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聖霊降臨節第7主日礼拝 説教 「主の決意」

日本基督教団藤沢教会 2018年7月1日

【旧約聖書】エレミヤ書       23章23~32節
【新約聖書】マルコによる福音書   8章14~21節

「主の決意」
 エレミヤ書23章28節に、「しかし、私の言葉を受けた者は、忠実に私の言葉を語るがよい」とあるように、神様が語られた言葉、イエス様が語られた言葉を受け入れ、忠実に語り継いできたのが、私たち信仰者でもありました。このことはつまり、神の言葉を語る上で、個人的なオリジナリティーは求められてはいないということです。それゆえにまた、パウロも言っているのです。今日は説教後に聖餐式が行われますが、その制定の言葉として、パウロの手紙の言葉が引用されておりますが、そこにはこうあります。「私があなた方に伝えたことは、私自身、主から受けたものです。」と。そして、パウロがこう語るのは、信仰のありがたさというものが、私たちがよくよく理解し、吟味し、これは間違いないとの確信が得られたからではなく、受け売りのように語り続けられてきたことが、悪いものではなく、いいものであるからです。けれども、物事というものは、自分が思い描いたようにうまく行くものではありません。しかし、それでいいし、また、そう思えるところに、信仰の有り難みや豊かさ、さらには、その喜びがあるのです。ですから、端的に言えば、私たちの信仰とは、聖書の御言葉を真に受けるところに終始するものだということです。敵を愛せよと言われれば、なるほど、そうなのだと思えばいいし、静かにしなさい、すべてを献げなさい、私に従いなさいと言われれば、その言葉を真に受け、はい分かりましたと、求められているそのままを生きればいいのです。

 ところで、二十世紀の偉大な神学者であるバルトという人の名前を聞いたことがあると思うのですが、この人の語っているところは難しく、それゆえ、バルトの語っていることの真実は、彼の語るところの彼方にあるなどと言われるくらいでした。そして、この偉いバルト先生がある時アメリカの大学で講演したことがあったのですが、その時のことです。一人の若者が、バルト先生に向かって大胆にもこう尋ねたそうです。「バルト先生、先生の語られてきたことを一言で言うと、どういうことなのでしょうか。」と。すると、この若者の一言を聞いた聴衆は、「バルト先生になんてことを言うのか」とそう思い、一瞬、息を呑んだのだそうですが、そこで、バルトは、ユーモアたっぷりにこう答えたのだそうです。「よろしい。私が母の膝の下で教わったある一つの歌の言葉で答えましょう」と。そして、そこで彼の口から出た言葉は、皆さんのよく知っている、「主我を愛す」の一節でした。すると、それを聞いた聴衆は、やんややんやの大喝采であったそうです。しかし、この逸話が物語るところは、だから、バルトが偉かったということではありません。バルトが偉いのは、母から受けたことを真に受けたということであり、それゆえ、それは、バルトが、とか、誰誰が、とか、そういうことではありません。私たちすべてに求められていることは、そういう点で同じであり、つまりは、私たちの信仰は、「我弱くとも、恐れはあらじ。我が主イエス、我を愛す」、これに尽きるということで、この母親から受けたそのままを生きたところに、バルトの偉さがあったということです。

 従って,洗礼を受けた私たちが、何を知り、何を分からなければならないのかと言えば、それは、皆同じように主に愛されているということです。どれだけ偉大な働きをなしたかが第一ではなく、仮に、私たちの思いとしては、小さなことしかできなかったとしても、それで、神様が私たちの見方を変えることはないということです。それゆえ、受けたこと、伝えられたことを真に受け、受け売りのように、口にし続けるからこそ、そこにこうして集められている私たちの人生も、必ず豊かなものとされるし、喜び多いものとされるのです。

 ただ、このことは、私たちがこれまで耳にたこができるくらい、何度も何度も聞いてきたことです。なのにどうして、その私たちが、イエス様の言葉を真に受けることができないのか。言われたことを言われたままに、なるほどその通りだとの思いをもって、受け売りのように語り、歩むことができないのか。主イエスの「まだ悟らないのか」とのこの一言が、真に受け,一歩を踏み出すことのできない私たちの姿を物語ってくれているようにも思います。またそれだけに、このイエス様の苛立ちの向こう側に、弟子たち、そして、私たちの「分かった、分かった。」との苛立ちが、見え隠れしているようにも思います。そこで、たまたま今日、エレミヤ書において、偽預言者の存在が語られていることから、思いつくままにその理由を口にするなら、そのわけは、本物に触れたことがないから、ということなのかもしれません。そこで、私たちは、どうすれば、この古くて新しい問題、つまり、何が本物であり、何が偽物なのかを、どうすれば見分けることができるのかというところに関心が向かうのでしょう。特に、自分がひどい目に遭ったと思う人たちは、失敗したとのその思いから、なおのことそう思うに違いありません。

 以前、親しくしていたある教会の信徒から、「今度は、本当の牧師だといいんだけど」と、そう言われたことがあったのですが、この言葉を聞き、私自身、ただ聞くことしかできませんでした。それは、そうだよな、と納得するところがあったからです。けれども、そうした筋道の立て方は、忠実に語られてきた信仰を忠実に語り伝えるという点で、正しいことなのでしょうか。それは、敵と味方、被害者と加害者に分けることであり、もし、私たちが聖書の御言葉を真に受けているのなら、敵はいないわけですし、また、常に絶えず御言葉を通し、神様の慰めに与ってもいるわけですから、被害者になることもないはずです。すべてを主の御心として受け止め、アーメンとの感謝の思いをもって、その重荷を下ろすことができるのが私たち信仰者であるはずなのです。そして、もし、御言葉を通し、私たちの何かが変えられ、新たにされていくとしたら、それは、まさに、真に受けるからこそであり、それゆえ、私はまた、そこで、はたと気がつかされることにもなったのです。

 信徒の率直な声に聞き、そうした中で、私が何も語ることができずにいたということは、私自身が偽預言者であるかないかはともかくとして、そうだよなと思ったところで、偽預言者と何も変わりはないということです。ちなみに、その点を気づかせてくれたのは、駆け出しの頃に出会い、それ以後、事ある度毎に教えを請うているある牧師でありました。ですから、ここで、主イエスが「まだ悟らないのか」と仰ることは、何もできない、何も語れないところに立たされた私自身に向けられたものでもあったということです。あれもない、これもない、これはダメだ、あれもダメだと言われる中で、その声に飲み込まれ、そうした声に対し何もすることもできなかったからです。けれども、そうした中で、神様の言葉を忠実に語ったのがエレミヤであり、イエス様であり、その牧師でありました。そして、この場合の忠実であると言うことは、時に、孤立の道を選び取るということであり、つまり、人々の関心の外に身を置くということでもあります。そして、それは、いわば、聖と俗との境界線に立たされるということでもあるのでしょう。けれども、ここで、主イエスが、ヘロデのパン種、ファリサイ派のパン種に気をつけよと語るように、それは、いわゆる私たちが思いつくような聖と俗との区別ではありません。なぜなら、俗人の代表がヘロデであるとすれば、聖人の代表は、その厳格な信仰ゆえに、ファリサイ派の人々であると言えるからです。

 では、忠実に神の言葉を語るとは、どういうことなのでしょうか。一般的に考えられている聖と俗との区別は、偉いか偉くないか、素晴らしいか素晴らしくないかといった塩梅に、自分を物差しとして、他と自分とを分けるところで成り立つものでもあるのでしょう。ただ、多くの者は、おこがましくも自らを聖人と見なすことはありません。しかし、いずれにせよ、その場合においても、自分自身を、自分が願い求める物語の主人公としていくところでの色分けに過ぎず、自分を物差しとして、聖と俗との区別をなしているという点では、変わりないように思います。けれども、主イエスが仰っていることも、また、エレミヤを通し、神が仰ることも、そういうことではありません。

 御言葉が何かを語る上での主人公は、神であり、主イエスであるということです。だから、神を知らず、主イエスを知らない人たちは、自分を主人公とした物語を思い描くことを願い、預言者エレミヤにしようか、それとも、偽預言者にしようかと考え、耳障りの言い言葉を発する偽預言者の方を選び取ってしまうのです。従って、それは、許されることではありません。厳しく罰せられる必要があるのでしょうが、けれども、そうであるからこそ、そこで、私たちは、今日、一つのことに注意しなければなりません。性急に答えを求めすぎるのではなく、主イエスが、だから間違ってはならない、本物を見る目を養わなければならないと、そう私たちに語りかけてはいないからです。

 主イエスが、「まだ悟らないのか」とこう呼びかけるところはどこか。それは、主イエスがいますところであり、それは、神の領域と人との領域がせめぎ合う場所でもありました。主イエスはここに立って、弟子たちに語っているのです。ただ、そこには、主イエス以外、頼る方はおりません。だから、持っていないことに憂いを感じ、主イエスに怒られまいと思う弟子たちは、うろたえ、慌てふためくことにもなったのでしょう。それは、ある意味で、自分自身の思い描く人生の物語にピリオドを打たれることに恐れをなしたからなのかもしれません。しかし、忠実であることが問われるのは、まさにそのような場であって、もうお終いだとの思いと無縁な場所ではないのです。

 一つのパンしかない時、たった一つのものを分かち合わねばならないのが、主イエスの物語に生きる私たちであり、と同時に、その時、それをするから、そこで、私たちは、大きな安心を得ることができるのです。ところが、御言葉の中の弟子たちがそうであったように、一つのパンを分け合うことに喜びを見出すのではなく、自分の思い描く物語が終わることを恐れるのが私たちなのです。また、だから、時に、一つのパンを巡って争うことさえあるのです。それゆえ、そうしたところから離れ、自らが変えられ、新たにされていく必要があるのです。なぜなら、争い合っているだけでは、人と人とが一緒にいることはできませんし、たとえ私たちのコミュニティーが主の名を冠したとしても、一緒にいることに背を向けるようでは、いずれどこかで消滅してしまうことにもなるからです。だから、仲良くすることは必要ですし、分かち合うことが求められもするのです。けれども、ここでの状況は、ただ仲良くせよということだけが言われているわけではありません。このような状況が生じたのは、弟子たちが何も持ってはいなかったからです。まただから、弟子たちも、その後ろめたさ、持っていないことへの不安から、慌てふためくことにもなったのです。まただから、ファリサイ派とヘロデのパン種に気をつけよとの主イエスのこの言葉を、主イエスが自分たちのことを責めていると、そう誤解して受け取ることにもなったのです。

 私たちがこうして一緒に生きていく中で、忘れることはありますし、できないこともあります。もうダメだと諦めてしまうことだってあるのです。そして、それをどうしてどうしてと責められたところで、私たちにはどうすることもできません。そこで、責められたくないとの思いの強い人は、きっとこう考えることでしょう。俗物ではなく、聖人であれば、このどうすることもできないことに毅然として立ち向かうことができると。ただ、世の中には、道を求め、信仰を求め、様々な宗教を熱心に渡り歩く人がおりますが、結局、何も手にすることなく、道半ばで諦めるしかなかったという話はよく聞くところでもあります。また、だからこそ、そうならないためにも、ここで主イエスが仰るように、私たちは、目を覚まし、悟ることが必要なのですが、けれども、それは、私たちが、聖なる人の立場に努力して身を置こうとすることではありません。

 悟りを開いたと言われていたある禅宗の高僧が、余命幾ばくもないと知らされ、以後、ふさぎ込んだままだったという有名な話がありますが、もちろん、そうではない人もいるのでしょう。けれども、自分の物語が終わりを告げられたとして、それで平然としていられる人は、よほどの宗教的達人でない限りまずおりません。そもそも、そのような事態に直面し、落ち込まないことの方が、不自然だとも言えるのでしょう。また、それだけに、人は、いつまでも終わることのない物語の主人公であり続けようとするのでしょう。「持っていないことを議論する」弟子たちの姿が、そんな私たち自身の姿と重なるように思いますし、また、なぜと主イエスに問われることに恐れおののく私たちの心の有り様に、弟子たちと同じ心の有り様を見る思いがいたします。

 しかし、主イエスの言葉は、まさにそのような場所に立つ弟子たち、私たちに向かって、語られているのです。そして、そこで、主イエスが「なぜ」と問うのは、このどうすることもできないこの状況の中で、「どうしよう、なぜ」と、私たちが、そう問いかける必要がないからです。ただし、それは、だからと達観していればいいということではありません。ないものはなく、やってしまったことをなかったかのようにすることはできないからです。ですから、そのようなとき、信仰とは何かと思わざるをえないのが私たちでもありますが、そういう意味で、こうして主の言葉を聞いている私たちも、どうしようどうしようと慌てふためく人たちと変わりありません。けれども、そこには、一つ大きな違いがあります。それは、私たちは、なぜ分からないのか、なぜ悟らないのかと問う、この主イエスの御声を主イエスのおられるところにこうして立って聞いているということです。だから、主イエスのこの問いかけゆえに、私たちはまた、そこで悟るのです。何もなく、何もできないからこそ、そこがどこなのかと、「そうだ、ここは、主イエスのお膝の上だ」と、私たちは気づくのです。ただし、その時の私たちは、聞き分けのいい場合もあれば、聞き分けが悪い場合もあるのでしょう。そして、そこで、私たちは、ここでの弟子たちのように、失望し、落胆することもあるのでしょう。けれども、私たちにとっての喜びは、主イエスのお膝の上で、必ず与えられるのです。

 このように、私たちとこうして共にいてくださっているのが主イエスであり、その主イエスが、主イエスと同じところにたつ私たちの手を引いて、私たちの故郷である御国へと導こうとされているのです。そして、私たちの人生、物語とは、そのために与えられているものであり、つまり、このように主イエスを主人公とした物語の中に置かれているのが私たちであるということです。ただ、それが分かっていても、それでもという時は必ずあります。では、そのような時、どうすればいいのでしょうか。五千人の供食の際に、主イエスが讃美の祈りを唱え、その時の課題に答えられたように、窮したとき、私たちが先ずなすべき事は、共に祈ることであり、群れとしての課題を主イエスと共に互いに担い合うということです。ただ、このことは、私たちにとって特別なことではありません。神の家族であれば、普通のことであり、私たちがこうして共に生きる中で、誰もが普通に身につけるべく求められていることなのです。けれども、私たちが生きるその場所は、そこに主イエスの十字架が置かれたように、ここでもそうですが、それを普通だと言い切ることのできない難しさが確かにあります。けれども、だからこそ、この求められていることを特別視してはならいのです。なぜなら、普通のこと、当たり前のこととして行うことを共にある私たちに、主イエスは求め、そこで、失われることのない安心を与えようとされているからです。つまり、様々ありながらも、安心できる場が私たちには備えられている。主イエスのこの「なぜ悟らないのか」との問いかけは、まさにそのことを私たちに明らかにしてくれているのです。祈りましょう。

祈り
 




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