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聖霊降臨節第10主日礼拝 説教 「民の祭司として」

日本基督教団藤沢教会 2018年7月22日

【旧約聖書】民数記         11章24~29節
【新約聖書】マルコによる福音書   9章33~41節

「民の祭司として」
 長く祈りに覚えて参りました3階等の改修工事がいよいよ始まりました。それゆえ、祈りの内に始められたこの度の出来事が、神様の御心であるのは間違いありません。ただ、それだけにまた、引き続き、私たちは、祈りを合わせる必要があるのでしょう。なぜなら、終わりまでを導かれるのは神様であり、また、そこで、その神様の御心を尋ねるべく祈り続けるからこそ、この度のことは、その御心ゆえに神様のさらなる祝福に与ることにもなるのです。もしかしたら、工事期間中のこれから二ヶ月、思いがけないことがあるやもしれません。それだけにまた、神様の御心に信頼してすべてをお任せし、ご一緒に祈りを合わせる必要があるのです。そうであればこそ、幻は幻のまま終わるのではなく、神様の御心が、御心としてその具体的な姿を現し、そこで、神様の御心を深く知った私たちは、教会としての新たな歩みへと共々に導かれることとなるのです。

 そこで、その点を踏まえながら、早速御言葉に聞いて参りたいと思いますが、ところで、そこで私たちが祈り求める神様の御心とは、どういうものなのでしょうか。先ず言えることは、人が私たちの思い通りに動くことがないように、私たちの思い通り、その期待通りに、必ずしも動いてくださらないのが私たちの神様でもあるということです。そして、その次に言えることは、この神様の御心を御心として受け止め、それを受け入れなければならないのが私たちであるということです。ただ、思い通りにならない方の御心を推し量ることは簡単なことではありません。けれども、たとえそうであっても、私たちは、それを理由に努力を怠るわけには参りません。なぜなら、信仰の持ち味とは、そういうところでこそ、その力を発揮するものだからです。

 そして、その場合の難しさは、私たちは神様ではないわけですから、私たちが間違いない、これが御心だと思ったことでも、それが間違いである場合があるということです。ですから、そこで、考え方、行動の修正が求められもするのですが、その場合に大事なことは、私たちが、そのような神様と私たち、神様の御心を余すところなく現されたイエス様と私たちとの関わりというものを、日頃からどう捉えているかということです。ですから、そのためにも、関わりを見つめる上での大きな障害となる様々な事柄、嫉妬などの類い、誰が一番でなければならないのかいった思い上がりなどとは、予め、距離を置く必要があるように思うのです。ただし、そうしたネガティブな感情は、自分だけで解決のつくことではありません。相手があることであり、それだけにまた、周囲を巻き込み、結果、全体としての進むべき方向を見誤らせることにもなるのです。それゆえ、今日のそれぞれの御言葉もまた、ねたみや高ぶりといった個人的な問題をコミュニティー全体の事柄として捉えているわけですが、それがこうした形で取り上げられているところに、この手の問題の難しさがあるようにも思います。それは、今日の旧約聖書の中にも現されているように、全体の問題として波及しかねないそうした個人的な問題が、善意の体裁を取ることがあり、一見するだけですと、正しい振る舞いのようにも思えるからです。

 それだけに、そうしたものと相対したときには、モーセのように毅然とした態度が求められもしましょうし、また、イエス様のような分かりやすい説明も必要なのでしょう。ただ、そこで、一つ、私たちには、気をつけなければならないことがあります。間違いを指摘し、糾弾するだけではダメだということです。なぜなら、善意と正義のぶつかり合いによって、何かいいものが生み出されることはなく、それが次へと繋がることもないからです。それゆえ、そのためにも、ねたみ、そねみで目を曇らせるのではなく、イエス様が「体の灯火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い」と仰るように、信仰による澄んだ目でもって、課題を共有する姿勢が求められもするのです。つまり、対話が大事だと言うことですが、信仰、御言葉、教会の持ち味といったものは、そういうところで力を発揮するものでもあるということです。ですから、そのためにも、澄んだ目が求められもするのです。

 では、どうすれば、妬み、妬みなどで濁った目を澄んだ目に変えることができるのか。どうすれば、淀みない心をもって物事と相対することができるのか。そこで、ヌンの子ヨシュア、イエス様の弟子たちのそれぞれのなしていることをやり玉に挙げるのが、一番分かりやすい解決方法だとも言えるのでしょう。ただ、先ほども申しましたように、今日の御言葉を見るならば、どうやらそれが一番の解決方法ではないようです。距離を置くことよりも、近づくこと、そして、その間に置かれた御心に問い、その御心に互いに触れ合うこと、それが大事だと、御言葉はそう語っているように思います。ですから、澄んだ目とは、私たちが嫌だと思う、あってはならないと思い込む、あるいは、このままでいいと思い込んでいるところで、その持ち味を発揮するものでもあるということです。

 そこで、ヨシュアのなしたこと、弟子たちがなしたことをもう一度振り返りたいのですが、そもそも、彼らの一体何がいけなかったのでしょうか。祈りをもって、少し視野を少し広く持つならば、必ずしも、それがそう単純なことでないことが分かります。確かに、ここに記されていることは、それぞれ思い違いをしているのは間違いないのでしょう。それゆえにまた、そうした思い違いをそのまま放置するなら、コミュニティー全体に深刻な影響を及ぼしかねないことにもなるのでしょう。神様ではなく、自らをすべての主とすることになるからです。ですから、何らかの手立てを講じる必要があるのですが、ただ、モーセとイエス様が語るように、そこで大切なことは、そのための方法論云々ではなく、もちろん、犯人捜しでもありません。誤った判断をなす人々と共にある私たちの信仰の旅路は、まだ終わったわけではなく、まだまだ先が長いのです。そうである以上、信仰の持ち味を生かしつつ、最後まで歩み続けるためにも、その視野を広く持ち、互いに御心に近づいていくこと、今日の御言葉が語るところは,この点であろうと思うのです。

 モーセに向かい、ヨシュアが「止めさせてください」と言ったことに対し、モーセが「あなたは私のことを思い」とこう返答しているのは、モーセの権威、さらには、コミュニティー全体の秩序が脅かされかねない状況が生じていたからです。そして、それは、弟子たちのコミュニティーについても同じです。弟子たちが「誰が一番か」ということを議論せずにはいられなかったのは、今日の御言葉の直前で、イエス様が我が身に起こるであろう十字架と復活の出来事を弟子たちに語ったからです。それゆえ、そのイエス様亡き後のコミュニティーのことを考えるなら、弟子たちが、組織の再編成を内々に考え始めたとしても不思議ではありません。むしろ、閉塞感が充満するその時、そう考えることの方がまっとうであるようにも思います。従って、ヨシュア、弟子たちのここでの振る舞いは、それぞれが神の民、神の群れとしての将来をしっかりと見据えていたからであり、だから、モーセもイエス様も、頭ごなしに怒るような真似はしていないのです。ですから、そのことを思えば、私たちは、ヨシュア、弟子たちのように、コミュニティーの将来についてきちんと考えなくてはならないのですが、その上で、学ぶべきところが、先ほど申し上げた信仰ゆえの持ち味であり、その持ち味がどういうところで、どういうふうにその力を発揮し、その先の見通しを立てることができるのかということです。

 イエス様は、そのことを弟子たちに伝えるために、一人の子どもを弟子たちの間に立たせ、抱き上げて、そして、そこで仰ったことが、「子どもを受け入れよ」ということでした。それは、神様を信じる持ち味、イエス様と共にあることの持ち味というものが、子どもを受け入れればこそ、子どもという存在を通して、その力を発揮し、その先の見通しもまた立つことになるからです。ただし、そもそも子どもを受け入れるということはどういうことなのでしょうか。このことはつまり、子どもと共に、私たちが毎日毎日を過ごさねばならないということですが、子どもというのは、私たち大人の思い通り、期待通りに動いてくれるものではありません。それは、みくに幼稚園のお母さんたちが、「夏休み始まっちゃったね」と、一学期の終わりにそう仰ったように、天使のような子どもたちが見る見る間に悪魔のように変わることがあるからです。しかし、そのいずれの姿も、私たちが受け入れるべき子どもの姿であり、その振れ幅の大きさに振り回されっぱなしなのが、子どもたちを受け入れ、共に日々暮らす私たち大人でもあるのです。

 私たち大人は、その子どもたちの成長を見守るだけでなく、その成長についての責任を負うものでもあります。それゆえ、その責任の重さから、閉塞感を募らせることにもなるのです。どうして、どうしてとついそう思ってしまうのは、そう思ってはいけない、そう考えてはいけないと日頃からそう思っているからです。ですから、閉塞感を膨らませていくのは、私たちが無責任でいい加減なものだからではなく、責任を深く自覚しているからです。子供たちの将来と子どもたちと共にあるコミュニティーの将来を真剣に受け止めているからこそ、私たちは、行き詰まりを感じてしまうことがあるということです。ヨシュア、弟子たちがその対応を誤ったのも、その責任の重さゆえに、閉塞感を募らせたからでもありましたが、それゆえ、それについては、当然、何らかの手立てを講じなければならないのですが、そこで、将来を見据えたヨシュア、弟子たちの取った行動がここに記されていることでもありました。ただ、私たちはどうでしょうか。

 最近、幼稚園、保育園の新設が住宅街でなかなか認められないということを時折耳にすることがありますが、閉塞感に包まれることをネガティブに受け止めるだけですと、そうした世間の対応も分からぬことではありません。余計な責任、負担は負いたくない、煩わしい思いはしたくない、そういうことです。従って、今がそういう時代である以上、幼稚園を併設する私たち藤沢教会も、今までが大丈夫だったからと言ったところで安閑とするわけにも参りません。私たち自身、現にこうして子どもを受け入れている以上、いつまでも昔のままでいられるということはないのでしょう。つまりは、こうして 子どもを受け入れると言うことは、私たち自身が変えられるということでもあり、ですから、ヨシュア、弟子たちがそうであったように、自分の考え、思いに拘り続けるのではなく、その先を見つめる上でも柔軟な対応がそこで求められるということです。そして、そもそも、その長い歴史において、常に変えられてきたのが教会というものでもあるわけですから、そうである以上、柔軟な対応というものは、どんな時にも求められるものだということです。従って、そういう意味では、臨機応変に現実的対応をするのが私たちでもあるのですが、ただし、それは、あくまで、神様の自由な御心によってということです。

 そして、この神様の自由な御心でありますが、それは、過ぎ去った過去にしがみつくことで知らされるものではありません。私たちが向かい行くその将来に向かって現されるものが神様の御心であり、この御心に実際に触れることが、将来に進み行く上で大事なことになってくるのです。ここでのことは、まさにそのことを私たちに教えてくれているように思います。そして、私たちの信仰の持ち味というものは、神様の御心が置かれたその現実をしっかりと見つめ、その柔軟な対応の中に現されるものであり、単純な過去の否定、現状の肯定といった頑なな態度において現されるものではありません。イエス様は、そのことを知らしめるために、子どもを受け入れよと私たちに仰ったのですが、では、そこで生じる避けることのできない閉塞感に押しつぶされないためにはどうすればいいのでしょうか。迎え入れた子どもたちと共に歩み続けるに加えて、もう一つは、そこで示される神様の御心に触れるという実体験です。つまり、聖なるものの実体験、触れ合いこそが、閉塞感に包まれた私たちに慰めを与えるのであり、それは、現に今私たちが受け入れている子どもたちのことを思えば明らかなことのように思います。

 子どもたちが、大人から見て思い通りにならず、期待通りに動くことがないのは、その未成熟さゆえのことでもありますが、またそうであるだけに、親との分離不安など、閉塞感を募らせた子どもたちは、その気持ちの悪さをあらゆる手段で訴え、解消しようとするのです。そして、その子どもたちが、突然天使と見紛うばかりに変わることがあるのですが、それは、子どもたちが幸福感に包まれたときです。ただし、その場合の幸福感とは、私たち大人が考え、願うものとは大きな違いがあります。私たち大人は、自分を中心に閉塞感を与える者との距離を置くことで、その解消を図ろうとする者なのかも知れませんが、子どもは違います。子どもが求めるものは、自分にとって、一番安心できるものとの触れ合いであって、閉塞感は、この安心が奪われた結果としてもたらされるものでもあるのです。つまり、子どもにとっての幸福とは、自分を大事に大事に育み守ってくれている存在、お父さんお母さんとの一体感であり、子どもが幸福感を覚え、天使のような様相を示すのは、安心できる関係性が回復されたそのときだということです。ですから、明日のことを思い悩む弟子たちに向かって、イエス様が「一番先になりたいものは、すべての後になり、すべての人に仕えるものになりなさい」と仰ったことは、嫉妬や高ぶりなど、まさに子供じみたことを平気で行うことのある私たちに対し、神様の御心に直に触れているイエス様のその実体験がそう言わしめたということです。

 ところで、皆さん、強いられた恩寵という言葉をご存じのことと思いますが、今、園児らの登園時間に顔を出し、一生懸命、子どもたちの顔と名前を覚えているのは、教会という組織の一員として、役員会からそう命じられたからです。ただ、もちろん、恐い顔をして命じられたわけではありません。私自身、他の役員の皆さんと同じようにその必要性を感じたからであり、それは、現状を踏まえた議論、対話の中から示されたものでもありました。ですから、子どもについて今申し上げたことは、そうした中で恵みとして与えられたものでもありますが、まさに、子どもたちからイエス様がここで最も伝えたいと思うその御心を、子どもと関わり、接することの中で、私は教えてもらったように思うのです。ですから、神様とイエス様との一体感、この聖なる方とのふれあいこそが、大人になりきれない者の成長を促す大きな力であるのは間違いように思います。そして、この神様とイエス様と触れ合いでありますが、それは、私たちの旅路の終わりまで、今もそうですし、これからもそうです。こうして途絶えることなく続けられていくものが、この神様とイエス様との触れ合いであり、それがあるからこそ、もう嫌だと投げ出したくなるその時も、聖なる方との一体感によって、私たちは、まさに子どものように慰められ、癒やされ、主が共にある幸いを肌身で感じ、将来に向かって、子どもをこうして迎え入れている私たちだからこそ、まさに子供のように安心して進み行くことができるのです。

 そこで、子どもたちから時折言われるその言葉を最後にご紹介して、今日の話を終わりたいと思います。みくに幼稚園の子供たちは、毎朝顔を出す隣のおじさんのような私に向かって、こう言ってくれるのです。「牧師先生、大好き!」と言って、そして、手を大きく広げて抱きついてくれるのです。それはとてもうれしいことでありますし、隣のおじさんのような私が子どもたちにそうしてもらってうれしいわけですから、きっと、私たちが大きく手を広げ、「イエス様大好き、神様大好き」とそう言って、イエス様に抱きつくなら、その時、私たちのそれまで感じていたであろうすべてのわだかまり、閉塞感は、一気に解消し、私たちは、まさに幼子のように満面の笑みを湛えながら、家や地域、学校や職場に戻り、その信仰の持ち味を遺憾なく発揮することになるのでしょう。ですから、もう一度、「イエス様大好き、神様大好き」と心の中で大きな声で叫び、新たな一巡りの歩みを始める私たちでありたいと思います。祈りましょう。

祈り
 



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