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聖霊降臨節第15主日[平和月間]礼拝
  説教 「そこに愛はあるのか?」

日本基督教団藤沢教会 2018年8月26日







説教
鈴木 みどり 牧師
(前 茅ヶ崎教会副牧師)
【旧約聖書】詩編 62編2~3節
2  わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。
  神にわたしの救いはある。
3  神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。
  わたしは決して動揺しない。

【新約聖書】コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章27節~13章13節
 12:27あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。28神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。29皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。30皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。31あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。

 そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。13:1たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。2たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。3全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。4愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。5礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。6不義を喜ばず、真実を喜ぶ。7すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。8愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、9わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。10完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。11幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。12わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。13それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。


「そこに愛はあるのか?」
● コリントの人たちの状況
 聖書というのは、神様が、人間である私たちに宛てて書かれた、大いなるラブレターです。人間を造った父なる神様が、造られた者である人間に送ったメッセージです。本日の新約聖書の箇所の特に13章のところは「愛の賛歌」と言われる有名な箇所で、教会で結婚式をする際に、よく読まれる有名な箇所です。なのでもしかしたら今日が初めての礼拝出席の方も、どなたかの結婚式に出席されたことがあれば、触れたことのある箇所かも知れません。あるいはご自分の結婚式の時もここの箇所だった、という方もおられるでしょう。

 今日の箇所は長いので、すべてを網羅して細かくお話しすることはできませんが、この手紙の著者である使徒パウロが、この「愛の賛歌」を、コリントの信徒たちに書かねばならなかった理由というのが、30節から13章の2節までのところに集約されている、と言ってもよいと思います。30節でパウロは、
皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。
と書いているのですが、実はこの手紙の宛先の、コリント教会の信徒の人々は、霊的な恵みをやたら豊かに受けた人たちで、どうやら、祈りによって病気が癒されたり、異言という、知性ではわからない霊の言葉を語ることができたり、その異言を普通の言葉に通訳する力のある信徒たちが、たくさん教会の中にいたようなのです。

 それだけなら「よかったですね」で済む話なのですが、彼らは、あまりにもそうした霊的な技に恵まれ過ぎたために、まあ人間の常ですけれども、すっかり驕り高ぶってしまって、今風に言えば、「俺たちやべー!めっちゃビョーキ治せる!医者いらねー」みたいなことになってしまい、教会の秩序がすっかり混乱してしまったのです。

● 一部分であること
 教会の真のリーダーは、牧師でも役員さんでも一部の信徒リーダーでもなく、イエス様なのです。イエス・キリストこそが、教会の頭です。27節でもパウロが、
あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。
と言っていますが、教会はキリストの体であり、私たち信徒や教師はそれぞれ一部分なのだということを、忘れてはいけません。

 逆に言えば、全部一人で背負わなくてよいのです。全部ちゃんとできなくていいのです。教会に繋がって、もうだいぶ長い時間が経った方は、ついつい奉仕を一生懸命にしすぎてしまって、「奉仕疲れ」みたいなことになって燃え尽きてしまうような事も時にあるかと思います。会社は、全部なんでもちゃんとできないと割と怒られる所だったり、ボーナスの査定に関わると思うと、無理だと思っても「できません」とはなかなか言えない所ですが、教会という共同体で、神様の仕事をする我々は、できないところは、それができる賜物のある他の人に、やってもらえばいいのです。そうすることが赦されているのですから、安心してください。むしろ、全部一人でやってはいけないのです。
 自分が部分に過ぎない、という認識は、謙遜さを生みます。牧師とて同じです。牧師という仕事も本当に忙しくて、つい色々な仕事を自分で抱えがちになってしまうのですが、信徒さんたちに振れるところは振って、信徒さんたちの賜物を生かして、協力して教会を建て上げていくというのは、とても大事なことだと思います。黒田先生はきちんとそれが出来ておられるからこそ、工事中でも安心してみなさんに教会の一週間を委ねられて、ちゃんと夏休みを取ることがお出来になるわけで、藤沢教会は健全な教会ですね。しかもこうして大切な講壇を、私のようなペーペー牧師に預けてくださるわけですから、実に感謝なことです。

 先日、浜名湖の方まで行きまして、オーストラリアで爆発的に成長したヒルソングチャーチが、日本で初めてリーダーズセミナーをするというので、教師や信徒リーダー対象のセミナーに丸一日参加してきたのですが、非常に興味深かったのは、彼らの絶妙なバランス感覚でした。
 ヒルソングチャーチは、ユナイテッドというワーシップバンドが世界的に有名で、皆さんの中にもCDなど持っておられる方もいらっしゃると思いますが、「叫べ全地よShout to the Lord」とか「To the ends of the Earth」などのポピュラーなワーシップソングも、ヒルソングから生まれた曲です。その日も夜はライブワーシップがあったので、2時間ほど参加者みんなでお腹の底から賛美して、全部英語でしたが、古めかしい日本語よりはまだ意味がわかって気持ちが乗るので、喜びに満たされました。
 実はヒルソングもコリントの教会と同じで、聖霊の働きを非常に大切にしますから、牧師が何かを感じた人には「主がこう言われます」といっていきなり預言をしたりもするのです。けれども、そうした霊的な働きと同時に彼らは、非常に現実的な教会の運営にも目が開かれていて、初めて来た方への対応の仕方も駐車場係から訓練したり、次なる奉仕リーダーを育てる現実的なシステムもきちんと構築されていたり、あらゆる数字をカウントして統計的な分析もしながら、極めて現実的なことにもきちんと誠実に向き合って、霊的な盛り上がりだけに溺れることなく、より健全なキリストの体である教会を建て上げようと、聖霊の導きに従いつつ、必死に努力していることがよくわかりました。日本の教会、特に私たち教団の教会も、いい加減「どげんかせんといかん」という状態であることは、みなさまも薄々感じておられる通りです。

● もっと大きな賜物=愛=神
 とにかくコリントの教会は、「チコちゃん」ではなく「パウロさんに叱られる」ほどの、混乱状態にありました。それでパウロは、31 節で、
あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。
と言ったのです。
 この「賜物」というのは英語で言えばGiftですが、原語ですと実はみなさまよくご存じの「あの人はカリスマ性がある」とか言う時の、「カリスマ」という言葉です。
 では、それを受けるように私たちが熱心に努めるべき「もっと大きなカリスマ」とは何でしょうか。パウロは13章の初めで、まず、その「もっと大きなカリスマ」を受けなかった場合のことを言います。1節から3節、
1たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。2たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
3全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない
というわけで、私たちが受けるべき「もっと大きなカリスマ」というのはつまり、「愛」です。たとえどんなに優れた預言をしようとも、どんなに異言を語ろうとも、山をも動かすほどの完全な信仰があっても、たとえどんなに善い行いをしようとも、愛がなければ意味が無い、ということです。因みに3節の「誇ろうとして」とか「死」という言葉は原語にはないので、「焼かれるために我が身を引き渡そうとも」と訳した方がよいようですが、その答えは年末に出る新しい聖書を楽しみに待ちましょう。

 そしてここからパウロは、その愛とはいかなるものかという例を列挙していくのです。ちなみに、「愛」を表す言葉は日本語では「愛」、英語では「Love」しかありませんが、ここで使われている原語の「愛」は、すべて「アガペー」という言葉で、神の愛、無償の愛、を表す言葉が使われていることを念頭に置いてください。
 高校生の方々のために聖書科の夏休みの宿題のトピックとして申し上げておきますと、日本語や英語と違って、新約聖書が書かれた原語のギリシア語には、「愛」を表す言葉が何種類かありまして、アガペーの他に、フィロスという兄弟愛や友愛を表す言葉もあり、またエロスというのは聞いたことがあるでしょう、これは肉体的な愛、本能的な愛を表します。また、親子の愛を表すストルゲという言葉もあります。
 ですから、先ほどこの13章の箇所は結婚式で読まれると申しましたが、実はここで言われている愛を、普通の人間愛や結婚するカップル同士のレベルの愛としてとらえてしまうと、本当の意味が分からなくなってしまうのです。4節からもう一度読んでみましょう。
4愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。5礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。6不義(正しくないこと)を喜ばず、真実を喜ぶ。7すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。8愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、9わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。
10完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。
 これらはどこまでも、神の愛、無償の愛のことを言っています。
 剣道、柔道、茶道、華道、…色々な道がありますが、究極の愛の道を説くのが聖書でありキリスト教であると言っても過言ではないと私は考えます。以前茅ヶ崎教会におりました時に月報にも書いたので、ホームページでお読みになった方もおられるかも知れませんが、私は聖書の教えは「愛道あいどう」、とか、まあ「らぶどお」と呼んでもよいのですが、要するに、お茶の道を突き詰める茶道のように、愛の道を突き詰める道、ということですが、そういうものだと思うのです。パウロも31節の後半で、この愛というカリスマを受けるのが、最高の道だと言っています。
 ですからここで、もう一つ確認していただきたい別の聖句がありまして、それは私がそのように考える理由ともなった大切な箇所でもあります。愛とはなんであるか、ということなのですが、ヨハネの手紙には実はこう書かれているのです。そのまま眠りに入らない自信のある方は、目を閉じて、少し聴いてください。
ヨハネの手紙一 4:7愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。
8愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです
 少し飛んで、
4:16わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。
 また少し飛んで、
4:18愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。
19わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです
 もうお気づきでしょう。「神は愛」なのです。言い換えれば、「神はアガペー」なのです。逆に言えば「愛は神」「アガペーは神」なのです。ですから、13章で「愛は」と、愛が主語になっているところは、「神は」と置き換えて考えることができますし、私たちが受けるべき「もっと大きなカリスマ」というのも、「愛」だけではなくて、「神様」とも受け取れるわけです。そう読みますと、神の愛がどれだけ計り知れないものなのか、ということがうっすら見えて来ます。
 しかもそれは、今お読みしたように、私たちが愛するより先に、私たちを愛してくださった愛です。その神の愛とは、私たちが信じる前から、私たちの救いのために十字架で命を投げ出してくださった、無償の愛です。そして三日目に復活されて、今も生きておられる完全な愛です。死に打ち勝った究極の愛、アガペーなのです。
 そのように考えますと、不完全な私たちが、完全なる神さまという愛の中に生かされているのだということが、浮き彫りにされてくるのではないでしょうか。

 この解釈が乱暴だとは、私は思いません。なぜならパウロも最後の13節で、
信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
と断言しているからです。これは私たちが記憶しておくべき非常に大切なことです。

 聖書は、「この世には終わりがある、そしてその時にはイエスキリストがまた来る」、と教えていますので、その終わりの時が来るとどうなるか、ということが何度も語られるのですが、10節で、
完全なものが来たときには、
とパウロが言ったのも、そのイエス様がまた来る終わりの時のことを指しています。そして13節でもパウロは、終わりの時が来たら、信仰と希望と愛以外のものは滅び去るのだ、と言っているのです。信仰と希望と愛しか、永遠に残るものはないのだ、ということです。そしてその中で最も偉大なのは愛、つまりは当然神様、言い換えればイエス様なのだというわけです。(因みに、この13節の最初の それゆえ という接続詞は、しかしながら、と訳した方が意味が通る気がします)

● そこに愛はあるのか?
 さて今日の説教題は、最後に「い」をつけて、「かい?」にしますと、その昔、福山雅治さんが俳優としてブレイクした頃の、「ひとつ屋根の下」というドラマで、江口洋介さん演じる「あんちゃん」がよく口にした決めぜりふになるのですが、自分が主任の教会ではないので、下の看板に「そこに愛はあるのかい?」とそのまま書いていただく勇気はさすがにございませんで、「い」は付けませんでした。(笑)
 しかし、これが本日みなさまと分かち合い、この一週間、共に噛み締めて歩みたいメッセージなのです。察しのよい方はもうお気づきのように、これはつまり、「そこに神はいるのか?」という意味でもありますし、「そこに神の愛はあるのか?」でも構いません。とにかく何かする時に、この合言葉で自分の言動をチェックしてみるという新しいチェック機能を、今日から作動させていただきたいのです。
 聖書に書いてあることは、絵に描いた餅ではダメで、実践しなければ意味がありません。でもそう言うと、恐らく私たちはみんな、怖じ気づくのです。「神様じゃないんだからそんな完璧な愛なんか実践できるわけがない」、と。
 でも、何度も言いますが、神は愛で、愛は神です。ならばイエスを主と信じ受け入れた人の中にはもう既に神の愛が宿っているはずなのです。でもお金をいくら持っていても、使わなくては効力を発揮しないように、私たちの中に宿ってくださった神の愛を、発動させなければ意味がありません。イエス様が既に完了してくださったので、私たちが人のために十字架にかかる必要はもうありませんが、それでも、自分の今の発言や行動は、その神の無償の愛を表しているか? そこに愛はあるのか? ただの自己弁護や自己保身、あるいはコリントの人々のような自己満足に陥ってはいないか? 本当は誰かに言ってあげるべきことを、自分が嫌われることを恐れて、スルーしてしまったことはなかったか? 逆に言いすぎて、うるさいシンバルになってはいないか?…それくらいはとりあえず自分でも気づいて改善できるかも知れません。
 また、まだ神様の愛を受け取っていない方は、まずは、イエス様の十字架の死が、あなたにも永遠の命を与えるための愛だったことを信じ、受け入れるだけでよいのです。
 そして、信じていようと信じてなかろうと、すべての人類が、まず先に父なる神様から愛され、造られた者であることを、私たち全員、忘れずにいましょう。その神の愛の中から迷い出ない限り、どんな失敗も赦され、どんな弱さも受け入れられていることを、ダビデのように固く信じましょう。そのダビデが歌った詩編が、この62編の箇所です。
 わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。
 神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない。
祈りましょう。
 愛であられる、天の父なる神様、あなたの御名を誉め讃えます。
 今日も私たち一人一人に、あなたの限りない愛を注いで下さる恵みを感謝いたします。どうか、今ここに、まだイエス様をわが主と信じられずにいる方がおられるなら、聖霊なる神様がどうぞ豊かに働いてくださり、信仰へとお導きください。
 また、信仰と希望と愛だけが永遠に残るものであることを私たち一人ひとりが改めて深く認識することができますように。
この藤沢教会もさらに神様の愛に満たされ、群れのお一人お一人が、おとなも子どもも皆キリストの愛の香りを放ちながら、ダビデのようにくじけない信仰をもって堅く歩むことができますように。
 それぞれの日々の一歩一歩を、霊も肉も、どうか力強くお支えください。病気や困難や悲しみの中にある方にはどうぞ癒しと励ましを豊かに注いでください。
 また、ただ今恵みによって執り行われております会堂の改築も、完成まで引き続き全てを守り導いてくださり、必要の全てを満たしてください。
 この群れに誠心誠意お仕えしておられる黒田直人牧師とまたそのご家族を、ことさらに顧みて下さり、霊肉共に、力強くお支えください。この藤沢の地において、あなたの御名が高らかにほめたたえられ、御国が来ますように。聖霊なる神様がお導きください。
 今お一人お一人の心にある祈りと合わせ、この祈り、私たちの救い主、イエス・キリストの御名によって、御前にお献げいたします。アーメン





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