声高らかに主の御名を讃美する、誉め讃えると言うことが、そこで自ずと起こってくることにもなるのです。けれども、それは、主にあって、ということであって、それ以外のものではありません。ですから、私たちは、それをただただ喜んで受け取っていればいいのですが、ところが、そうすることのできないのが私たちでもあるのです。そして、自分がそういう者だと知らされるのは、これは、矛盾した言い方になりますが、私たちが、こうして主を礼拝し、主と祝いの時を共にする者でもあるからです。

 祝されたとき、祝された空間に身を置くと言うことは、先ほど、主にあって自他の垣根が取り払われることだと申し上げましたが、自他の垣根が取り払われたということはつまり、どういうことでしょうか。そこで、生じることは、私たちにとって、必ずしも都合のいいことばかりではないということです。従って、礼拝とは、つまりはそういうものであり、場合によっては、エステルとモルデカイのように、また、洗礼者ヨハネのように、過酷な運命に身をさらすことすらありますし、もしかしたら、へロディアのように、自分が喜べる状況を自ら作り出そうとして、主の御前にあって、おぞましい姿を期せずして露わにすることすらあるのです。そして、それを知らされるのが、私たちにとっての礼拝の時でもあるのですが、礼拝とはつまり、そのように隠されていたものが浮かび上がり、また、露わにされていたものが隠される、自他の垣根が取り払われる祝された時間、空間とはそういうものであり、けれども、だからこそそこでまた、大切なことを知らされるのが、私たちがこうして献げる礼拝というものなのです。

 絶望がすべてを支配しているとしか思えないことは現実にあり、そして、これは、あっては欲しくないのですが、この絶望的状況を、今日の礼拝のように、私たちは、主を礼拝することの中で、感じることすらあるのです。そして、そのような厳しい現実のただ中で、隠されていた自分自身の醜い姿、哀れな姿が露わにされるのは、主が私たちをその喜びで満たしてくれないと、私たちがそう思うからで、しかも、悲しいことに、そのことに自分自身気がつくことすらないのです。けれども、へロディアのおぞましさ、ヘロデのあざとさを、こうして御言葉に聞いている私たちは気づいています。当人は気づかずとも、その傍らにある者には、それが分かるのです。ただ、傍らにあるからといって、それだけで皆が皆分かるものではありません。へロディアの娘が、母親の異常さに気づかず、無邪気にも、積極的に母親の悪事に荷担したように、おぞましさ、あざとさをイメージできずにいる者は、一緒にいても気がつくことすらできないのです。それゆえ、ここでのことは、私たちをさらに憂鬱な気分にさせるのですが、私たちをさらに絶望的気持ちに追いやるのは、14節で「イエスの名が知れ渡ったので」との一言で始まっているように、主の名が広まったがゆえに、この絶望的状況が生じているということです。

 それゆえ、このゆゆしき事態を、私たちは、何とか変えなければと思うわけで、また、よこしまな人々の思惑を、この世界から積極的に取り除かなければならないと、そう考えるのです。それが、世界の民を祝福へと招き入れることが、神様のたっての願いでもあるからです。それゆえ、そこで、エステルのように、命すら惜しまないとの覚悟をもって、この過酷な現実に挑もうとするのです。ところが、エステルのように、その試みが成功すればいいですが、しかし、洗礼者ヨハネのような結果が、待ち受けているとしたらどうなのか。このように、主の名によって求められていることと、主の名によって浮かび上がるところでのせめぎ合いの中に置かれているのが、こうして福音に聞き、主を礼拝する私たちであり、そして、そこでまさに問われているのが、私たちの信仰でもあるということです。

 ただ、こうして主を礼拝することにおいて、私たちが、この時、どう思うとも、主の御心の中に置かれているのは間違いありません。なぜなら、祝福の中に置かれているということは、主にあっては、私たちは、その裏も表も知られているということで、つまりは、その表も裏も、そのそれぞれを現すことを許されているのが、こうして主を礼拝する私たちであるということです。けれども、だから、そのままでいいということではありません。私たちの中に隠されているヘロデのようなもの、自らのため娘までも利用するへロディアのようなものを、主は絶対に見過ごしすることはないからです。ですから、私たちが、この現実を見つめるなら、それは、まさに修羅場であり、天国と地獄の境界線上に立たされていると、そう思うことでしょう。だから、また、境界線上に立っていることを知った私たちは、主を礼拝しつつも、自らが安心できる状況を作り上げようとあがくのです。けれども、自らの力をもって自ら安心できる状況を作り出そうとすることは、洗礼者ヨハネの首が、ヘロデとへロディアに安心をもたらすことにもなったように、では、私たちとヘロデ、へロディアとを分けるものとは何なのでしょうか。そこで、私たちの多くは、同じではないと、そう考えます。そして、確かに、同じではありません。大きな違いがあるのは間違いありませんが、では、その違いとは、一体,何なのか、ということです。

 主にあって祝された中を生きる私たちと、ヘロデやへロディアとの違いが明らかにされるのは、ここでの出来事が、ここにこうして記されているように、この世においてのことです。そして、そこで、その違いが明らかにされるのは、私たちが、ヘロデやへロディアとは違うと、自らにそう言い聞かせ、あるいは、口をとがらせて、違う違うと主張するからではありません。もちろん、自分を脇に置いて、自分以外の者を自分の思うように変えることに成功したからでもありません。違いとは、福音に生きる私たちが、こうして祝された時を共にする中で露わにされるものであり、この違いが明らかにされるのは、私たちが、境界線上に立たされとの自覚を持って、私たち自身、福音の力によって変えられていくからです。そして、それは、単に自覚の問題で終わるものではありません。私たちが主にあって変えられるのは、私たちがヘロデやへロディアと変わらない、同じであることを認める者でもあるからです。そして、このことはまた、だから、私、私たちはダメなんだ、と、自らに負の烙印を押すことではありません。そのダメな私たちが今こうして受け取っているものは何なのでしょうか。それが福音であり、つまり、人々の間に広まった主イエスの名を現すこの福音の力こそが、そのまま、私たちとヘロデ、へロディアとの違いを現すのであり、この私たちにとっての福音の力が、そのまま、福音を信じ生きる私たちを変え、その私たちをして、この世のすべての人々に、その違いの背後にある大きな力を告げ知らせることになるのです。

 従って、福音書の中に現されているこの絶望的状況の中で私たちが見つめるべきもの、見つめているものは、ここに主イエスの御名ゆえに、神様の御心が明らかにされているということです。ただ、それは、見るとはなしに、何となく見つめることのできるものではありません。境界線上に立ち、私たちが、あちら側とこちら側とを見つめ、そして、それは、私たちを基準としたらどちらでもいいのですが、私たちが主イエスの御名が置かれているところに身を置くからこそ、福音を福音として、私たちは喜び、変えられていくことになるのです。それゆえ、こうして主にあって礼拝を共にする私たちとはつまり、このことを喜ぶ者であり、だから、自らの罪、ダメな自分を、さらには、同じように罪あるその傍らにある人々のことをも、主にあって互いに喜び見つめ合い、共に歩むことができるのです。では、そのために、私たちは、何が求められているのでしょうか。

 主の祝福の内に置かれているということは、私たちの裏も表も、主の御心の内に置かれているということです。ただ、それを主イエスの気持ちになって想像してみてください。皆さんは、この状況を本当に我慢することができるでしょうか。我慢し、何かいいものを自分自身生み出し、創り出すことができると、自信をもってそう言えるでしょうか。残念ながら私にはできません。できないどころか、その状況に、私自身、そもそも耐えることなどできないと思います。けれども、主イエスは、それができるにもかかわらず、この状況をじっと耐えているのです。それは、この世が新たにされるその時をじっと待ち望んでいるからです。そして、その時は、今や、主の十字架と復活の出来事によって訪れ、しかも、この世に教会をこうして立て、自ら先頭に立って、この世に生きるすべての人々にこの祝福に与らせようとしているのです。従って、そこで私たちに求められることは、この主イエスについていくこと、倣うということです。

 私たちが置かれているそれぞれのところで、こうして福音の力を信じる私たちが、イエス様の御名にふさわしく交わりを築くことができるのは、主イエスが、世界に対し背を向けることがないからです。ただし、私たちがそのように生きるということは、イエス様の十字架同様、崖っぷちに立たされるようなものでもあるのですが、けれども、私たちが、そこにじっと立ち続けるからこそ、祝された交わりがこの世に築かれることにもなるのです。また、だから、そこで、この交わりへと招かれた多くの人々によって、こうして生きることは捨てたもんじゃないということが、御心として、この世の中に、それこそ手にとって分かるように明らかにされていくのです。そして、それは、私たちをこうして集め、主を礼拝する教会が、そのように主に導かれ歩む、交わりそのものでもあるということです。このことはつまり、私たちが自分の信仰を確かなもとすることも大事なことではありますが、その自分を養い育て導くのは、主の教会だということです。迫害の中に置かれた人々が、主の教会にある希望を見つめ生きたように、主にある交わりの中にあって、主というこの言葉の中に希望を見出す歩みを続けるからこそ、私たちの信仰もまた、教会という交わりを通し、確かなものとされていくのです。そのことが、それぞれの御言葉を通し、はっきりと告げ知らされているわけですから、主という言葉に絶望したとしても、御言葉全体が告げ知らせるように、なお、主というこの言葉の中に大きな希望を見出す私たちでありたいと思います。

祈り
 




曇 22℃ at10:30 → 晴れ模様(12時)