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聖霊降臨節第8主日礼拝 説教 「最初に見たもの」

日本基督教団藤沢教会 2018年7月8日

【旧約聖書】列王記上        10章  1~13節
【新約聖書】マルコによる福音書   8章22~26節

「最初に見たもの」
 先週行われた「みくに幼稚園」の一泊保育も、すべて主の恵みの中に終えることが許され、主への感謝の思いで一杯でありますが、さて、この一泊保育ですが、それは、子どもたちにとっての大冒険であるだけでなく、私たち大人にとっても大冒険です。ある子にとっては、初めて親と別れることであり、また、昨年の楽しかった記憶覚めやらぬ子どもにとっては、そのわくわくした気持ちもさることながら、新たな出会い、発見を通し、大きく成長する機会ともなるからです。ただ、そういう子どもたちを連れて行くことはとても大変なことです。不安から帰えりたいとだだをこねる子もおりますし、好奇心に駆られ、勝手にどこかに行ってしまう子もおります。ですから、幼稚園の職員たちは、寝る間もなく、子供たちのお世話をしなければならないのですが、それゆえ、それを知っている教会の私たちも、一泊保育を覚えて祈りを合わせずにはいられないのです。

 その中で、最も大きな責任を負ってくれているのが、現場の職員たちですが、彼女たちがそのように大きな責任を担うのは、彼女たちのプロ意識ゆえのことでもあるのでしょう。それゆえ、私たちは、職員たちの働きの大きさに賞賛を惜しむ者ではありません。けれども、それだけで終わるものでもありません。その責任を担ってくれている職員たちは、私たちと同じように、キリストの福音を宣べ伝える宣教の働きに従事する者であり、私たちの仲間でもあるからです。そして、この仲間という点では、子どもたちもそのご家族も同じです。私たち藤沢教会の宣教の働きの中から生み出されたものがみくに幼稚園であり、この一泊保育である以上、子どもたちとそのご家庭のすべてが藤沢教会という主の群れに与えられている一人ひとりであり、そして、この群れを、主が一つとなし、それぞれの働きを祝福してくださっている以上、群れの外に置くことはできません。

 ただ、私たちが祈りに覚えるのは、子どもたちの安全だけではありません。むしろ、こちらの方が主であろうと思うのですが、私たちが子どもたちに掴み取ってもらいたいと願い、祈ることは、世界を造られた神様を知ることです。それは、神様がどんな時にも、私たちと共にいてくださり、私たちの命を支え、その与えられた人生をより良いものとしてくださっているということです。このことはつまり、その子の人生が、神様によって豊かなものとされているということであり、その子自身が、神様に見捨てられず、受け止めていただいているということです。ただ、このことは、子どもたちにとっては、あえて申すまでもないことなのかもしれません。なぜなら、生まれてからまだ数年しかたっていない子どもたちにとって、神様は、遠い存在ではなく、理屈抜きに感じることのできる、とても近い存在だからです。それゆえ、私たち大人以上に宗教的な感覚を備えているのが、子どもであるように思います。それゆえにまた、子どもたちが感じるこの神様との近さに触れ、私自身、大きな気づきを与えられもするのです。

 そして、そのような大きな気づきを与えてくれるのは、子どもたちだけではありません。先週、オリーブの会が行われましたが、オリーブの会の中心メンバーは、年配のご婦人たちです。つまり、子どもからしたらおばあちゃんということですが、長く歩んでこられた方々と接していて、様々な場面で思わされることは、子どもたちと同じように、神様との近さです。ただ、もちろん、オリーブの会の方々が、子どもたちと同じだということではありません。神様との近さゆえのことでもあるのでしょうが、皆さん、とても大らかで、そのため笑いが絶えないのです。そして、それは、オリーブの会に限ったことではなく、様々な集会すべてに言えることです。そこで、オリーブの会について申し上げましたので、少し触れますと、オリーブとは、聖書的には豊かさの象徴であり、神様の恵みそのものでもあります。そして、豊かであるということは、今日の旧約聖書にもあるように、がつがつ、こせこせしていない、つまり、あれをしてはいけない、これをしてはまずいと、必要以上に心配することがないということです。ですから、以前牧師の窓にも書いたように、時に、女子会ネタで盛り上がり、もちろん、そこには、たしなみもあり、行き過ぎることはないのですが、でも、牧師を赤面させたり、返答に困るようなことを平然と口にされたりもするのです。そして、それが、下品なものになったりしないところがすごいところで、ですから、私は、そういうところに信仰の豊かさや大きさを感じ、と同時に、先ほど申しました、神様が近くにいます、ということは、こういうことかと、妙に納得させられもするのです。そして、盛り上がったそのときの姿でありますが、三つ子の魂百までと言われているように、まさに幼子の姿そのもので、そういう意味で、幼子のごとくと、仰るイエス様のお言葉のそのままを歩んでおられるのが、オリーブの会の皆様であるように思います。そして、それと同じような光景を様々な集会で見ることができるのは、つまり、この大らかさこそが、私たちそのものでもあるということです。

 ですから、これは藤沢教会に来てからのことですが、このように、日常的に神様がとても近いということを知らされてもおりますので、その人の子どもの時の姿、子どもたちのこれからの姿といったものが目に浮かぶようになってきました。この子は、この人は、老いたとき、こんな姿になっているんだろうなとか、年配の方を見ては、幼い頃こんな様子だったのだろうなとか、ふと、そんなことを思い浮かべてしまうのです。そして、それは、私たちの人生、一生が、神様との近さゆえに、一本に繋がっているからであり、そもそも人間を造られたのが神様でもあるわけですから、このことは、不思議なことではないように思います。こうして、様々な世代が一緒にいる中で、私たちの人生が一本の道で繋がっていることを知らされるのは、生まれ、最後に辿り着くところがすべて同じなわけですから、当然といえば当然だからです。

 ですから、主にあって、私たちの人生が、同じように一本に繋がっているということを知るためにも、様々な世代がこうして一緒にいると言うことは、それぞれの人生がより豊かなものとされていく上で、大切なことなんだと思います。この世代になったら自分もこうなっているし、あの世代になったら、自分はこうなっているんだなと、こういうことがあったときには、その時にはこういうふうにするんだろうし、また、こんなふうに物事は考えればいいんだなと、しかも、そこに笑いがあるわけですから、仮にどんなに大変なことがあったとしても、その世代を迎えた時の自分自身のイメージを肯定的に受け止められるようになるのです。まさに、一泊保育に出発したときの子どもたちのように、大冒険にも臆することなく、一緒にその一歩を踏み出すことができるのです。

 そこで、少し横道に逸れることをお許しください。先週のオウムの事件に関する報道については、皆さまもご存じのことと思いますが、事件の当事者であった当時の若者たちが、その成長の過程で、将来の自分自身についての具体的なイメージを肯定的に受け止めることができたなら、あのような事件は起こらなかったと、私はそう思っています。けれども、それが起こったということは、彼らがそのような状況に置かれてはいなかったということです。もちろん、おやっと思って、ああなる前に、おかしいよ、ダメだよ、とたしなめる人はいたのでしょう。けれども、彼らがそうした声に耳を貸すことができなかったのは、そうなる前の関わりにおいて、先ほど申しました、人生が、始めから終わりまで一本に繋がっているということを、彼らが具体的にイメージできなかったからだと思います。ただ、この一本に繋がっているというところで示される世代世代のイメージは、必ずしも好ましいものばかりではありません。大きな爪痕を残すことになった、この度の九州、四国、中国地方の災害のような悲惨な出来事をその記憶に刻むものであり、豊かさや喜びと言ったものからは、ほど遠い現実を含んでいるからです。

 そこで、オウム関係者の一つの特徴として言われていることは、彼らが高学歴であったということです。つまりは、頭がいいゆえに、自ら問いを立て、自らその答えを導き出す力が彼らにはあったということです。そして、その行き着く先が我々の知るところでもありました。ただ、真面目で頭のいい彼らがその道を求め始めた頃は、恐らくは、あのような結末を、彼ら自身、想像だにしていなかったのでしょう。それどころか、最も嫌悪し、否定していたものだと思います。けれども、その彼らが、想定外の結末を自ら引き受けさせられることになったのは、その一歩を踏み出すのその先のイメージがなかったからで、また、あったとしても、彼らなりに好ましいイメージを描こうとするか、描いただけだったのだと思います。それは、彼らがその時に自分が見ているものだけを見て問いを立てたからであり、それゆえ、将来に対するイメージをまったく欠いていたのは間違いありません。つまり、自分自身がリアルに感じられるものだけを見つめ、彼らなりにいいと思えるものだけを取り上げて、その中から答えを導き出そうとしたのが彼らであったということです。

 ただ、そうしたことを懸命に考えていくと、必ずどこかで辻褄が合わなくなって来るわけですから、面倒くさくなって途中で放り出すのが落ちなわけです。ところが、彼らはそうではなかった。そんな面倒なことを彼らができたのは、やはり彼らが頭のいい素直な人たちだったからです。ですから、彼らは、親や先生の手を煩わせることは、余り多くはなかったのかもしれません。それだけに、今だけがすべてと考えて、問いを立て、そして、その今というときからすべての答えを導き出そうとした。その結果、松本、地下鉄と、彼らは多くの人々の命を奪ったのですが、それ以外にも彼らが奪った命はたくさんありました。それは、彼らなりの考えに従ってのことだったのでしょう。それゆえ、彼らのそんなグロテスクさを思わないわけには参りません。

 私たちの人生のその始めと終わりを祝福の中に繋げ、その豊かさに与らせようとしているのは、神様です。それゆえ、この神様の御心を、人間が、踏みにじることは、決して許されることではありません。だから、彼らのしたことは、決して許されませんし、現にその後味の悪さが示すように、その死をもってしてもその罪を償うことはできないのです。ですから、これで幕引きというわけには参りません。世界の造り主である神様を信じる私たちには、オウムというこの問いに対し、答えを導き出す責任があるのです。従って、引き続き、私たちは、考えていかなければなりません。また、そのためにも、立てた問いに対する答えを手にするための知恵を持たなければなりません。そこで大切になってくるのが、始めと終わりが一本で繋がっているというこの感覚であり、実感です。それは、この始まりと終わりを繋げるのが神様であり、この神様を畏れ敬うことが、私たち人間が最も知るべきことであり、だから、御言葉も、神を知ることが知恵の始まりと言うのです。

 シバの女王が、遠くエチオピアよりソロモンを訪ねたのは、その人生を生きる上で、答えを出さなければならない難問が山積していたからです。だから、その答えを導き出す知恵を手にするためには、女王としての責任として、いかなる代価を払っても惜しくはなかったわけです。ただ、御言葉は、そうしたシェバの女王の行為を「ソロモンを試そうとして」と記すのです。けれども、この試す、という言葉に引きづられてはなりません。悩み、苦しみ、多くの難問に囲まれたとき、私たちが、神様を試すように、神様の御前に進み出ることはないでしょうか。さらに、そういう気持ちを抱えつつ、畏れをもって神様に頭を垂れているということはないでしょうか。ですから、そういう意味で、そこで言われている「試みる」とは、すなわち、期待感の表れであり、つまりは、期待感を持って神に跪くということです。だから、仮に、その目的が人の目から見て、どんなに不純に見えても、結果、ソロモンに向かって、シェバの女王が、「あなたの神、主は讃えられますように」とこう述べているように、神を畏れ、神様より多くの知恵を与えられた者と出会い、その者と一緒に主なる神様に跪く時、人は、主なる御神様を褒め称えられる者へと変えられるのです。それゆえ、13節で、御言葉が「女王が願うものは何でも望みのままに与えた」と語るように、この女王のように、人は神様の祝福の中に置かれることになるのです。ただし、そこでなされることは、単に物のやり取りではありません。ソロモンとシェバの女王の胸襟を開かせたのが主なる神であるように、大事なことは、物事への拘り、富や地位、名誉への拘りを捨て去ったこの大らかな関係性のでもあるのでしょう。そして、それが、神を畏れ敬うことの豊かさとその喜びでもあるのです。

 従って、それが許されるのは、ソロモンとシェバの女王の間柄だけではありません。私たちも同じです。主にあってその豊かさに与る私たちであるわけですから、こせこせ、けちけちするのは、神を畏れる私たちには相応しくありません。がつがつ、めそめそするだけのところに、人がやってくることもありません。ですから、そういう意味で、私たちが、大らかでいられ、しかも、その私たちにみくにの子供たち始め、そのご家族、職員が与えられているということは、、私たち藤沢教会も、ソロモンとシェバの女王の間柄に見られる神様の豊かさに与っている何よりの証拠なんだと思います。それゆえ、この間柄を大きく広げ、続けていくという使命が私たちにはあるのです。
ところが、始まりと終わりの間には、シェバの女王のように、それが難しい、無理だと思う難問が山積みされることがあるのです。まただから、それを乗り越えるための知恵が求められもするのでしょうが、そこで、御言葉が明らかにすることは、神を畏れることと同時に、そう実感できる人と人との近さです。つまり、障害を負った友を、その仲間たちが主イエスの下へと連れて行ったように、私たちが、神によって与えられたこの一本の道を進むためには、それぞれの御言葉に表されている神と人との近さを実感し、具体的に形に表す必要があるということです。そして、この近さを私たちが体で感じるためには、障害を負った者が仲間によってイエス様の下へと連れて行かれ、そこで、イエス様に触れていただき、そして、その目が開かれたように、神との間、人との間に、イエス様の顔を見る必要があるのです。

 言葉を発することのできない障害を抱えたある一人の女の子が、あるとき夢の中でイエス様に会い、その時の様子をこう言ったそうです。「イエス様って、手話がとっても上手なのよ」と。つまり、その子がイエス様との近さを感じたところは、自分の一番弱いところであったということです。このように、私たちの最も弱いところで深く関わってくださるのがイエス様であるわけですから、そのことを知った私たちは、それゆえにまた、自分の弱さをもはや隠す必要はありません。神様にも、そして、友にも、兄弟姉妹にも、私たちと近い関わりの中にある人々に対して、隠すものなど何もなく、従って、私たちの大らかさとは、それゆえのことでもあるということです。

 ただし、大らかでいるためには、一つの制約があります。神様との近さを実感し、シェバの女王が自分の国に帰って行き、また、目の開かれた人に向かって、「この村に入ってはいけない」と言って、イエス様が自分の家に帰されたように、私たちが大らかであるためには、神様とイエス様との近さを感じる場所を必要としているということです。そして、それは、近さゆえの喜びを現し続けるための場所であり、それゆえにまた、始まりと終わりを断ち切る危ない真似、自分勝手な真似は許されないのです。そこには、たしなみがあり、慎みがあり、忍耐がある、だから、下卑たもの、グロテスクなものに流されることなく、地に足ついた歩みを続けることができるのです。そして、それは、私たちの努力のたまものだとも言えるのでしょうが、けれども、私たちにそれを続けることが許されているのは、私たちが最初に見たものを忘れることがないからです。

 神様が、光あれとの一言をもって造られたのがこの世界であり、その世界に生きる者とされた私たちが最初に感じるのはこの光です。そして、その私たちが目を開けて最初に見るものが、イエス様のお顔であり、この神様の光と私たちの弱さに寄り添うイエス様の笑顔によって支えられているのが、私たちの命なのです。そして、この命は、この光、イエス様のこの大らかさの中で、一つに繋がり、それが、私たちの一生、人生を形作っているのです。それゆえ、この最初に感じたもの、最初に見たものを後生大事にし、この歩みを私たちが一緒に続けて行くからこそ、私たちは、必ずや主にあるその豊かさを実感させられ、始めに感じたことをその終わりにおいても実感することになるのです。

祈り
 



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