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聖霊降臨節第11主日礼拝 説教 「味わい豊かに」

日本基督教団藤沢教会 2018年7月29日

【旧約聖書】申命記         10章12節~11章1節
【新約聖書】マルコによる福音書   9章42~50節

「味わい豊かに」
 私たちの信仰とは何か、そんなことを考えさせられた数日間でありました。それは、3週間前に味わったあの後味の悪さを再び味わうことになったからであり、また、後悔と慚愧の念をもって死ぬことになったオウムの彼らと私とが、ほぼ同時代を生きる者でもあったからです。特に、彼らと私とでは、その求めたところは違っても、一つの道を歩み出したというところでは同じです。それゆえ、私の場合、出会ったところが、たまたま良かったということにもなるのでしょうが、けれども、その最初の一歩を踏み出す以前においては、彼らと私とでは、多くのところで重なり合うものでもありました。それだけにまた、単純に彼らが悪かったというところで片付けることが、どうしても、私にはできないのです。そして、それは、私と彼らが、ということだけではないようにも思います。

 生き辛さを感じる人々の多くが思うことは、そこで感じるであろう気持ちの悪さを取り除くことです。刑に服した彼らも、その点においては同じでした。けれども、彼らと私たちとでは明らかな違いがあります。私たちも、また世の多くの人々も、自分はそうあってはならないと言うところを彼らのように譲ることはなかったからです。それゆえ、彼らのやったことは、絶対に許されることではなく、自らのその命をもってしてもなお、償いきれないものが残されたままなのは明らかです。ただ、それがどんなに醜く忌まわしいものであっても、譲れないとの思いは、彼らにもあったわけで、その用い方を誤ったその彼らと、あるところまで同じように歩んできたのが、私たちでもあるのです。そこで、そんな彼らと私たちとを遠いというところからではなく、近いというところからもう一度考えるなら、彼らと私たちとの違いとは、一体何なのでしょうか。

 いかなる信仰が与えられようとも、世の人々も私たちも、同じように生き辛さを感じながら、毎日を過ごしているのは間違いありません。けれども、刑に服すことになった彼らは違いました。 彼らには、修行と称するものを通し、達成感、充実感がありました。そして、あの忌まわしい、醜い出来事のすべてが、その延長線上に置かれているものでもありました。ただ、彼らが求め、実際に手にしたと思っていたものがまやかしであったことは、すでに言われている通りのところでもあります。けれども、生きづらさを抱えたまま生きる私たちも、彼らと同じように、自らが納得の行く答えを探し求めないわけではありません。けれども、多くの場合、そうした試みは、そのほとんどが失敗に終わるものです。そこで、真剣に、今すぐに、この生きづらさを解消したいと思う人は、期待した結果が得られないときには、次の何かに期待し、行動を起こすことにもなるのでしょう。また、それほどでもない人は、年に一度、初詣に行くくらいのところで、ことを納めようとするのでしょう。けれども、私たちはというと、次に行くこともしませんし、自分の都合に合ったものを探し歩くこともありません。ここから一歩も動くことはなく、こうして与えられた信仰にじっと留まり続けている、それが私たちでもあるのです。ですから、そうした人々と私たちとの違いは、この同じところ、つまり、それが、主の御心、主が示された一つの道ということでもありますが、この同じところに立ち、主と共に歩み続けているのが、主の教会に生きる私たちキリスト者だということです。ただ、動かないという点では、オウムの彼らも同じでした。

 そんな中で、私たちは、揺れ動くし、行き詰まりを感じるし、どうしてとの苛立ちを募らせることもあるのです。けれども、彼らは、違いました。そうしたものを克服せねば、何とかせねばと考え、そして、行き着いた先が、二十年前のあの忌まわしい出来事でもあったのです。けれども、そうした揺れ動く思いを抱えつつも、なお変わらずに同じところに立ち、御心に委ね、これだけはできないとの思いを抱えたまま、2000年のこの方変わらずに歩み続けてきたのが、私たちなのです。それゆえ、御言葉は、そんな私たちの信仰をこう語ります。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と。このことはつまり、私たちが、同じところに立ち続けているのは、この望むべき事柄、まだ見ぬ終わりの日から今を見つめているからであり、まだ見ぬその将来がこの今に続いていることを信じるがゆえに、私たちは、この終わりに向かい、歩みを続けることができるのです。

 従って、私たちの信仰の正しさとは、これまでの歴史だけが証明するものではありません。御言葉が語るところの終わりを目指す私たちの歩みそのものが、この終わりを見つめるからこそ間違ってはいないということです。だから、私たちは、違うことは違うとはっきりと口にしつつも、オウムの彼らのような真似はしない、いや、できないのです。それは、私たちが終わりから今のこの時を見つめているからであり、この終わりとはすなわち、神の国に入るということ、そして、このことを誰よりも強く願っているのが、私たちの神様であり、イエス様であるということです。ただ、それについては、主イエスがここで「両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい」とこう仰っているように、必ずしも、私たちの願いどおり、思い通りになるものではありません。けれども、この神の国に辿り着くことこそが、私たちの信仰の目的であり、それゆえ、この終わりから一切を見つめるなら、私たちが求めるものは、そこから自ずと与えられることにもなるのです。正しさとは、そういうものだからです。

 ですから、この終わりから現実のすべてを見つめるなら、私たちが、今この時の判断を見誤ることはありません。主イエスが、くどいくらいにそのことを繰り返し語るのは、その主イエスもまた終わりから今を見つめているからであり、それゆえ、主イエスのその御言葉は正しいと言えるのです。ただ、主イエスは、私たちの信仰の目的を語ると同時に、ここでは、もう一つのことを語ります。それが、地獄ということであり、そして、この地獄に至る道が、私たちの目の前には、まだ閉ざされてはいないということです。それゆえにまた、今日の主イエスの言葉が、皆さんの心にどのように響くのかと思うのです。

 道から外れること、信仰から離れること、それが、私たちの地獄行きと直結しているとしたら、主イエスの言葉は、もしかしたら皆さんにネガティブな印象を与えるのではないでしょうか。また、「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない」と、主イエスがこう仰っていることから、地獄ほど恐ろしいところはないとのイメージを強くしていってはいないでしょうか。まただからこそ、主イエスは、ここで、地獄に陥らないための道筋を示してくださっているのですが、けれども、その言い回しが、私たちの感覚からすると余りにもずれた印象を与えることから、分かりにくさの理由となっているということはないでしょうか。さらに、この分かりにくさと、そして、地獄がまだ閉ざされていないというところが合わさって、天国への道が自分には閉ざされていると、そう思わせるところがないでしょうか。そして、困ったことに、教会は、かつて、人々を信仰に縛り付けるために、そんな人々の恐怖心を利用するということがありました。そして、もしかしたら、そうしたことは、私たちが知らないところで、今もどこかで、同じようなこと、似たようなことが行われているのかも知れません。それどころか、私たちが、罰当たり、不信仰という言葉を用いて、人を押さえつけることがあるように、そうしたことは、私たちの身近なところで、いつも起こっていることなのかも知れません。

 そして、こうしたことは、私たちに限ったことではありません。そういう意味で、ある人々にとっては、地獄というものが、必ずしも不都合なものとばかりは言えず、天国と地獄とがワンセットで対比して語られることが多いのは、そのためです。そして、それは、今も申しましたように、私たちも例外ではありません。地獄に対して天国、天国に対して地獄と、善悪二元論のように一方を是とし、一方を非とするところから、天国と地獄を理解しているところがあるからです。そして、それは、主イエスの同時代に生きた人々も同じでした。主イエスが、この地獄に対し、命に与る、つまり、命に入る、神の国に入るということを繰り返し語るように、主イエスと同時代の人々にとって、地獄というものは、私たち以上に身近で、より具体的なものであったからです。それだけにまた、地獄への恐怖心は強く、避けるべきもの、忌むべきものとの考えを強くしていったわけです。特に、戒め、教え、定めなど、律法を厳格に守るよう命じられていたユダヤの人々にとっては、なおのことでした。

 律法を守ることの目的の一つとして、モーセは幸いを得ることだと語ります。それゆえ、これをしていれば、これさえすればとの思いを強くしていった人々にとって、そこから外れることは、幸いが遠ざかることでもあったからです。けれども、それゆえにまた、人々のそうした思いの強さが、神様の愛の現れである律法とは反対の方向に向かわせ、その結果、主イエスが生きたその時代全体を覆うこととなったのです。それは、ここで主イエスが弟子たちをたしなめているように、弟子たちのその姿からも分かります。それは、横道に逸れてはいけない、道を踏み外してはいけないといった、人々の幸せを求めるその思いの強さゆえの窮屈さです。

 今日の旧約聖書においても語られているように、幸いを得るためには、主イエスが指摘する小さき者への配慮のなさは、当然改めなければなりません。それは、神の国には、この小さき者も含め、すべての者が神様によって招かれているからです。ところが、真面目な彼らが、そのことゆえに、人に躓きを与えてしまっている。時代を包んでいたものは、皮肉とも言えるこの現実でもありましたが、私たちもまた、弟子たちと同じこの現実に立ち、同じようにこの御言葉を聞いているわけです。それは、何とも言えない話ではありますが、ただ、その私たちに、主イエスは、さらに追い打ちをかけるように個々でのことを語るのです。ですから、それを聞かされている私たちからすると、そこで、こう思うに違いありません。主イエスも、同じように、小さき私たちを躓かせているじゃないかと。それゆえ、不慣れな人にとっては、本来いいものであるはずの信仰は、余計に怖いもの、忌まわしいものと感じさせもするのでしょう。

 ただ、問題は、アレルギー反応を示す人たちよりも、主イエスの弟子である私たちの方です。主イエスのこのお言葉を主イエスのすぐ近くで聞いている私たちも、言葉に出さずとも、主イエスのその言葉遣いの中に暗いものを感じてしまっているからです。それゆえ、有無を言わせない主イエスのやり方に、不遜であることを弁えつつも、私たちは、苛立ちを募らせることになるのです。しかし、私たちがそう思うであろうことは、主イエスもご存じでありました。では、主イエスが私たちをしてそう思わせるのは、どうしてなのでしょうか。それは、主イエスもまた、そうした暗い時代状況の中を私たちと共に歩んでおられるからです。まただからこそ、この暗さに一石を投じようとしたのが主イエスでもありましたが、それは、暗さに対しての明るさ、明るさに対しての暗さといった、どちらが上でどちらが下かといった、そういう比較の問題として、何かを語ろうとしているからではありません。主イエスが語るところは、比較の問題ではなく、神の現実に生きるそのまま姿であり、暗いこの世の現実、その時代状況といったものが、神様の明るい現実の支配にあることを率直にただ伝えようとされているだけなのです。

 私たちが主イエスと共に生きるこの世の現実は、私たちから見れば、ただ暗いだけのものであるのかもしれません。けれども、主イエスが語る神様の現実の明るさは、それとはまったく繋がりのない別物でもあるのです。暗いものは、ただただ暗く、それゆえ、この暗さの中でしか物事を見ることのできない私たちは、私たちと同じ地平に立つ主イエスの言葉にすら暗さを感じてしまうのです。それは、この暗さの中で神様の働きを感じることができないからであり、また、働きがあることを知りつつも、神様にすべてを任せきることができず、自分の思い通りにすべてを作り上げようとするからです。まただから、自分で何とかせねば、解決しなければと思う多くの人たちは、その結果、あれとこれとを比べ、これはダメ、これはいいとの判断を下し、ダメだと思うもの、いらないと思うものをポイポイとゴミ箱に捨てるような真似をしてしまうのです。そして、そのように不都合なものを何でも捨て去ることのできる場所が、地獄というところであり、つまり、地獄とは、そういう意味で、恐ろしいだけでなく、私たち人間にとって都合のいいものでもあるのです。だから、その使い勝手の良さゆえに、時に人に利用され、人を欺き、人をこの地獄へと追いやり、また、自分自身をも貶め、破滅を迎えることにもなるのです。

 それゆえ、地獄とは、私たちの置かれたこの世の暗い現実の裏返しのものだとも言えるのでしょう。けれども、この暗さの中に独り子である主イエスをお遣わしになったのが私たちの神様であり、それゆえ、神の支配が及ばないと思い込んでいたこの世界は、神様のご支配の中に置かれていることが明らかにされたわけです。ですから、このことを経験として知っているのが私たち信仰者でもあるのですが、ただ、私たちが、主イエスの言葉にすら暗いものを感じてしまうように、この暗さは、まだこの世界から完全に取り除かれたわけではありません。そのため、時にこの経験が生かされず、私たちもまた、その気持ちを右に左に大きく揺れ動かすことになるのです。けれども、だからこそまた、 そこで、私たちは、忘れてはならないのです。それは、神様の明るい現実を届けてくださった主イエスが私たちと共にいます以上、天国の扉は、私たちの前には閉ざされてはおらず、開かれているということです。なぜなら、そこに何としても導こうとされているのが、私たちの主イエス・キリストでもあるからです。

 従って、主イエスのここでの乱暴とも思える言い回しは、その覚悟の現れとも言えるのでしょうが、ただ、それ以上に、私たちが見つめるべきことは、主イエスが、ここでそうまで仰るように、事実として、暗いものではなく明るい神様との交わりの中に置かれているのが、この世界に生きる私たちでもあるということです。そして、それは、聖書における神様の第一声が、「光あれ」というこの一言であったように、この神様の明るさの中に造られ、置かれているがゆえのことであり、そのことを、この世の暗い現実に私たちと同じように身を置きながらはっきりと語ってくれているのが、私たちの主イエス・キリストというお方なのです。そして、それが、今日の主イエスの最後の御言葉、つまりは、「そして、互いに平和に過ごしなさい」というこのことですが、この言葉の中に現されているように思います。

 主イエスが語る「平和」とはつまり、神様の創造の秩序に覆われた状態のことであり、そのことを互いに味わうことが許されているのが、主イエスとこの世界に生きる私たちでもあるということです。だから、暗さばかりに目を奪われる私たちは、その暗さを感じつつも、この世界は明るいと信じることができるのです。ですから、今日のこの御言葉は、この神様の明るさ、私たちが思い込み、感じる暗さではなく、主イエスと共にある神様の明るさの中で聞いていくなら、主イエスのお言葉は、また違った意味合いで私たちの心に響くことにもなるのです。

 神の創造の秩序の許に置かれているこの世界にあって、主イエスは、互いに平和に過ごすために、自分自身の内に塩を持ちなさいと語ります。塩は、腐敗を防ぐだけでなく、汚れから私たちを遠ざけるものでもありますが、ここでは、その塩が、地獄と言われているものとの繋がりの中で語られているのです。このことはつまり、極論すれば、私たちが自分自身の内側に抱え込むべきものとは、地獄ということです。それゆえに、私たち信仰者は、地獄を正面から見つめることができるし、また、そこに安心して留まることができるのです。そして、主イエスが、このような逆説的な言い回しをしているのは、こうして信仰が与えられているとはいえ、私たちが地獄を避けようとするあまり、この地獄を自分の都合のいいように用いようとするからです。天国の対極に地獄を置くのはそのためであり、けれども、主イエスは、神の国の対極に置くことはありません。神の国は、人が考える神のご支配の及ばないところではなく、神のご支配の許に置かれ、たとえ私たちが、この地獄と称するものの中に置かれようとも、主イエスを信じる私たちには、信じるがゆえに、開かれた天の御国の扉を通し、神様の御心が届けられているのです。なぜなら、この地獄と称するものの中にも、私たちは、主イエスと出会い、その声を聞き、そして、その先に向かって歩み続けることができるからです。従って、暗い現実の中にあって、この明るさの中に置かれているのが私たちであり、そして、この明るさに導かれ、その命は育まれ、耕され、そして、その先に備えられているものが神の国だということです。それゆえ、この塩を自らの内にもう一度確かめ、新たな一歩を踏み出す私たちでありたいと思います。祈りましょう。

祈り
 



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