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聖霊降臨節第9主日礼拝 説教 「信じる者には何でもできる」

日本基督教団藤沢教会 2018年7月15日

【旧約聖書】サムエル記上      17章32~37節
【新約聖書】マルコによる福音書     9章14~29節

「信じる者には何でもできる」
 神様の召命に与った者は、当然、その使命に生きることが求められ、それゆえ、その使命を中途半端な形で投げ出すことは許されません。そして、それは、ある特別な力、その志の高さなどに左右されるものではなく、ルターが、私たちプロテスタントの福音主義信仰を語る上で、万人祭司を取り上げているように、私たちがこうして主の教会に連なり、福音に聞いている以上、すべての人々に求められるものでもあるのです。従って、神様の使命に生きることをなおざりにする者は、誰一人としておりません。なぜなら、それが、私たちに求めていることでもあるからです。

 そこで、今日の御言葉を見て参りますと、少年ダビデの姿は、その賞賛に値するだけでなく、私たちに勇気を与えるものです。大の大人が尻込みする中で、ダビデは、戦闘エリートであり、絶大な力を有する巨人ゴリアトとの戦いを自ら志願し、実際に勝利を掴み取ることになったからです。そして、この勝利が約束されているのが、私たちの信仰でもあり、また、人が信仰を求めてやまないのは、戦いにおける勝利の与え手としての神への期待値の高さゆえのことでもあるのでしょう。ですから、今日の旧約聖書に記されているダビデとゴリアトの物語は、そういう意味で、イスラエルの人々始め、多くの人々の心を捉えるものであり、今日を生きる私たちにとってもまた、神によって約束された勝利を物語るこの出来事は、信仰の魅力を余すところなく現してくれてもいるのでしょう。特に、この勝利の告知は、福音主義の信仰に生きる私たちにとって、大きな意味を持つものでもあります。なぜなら、終末を迎えたその時、主イエスと共に勝利の御座に連なることが、私たち信仰者の最大の目的であり、その願いでもあるからです。そして、その私たちは、そのためにその進むべき道に立ちはだかる者に勝利し続けねばならず、その勝利が、この小さき者に約束されてもいるわけですから、その小ささ、未熟さを理由に、神の戦列から離れることが許されない以上、この世が終わりを迎えたとき、歓呼の声をもって、主イエスを喜びの中に迎えるためにも、私たちは、その道に立ちはだかる者に負けるわけには参りません。

 しかし、それに対し、今日ここに記されている弟子たちの姿は、何とも不甲斐ないばかりです。悪霊に悩まされた幼子を目の当たりにし、ダビデのように、果敢に立ち向かう姿勢を見せるのではなく、あろうことか、この悪霊について、律法学者たちと、できるかできないか、やるべきかやらざるべきかと、小田原評定を繰り返すばかりで、悪霊に打ち勝つこともできなかったからです。そして、そこに、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れ、山から下りてきたばかりの主イエスがやって来てたわけですから、悪霊に苦しむ子どもの親が、主イエスのところに駆けつけて、「あなたの弟子たちは、ぐだぐだ言うだけで、まったく役立にもたちません。何とかしてください」と言わんばかりに、その親が主イエスに詰め寄ったというのは、よく分かることでもあるのでしょう。

 そして、そこで主イエスが仰ったことが「何と信仰のない時代なのか。いつまで私はあなた方と共にいられようか。いつまで、あなた方に我慢しなければならないのか」ということでもありました。このことはつまり、主イエスは、悪霊に挑むこともせず、小田原評定を繰り返すだけの弟子たちのことを「不信仰」と言って、切って捨てたと言うことで、それは、弟子たちのその不作為が最大の問題だと、主イエスがそう思ったということです。そして、主イエスがそのように仰ったということは、そういうことを繰り返すだけの弟子たちの姿が、神様の目から見ても、イエス様から見ても、さえない者にしか見えなかったからです。つまり、弟子たちの勇気のなさは、面白みもないということでもありますので、「こいつら、つまんない奴」、そう思ったということでもあるのでしょう。また、それだけに、私たちの心は、主イエスに釘付けになるのです。それは、主イエスが、この親の願いを聞き入れ、悪霊に向かって、ここでも、「いいかげんにしろ」と怒鳴りつけ、退散させているからです。

 ただ、そこで、一つの大きな問題が発生することになります。ダビデの系譜にある主イエスについては、なるほどそうかと納得もできるのですが、弟子たちはというと、どうでしょうか。こうして与えられている福音は、私たちがこの弟子たちから受け継いだものであり、つまり、私たち信仰者は、この場で不信仰と切って捨てられたと思える弟子たちの系譜に属するものだからです。ですから、この点をどう捉えればいいのかということですが、そこで、なるほど、と思うのか、それとも、えっ、どうしてと思うのか。ただ、不信仰というレッテルを貼られたままでいるわけにも参りません。そこで、ダビデのように、主イエスのようにという期待感がめらめらと燃え立つことにもなるのでしょう。けれども、子どもならいざ知らず、私たち大人が、そう単純に心の底から納得して、行動に移すことができるのでしょうか。

 私たちが立ち向かう相手は、時に、ゴリアトのように強大であり、また、悪霊のように、私たちの力など遙かに及ばない力を持っているのです。ですから、そうした大きな力をもつ者と自らとを比べた場合、自分自身が何と弱く、情けない者なのかと、そう思わざるをえないのが私たちでもあるのでしょう。ですから、そこで、この小ささ、弱さ、そのことに尻込みする卑しさなど、を見ていくと、勝利からはほど遠い、自分自身のネガティブな面ばかりをまざまざと見せつけられ、負のスパイラルに陥ってしますのです。では、そこで、私たちは、どうすればいいのか。自分ではどうすることもできないこの状況を、どうすれば乗り越え、改善することができるのか。そこで、私たちが求めるのは、勝利の方程式です。こうすればこうなる、ああすればそうなるということです。そして、あたかも、ここで、主イエスがそんな勝利の方程式を示してくださっているようにも思うのですが、それが、主イエスご自身の仰る「祈り」というものなのかもしれません。

 自らの不作為、その不明さを恥じた弟子たちが、密かに主イエスに「なぜ、私たちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と、こう尋ねたところ、この弟子たちに対し、主イエスは、こう答えられたそうです。「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と、こう断言されたというのですが、まさに、祈りこそがすべてを解決する最善の道であるということです。それゆえにまた、自らの力が及ばない出来事に遭遇したとき、私たちは、熱心に本気で祈るのです。祈りこそが、私たちに真実を示すと信じて、勝利を願い、祈るのです。そして、これは、本心として申し上げるのですが、私たちの祈りは必ず聞かれます。神様に届けられない祈りがない以上、その最善の道を神ご自身が私たちに示してくださるのは間違いのないことだからです。また、だから、祈ることが大切なのです。それも、一人祈るだけでなく、一人の祈りの課題は、私たちが神の家族である以上、私たち家族全体の課題でもあります。ですから、こうして集められている私たちが心を合わせ、心を尽くし、祈りの課題を分かち合うことが大事なのです。ただ、このことは、敢えて申すまでもなく、皆さんよくお分かりのことでもあるのでしょう。

 ただ、その祈りでありますが、私たちが熱心に本気で祈ることによって、私たちの願い通り、期待通りの答えが常に絶えず示されるわけではありません。なぜなら、ホップ、ステップ、ジャンプといった具合にならないことは、私たちの誰もが自らの経験として知っていることでもあるからです。従って、祈りは、勝利の方程式とはなりません。そして、それは、主イエスの歩みを見ても明らかです。主イエスは、ここでは、確かに悪霊に打ち勝つことができたのですが、けれども、結局は、十字架につき、非業の死を遂げることとなったわけです。しかも、その際、「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになられるのですか」と、主なる御神様を呪うがごとき言葉を吐き出しながら、なお、その死を我が身に引き受けねばならなかったのです。ですから、このことを考えますと、祈りが、常に私たちが願う答えを示す、その勝利の方程式などではないことは明らかです。ただ、そうであるとすれば、そこで私たちは、こう問いかけることになるのでしょう。「では、何のための信仰なのか。何のための祈りなのか」と。

 主イエスの御前に今集められている者はすべて、目の前にある主イエスに大きな期待を抱くものです。主イエスを取り囲む群衆、我が子の除霊とその回復を願う父親、そして、弟子たち、私たちも、主イエスを前にする者すべてが、主イエスになにがしかの大きな期待を抱いて、集まってきているのは明らかなことだからです。それゆえ、その私たちは、ここに記されている父親のように、主イエスに対し、「おできになるなら、私どもを憐れんでください」と、謙虚にこうお願いするのでしょう。無理なお願いをする者の一つのたしなみとして、そうすることが当然だからです。ところが、その主イエスは、切実なる願いをはき出すその父親に向かって、次のように言ったというのです。「できれば、というのか。信じる者には何でもできる」と。これはどういうことなのでしょうか。私たちの感覚からすると理解に苦しむところでもあります。けれども、主イエスは、きっぱりとそう強く仰った。このことは、熱に浮かれた私たちの心を覚ますだけでなく、一歩引いた気持ちを湧き起こすことにもなるのでしょう。ただ、そこで、一つ注意すべきところがあります。主イエスがこう強くご自分の気持ちを投げかけながらも、この父親を門前払いされてはいないということです。また、だから、この父親もすぐさまこう言ったわけです。「信じています。信仰のない私たちを助けてください」と。

 それゆえ、この父親の姿勢は、私たちの胸を打つところがあります。親というものは、そういうものかと思わされるところがあるからです。また、それに加えて、大きな気づきが与えられるのは、主イエスに対し、このように語る父親の姿勢の中に、私たちは、私たちの祈りの姿勢を見ることができるからです。私たちは、信仰があるから祈るのではなく、信仰がないから祈るのです。自らの不信仰への気づきが、この父親を主イエスに向かって祈る者へと変えたように、自分の気持ちだけ、との気づきが、私たちを主イエスへと向かわせるのです。では、気づく以前のこの父親、つまりは、主イエスに期待し、(へりくだ)りお願いする、目の開かれる以前の私たちは、主イエスの目から見れば、どういう者に見えていたのでしょうか。

 そこで主イエスの目に映った人々とは、主イエスに多くを期待しつつも、誰も主イエスの言葉を受け入れずにいた人々でもありました。それは、それまで、期待を裏切られてきたからです。そして、この父親の期待に応えきれずにいた主イエスの弟子たちもまた同じです。弟子たちが主イエスの期待に応えきることができなかったのは、裏切られたとの思いが強かったからであり、まただから、そんな自分自身に苛立ち、それゆえ、主イエスへの期待を、この父親同様、半減させるものでもあったのです。従って、この「できれば」との問いかけは、主イエスができないことを前提としたものであり、だから、それを見抜いた主イエスは、「信じる者には何でもできる」と仰ったのです。ただ、この主イエスの言葉は、私たちが期待するところとはまた違った観点に立ったもので、その傍らに立ち実感するものにしか分かるものではありません。そして、それが神様の御心であり、この御心を、その傍らに立つこの父親に、私たちに明らかにされたのが、主イエスというお方であったということです。つまり、主イエスの傍らに立つ私たちにとって、不信仰は問題ではなく、大なことは、私たちが、その不信仰を認めるところであるということです。

 自分の期待通りの結果を願わない者は、この世にはおりません。また、だから、人は祈るわけですし、自分にできないことを代わりにやってくれる存在に大きな期待をかけるのです。しかし、このことはまた、期待通りの結果をもたらしてくれるものであれば、主イエスでもいいし、それ以外のものでもいいということです。大事なことは、期待に応えてくれるかくれないか、ということであって、この方だけが、ということではないからです。そして、ここでのことが明らかにするところは、弟子たちがそうであったように、私たち主イエスの弟子である信仰者にも、そういうところがないのではなく、あるということです。また、だから、それに気づいた私たちは、祈り、自分の弱さを克服したい、そうしなければ、そうあらねばと、強く思うことにもなるのでしょう。けれども、そこで現されることは、この人だけが、というところの主イエスに対する拘り、信頼ではなく、自分自身への拘りです。ですから、そのような人々の祈りは、そうすることができるか、そうなることができるか、そう考える自分自身の拘りの強さであり、それが、祈りという体裁をとっているに過ぎないのでしょう。けれども、ここで主イエスが、信じる者には何でもできると仰っている祈りとは、そういうものではありません。

 祈りは、確かに祈る私たち自身の問題であるのは間違いありません。祈ろうと思わなければ、祈ることはありませんし、強制された祈りが祈りとはならないように、私たちが進んで祈りたいと思わなければ、祈るという行為自体が陳腐なものとなってしまうのも明らかです。それゆえ、祈りが祈りとされていくには、この父親のように、「信じます。信仰のない私をお助けください」という、この姿勢が大事なのですが、その場合、先ず分かっていなければならないことは、この父親が主イエスに対し、「信じます」と強く断言したように、祈るその相手が、どなたなのかをしっかりと見えていなければなりません。あの方でもこの方でも何でもいいから、という姿勢ではないということです。ですから、そういう意味で、幼子のごとくと言われていることは、よく分かります。幼子は、自分の親や大切な存在のことだけしかその目で追うことをしないからです。そして、次に大事な点は、「信仰のない私をお助けください」ということですが、このことは、自分自身の(いさお)しのない現実をしっかりと見つめるということです。ただ、このことはまた、自分を卑下して終わるだけのものではりません。しっかりとその目で見つめる方は、今の自分のことをよくよく理解してくださる方であり、この私の求めているものの答えを必ず与えてくださる方なのです。つまり、何かしてくれるから信じる、何かしてくれないから信じない、そういうことではなく、この私のことを一番分かってくださっている方が、目の前にある主イエスであり、この主イエスが、この私に必要なもののすべてを必ず与えてくださる、その主イエスの前に置かれているのが信じる私たちであるということです。ですから、それが「不信仰な私を助けてください」ということであり、それが、私たちの祈りの姿でもあるということです。

 従って、私たちのことを誰よりも一番よく分かってくださっているのが主イエスでもあるわけですから、私たちがどのような境遇に置かれようとも、私たち信仰者は、かわいそうな者でもなく、また、気の毒な者でもないということです。そして、また、そうであるからこそ、ここで厳しい言葉が主イエスによって投げかけられたとしても、私たちが、自分の(いさお)しのない姿、弱い姿、どんなに情けない姿を主の御前において曝すことがあっても、主イエスに覚えられているがゆえに私たちは、門前払いを食らうことなく、受け止めていただいている。この理解、この愛ゆえに、だから、私たちは、勝利に向かって歩み続けることができるのです。なぜなら、この勝利は、私たちにはすでに約束されたものでもあるからです。私は、このことを葬儀の度毎に思わされていますが、まただから、主イエスに覚えられ、目の前に開かれている勝利の扉に向かう私たちは、この一つの道を歩み続けなければならないのです。

 そして、それは、私たちにとって、勝ち負けの問題ではありません。私たちにとって大事なことは、備えられたこの道を歩み続けることであり、そのためにまた、弱く、愚かな私たちを神様が導いてくださっているということです。勝ったか負けたか、そのために、何をしなければならない、やらなければならない、そうすれば必ずこうなるこうならないということではなく、小さく弱いことを,私たちが自覚すればこそ、(へりくだ)り、慎み深い私たちは、すでにある、私たちの目の前にある神様の導きへの気づきが与えられることになるのです。ですから、私たちにとって大事なことは、何が何でも勝たねば、ということではなく、負けないということです。負けないと言うことは、場合によっては、逃げ出すことも許されているし、また、ここでのダビデのように、大胆に敵と立ち向かうということもありますが、負けずに続けること、歩み続けること、この続けるということの中で、私たちは、歩み続ける上での必要を手にすることになるのです。ただ、その中で、いろいろな思いに駆られるものでもありますが、まただから、そこで、神様が私たちのすべてを分かってくださっていることが、歩み続ける上での大きな力ともなるのです。ここに、私たちは、安心できるし、このことに信頼することができるということです。ですから、そのことをしっかりと心に刻み、最後にご一緒に祈りを合わせましょう。

祈り
 




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