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聖霊降臨節第16主日礼拝 説教 「神殿の中に見えるもの」

日本基督教団藤沢教会 2018年9月2日

【旧約聖書】列王記上      21章 1~16節
【新約聖書】マルコによる福音書 12章35~44節

「神殿の中に見えるもの」
 先週は、休暇をいただき、家内と二人で他の教会の礼拝に出席しましたが、主の日の恵みを思う存分味わう中で、一つの気づきが与えられました。それは、場所を異にしたとしても、その日に受けた主よりの恵みは、藤沢教会と切り離されたものではなかったということです。なぜなら、神様の恵みは、一つの明確な脈絡の中で与えられるものであり、私が皆さんとご一緒にここにこうして生き、ここで神様の恵みを受ければこそのものだからです。ですから、これは、昨日もみくにの集いに訪れた子どもたちに言ったことですが、それゆえ、神様の良き御心は、昔の楽しかった思い出の中だけにあるのではありません。すべては、神様の御心の中に置かれているがゆえのものであり、だから、神様の御心の中に置かれ、将来へと向かい歩む私たちには、必ず神様からのいいものが備えられるのです。従って、この神様に、私たちが安心して我が身を預け、すべてをお任せすることができるのは、それゆえのことであり、このことを、我が家である藤沢教会からちょっと離れることで、改めて、知らされたように思います。

 そして、私だけでなく、このように神様の良き御心の中に置かれているのが私たちであるわけですが、ただ、この御心の中には、私のようにいい加減な者もいれば、そうではない方々もいるわけです。それゆえ、教会というところは、玉石混淆、雑多で多様な人々の集まりだとも言えるのですが、けれども、それにも関わらず、私たちが等しく神様から恵みを受けることができるのはどうしてなのか。それは、イエス様ゆえに一つにされているからです。ですから、私たちが恵みを受けているのは、この一つであると言うところに最も大きな意味があるわけで、そして、この一つであるということの意味とその姿を明らかにしてくれいているのが、今日のそれぞれの御言葉であるように思います。

 ですから、ここでの私たちの課題は、見たいところ、目につくところだけを見ることではありません。全体を見て、この一つであることの意味、その姿を知る必要があるのです。そして、そのための手助けとして与えられているものが、この貧しい寡婦の振る舞いなのですが、それは、イエス様が、律法学者ではなく、貧しい寡婦について特に強調して語っているように、この寡婦と同じ立場に置かれているのが、イエス様に特別に目をかけて頂いている私たちだからです。ですから、私たちは、それと同じことをどうしたら同じようにできるのか、そのことを考えないわけには参りません。では、そのためには、どうすればいいのか。それぞれに記されていることすべてが、神様のはっきりとした御心の中に置かれているわけですから、寡婦だけを見るわけには参りません。すべてを神様の御心の中に置いて、そこから聞いていくことが大事なのです。

 ただ、そのことを念頭に置きながら、御言葉に聞いていくとき、そこで、私たちの目に飛び込んでくることは、私たちが見たくはないことばかりです。愛の宗教と言われているキリスト教の伝統に立つなら、それは、明らかなことだからです。旧約聖書に記されていることはもちろんのこと、新約聖書に記されていることも、イエス様が、「律法学者に気をつけなさい」と仰るように、それが、私たちに求められ、また、求める姿ではありません。寡婦以外の人々はすべて、自分のことだけしか考えず、しかも、自分にとっての損か得かしかその目には映ってはいません。けれども、この貧しい寡婦だけは違いました。そのため、どうしてもこの貧しい寡婦のことばかりに目が向かってしまうわけです。「この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである」と、イエス様が仰るように、自分のこと、その日の暮らしのことなど、そうしたことに一切構わず、後先考えずに持てるすべてを献げ尽くしたのが、この貧しい寡婦であったからです。そして、世の人々が教会に抱くイメージも、このように見返りを求めない寡婦の姿だと思いますが、世の人々が、このように教会の伝える愛がいかなるものであるのかを知っているのは、私たちの信仰が、この貧しい寡婦の大胆さよって現され、それがしっかりと伝わっているからです。

 それゆえ、この愛の宗教を信じ、この日こうしてそれぞれの御言葉に聞いている私たちは、この貧しい寡婦のイメージと自らを重ね合わせないわけにはいかないのですが、ところで、では、いかがでしょうか。御言葉で語られているところの全体を見渡し、聞いていこうとするとき、皆さんは、どの人物と自分自身とを重ね合わせることができるのでしょうか。この貧しい寡婦でしょうか。それとも、イズレエルの人ナボトでしょうか。また、イスラエルの王アハブ、その妻イゼベルでしょうか。あるいは、長い衣をまとい、広場で挨拶されること、会堂で上席に座り、また宴会では上座に座ることを望む、寡婦の家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする、この律法学者と言われている人たちでしょうか。これ見よがしにたくさんの献金をしているお金持ちの人たちでしょうか。皆さんは、ここに記されているどういう人と自分自身とを重ね合わせることができるでしょうか。

 私は、今日、ガウンを着ているので、今日の私のいでたちからすれば、そんな私を見て、子どもなら、きっと、「あっ、律法学者」だと、そう指さすことでしょう。けれども、もちろん、私は自分自身がそうだとは思ってはおりません。しかし、もしかしたら、そう思っていないのは自分だけで、人からはそう思われているということがあるのかもしれません。ですから、そのことに気がつかされ、そこで、つまらないことなどせずに献金しろとお叱りを受けたとしたなら、返す言葉もありません。けれども、言われるがままにその通りのことをしたからといって、自分が、この貧しい寡婦と同じだと、果たして、どれだけ自信を持って言葉にできるだろうかとも思うのです。なぜなら、寡婦と同じであるということは、やらされた感たっぷりで何かをすることでもなく、また、人目を気にしつつ、どうだと言わんばかりに何かをすることでもないからです。もっと素直で素朴なものであり、斜に構えてすることではありません。でも、やらないと、そうはなれないわけですし、けれども、恐る恐る、怖々(こわごわ)するだけでは意味がない、そのようにも思うのです。ですから、私の場合は、非常に中途半端で、ここに記されているそのどれでもない、そんなふうに思うと、とてもいたたまれない気持ちにもなるのですが、さて、皆さんは、いかがでしょうか。

 青年会時代のある修養会でのことでした。ちょうど、その時の主題の一つが、この貧しい寡婦の話であったのですが、その時、仲間の一人が言ったことは、この寡婦のようになろうとしてなれない自分自身の中途半端さでありました。ですから、その中途半端さを克服しなければならないと、そう強く訴え、それに対し、多くの仲間が肯くものでもありました。そして、私も、その中の一人でありました。ただ、こうしてその時のことを思い起こしつつ御言葉に聞き、その中途半端さを克服できたかと言えば、その当時とほとんど変わらないのが正直なところであるように思います。では、それにしても、そうした中途半端さは、一体どこから出てくるものなのでしょうか。

 私たちの力には限りがあり、そして、その多くが、生活能力が格別に高いわけではありません。けれども、それでも生活をしていかなければならず、そして、そうした中で、あれこれとやりくりすることに汲々としているのが、私たちの多くであろうと思います。ですから、余裕のなさという点では、私たちとこの貧しい寡婦との違いは、余り大きくはないように思うのです。けれども、この寡婦のように、私たちは、一日の生業によって、そこで手にする六十四分一が、やっとのところ、精一杯なわけではありません。従って、中途半端さの原因は、私たちの能力の問題というよりも、やはりやる気の問題だと言えるのでしょう。では、私たちが態度を決めかねるのはどうしてなのか。それは、精一杯というところが分かりにくいからです。それゆえ、私たちは、そうしたどっちつかずのところを行ったり来たりすることになり、結果、ますます悩みを深めることになるのです。

 そこで、この悩みを解消すべく、聖書を懸命に読むのですが、ただ、そうした聖書の読み方によって、私たちの悩みが解消されるわけではありません。それどころか、ますます大きくなっていくことにもなるのです。それは、福音書に限らず、聖書に記されていることのすべてが、私たちの都合に合わせてはくれないからです。しかも、それについて、御言葉は、言い逃れすらさせてくれないのです。ですから、青年会時代、かつて、私の仲間の一人が、聖書は自分にとっての悩みの種だと正直に語ったことがありましたが、ただ、その時、彼が口にしたことは、聖書だけが、ということではありませんでした。聖書の御言葉に加えて、教会生活そのものが、同じように悩みの種となっていると、そう語ってくれたことを思い出しますが、しかし、そう感じているのは、その当時の仲間だけではないように思います。

 私たちが生きるこの世界には、苦しみがあり、悲しみがあり、さらには、人間の残酷で醜い一面が、私たちの苦しみや悲しみをますます大きくすることにもなるのです。そして、聖書は、そういう私たちの置かれた現実を隠すことなく、そのままを伝えてくれているのですが、ですから、もしかしたら、教会の中から外へと見え隠れすることは、まさに、今日の御言葉のそのままの姿であるのかもしれません。そして、それが、もしその通りだとしたら、それがそのまま私たちの中途半端さとつながっているとも言えるのでしょう。それゆえにまた、そうした問題を取り除くことができないところに、私たちの悩みは深まることにもなるのです。従って、そのように見え隠れするものが、私たちそのものであるのかもしれませんが、もしそうであるとすれば、私たちの信仰は、人から後ろ指さされるだけのものとなるのでしょう。また、だから、私たちは、ますます悩みを深めることにもなるのでしょうが、けれども、その教会の姿を通して、世の人々は、教会が伝えた愛のなんたるかを知ったのです。それは、そのような中に、貧しい寡婦のように、後ろを振り返ることなく、神様を信じた方がいたからなのですが、けれども、それは、ここに記されているように、ほんの一握りの人でありました。それだけにまた、そのほんの一握りの人の振る舞いが、際立った形で世に伝えられたとも言えるのですが、では、そのほんの一握りの人が、そのような大胆な行動をとることができたのはどうしてだったのでしょうか。

 貧しい寡婦の行いは、小さな小さなものであり、イエス様以外の誰も気にも留めることのないことでした。それゆえ、普通に考えれば、この小さな振る舞いが、世の中で注目されることはありません。けれども、イエス様だけは、このことに心を止められたのです。従って、この寡婦の行いの中に、私たちが求め、見つめるべき答えがあるように思います。そして、それは、この貧しい寡婦の姿が示すように、難しいことではありません。神様に喜ばれることだけを考え、喜んで神様の求めに従えばいいわけです。それは、私たちの神様が、すべてをお委ねしていいし、お任せすることができるお方であるからです。それを知っているか知っていないか、ただそれだけのことであり、そして、それを知っているのが教会に生きる私たちであり、私たちが、それを知らされているのは、この貧しい寡婦と同じように、主イエスの御心の中に置かれ、イエス様と一つとされているからです。

 教会の中から外へと向かって見え隠れするものが、時に、今日の御言葉の中に記されたままのように感じられることが、もしかしたら、現実としてあるのかもしれません。そして、私たちも、私たちが置かれている現実をそのようにしか思えないことがあり、それゆえ、私たちの中途半端さは、もしかしたら、そうしたところに起因しているとも言えるのでしょう。ただ、イエス様は、そうした中で、この貧しい寡婦のこの小さな行いを見逃しませんでした。それは、それぞれが繋がりあって造られているこの世の現実にあって、イエス様が、ここに記されていることのすべてをその御心の中に置いていたからです。寡婦の姿が際立って見えるのはそのためであり、つまり、自分がどれほど小さなものであったとしても、自分が何者であり、自分にはどのような恵みが備えられているのか、そのことを知り、感じ、そして、それを形に表したのが、この貧しい寡婦であったということです。

 それゆえにまた、この人のここでの行動は、この時だけに限ったことではなかったのでしょう。たとえ、この世界が偽りと暴力によって死の奈落に沈み込むようなことがあったとしても、この人だけは、変わることはありません。それは、すべてのことが、神様の御心の中にあることを知っているからです。そして、それは、私たちも同じです。私たちがどんなに中途半端であっても、どんなに悩み多くても、どんなに絶望に捕らわれるようなことがあっても、イエス様ゆえに一つとされている私たちは、神様の御心の中に置かれ、恵みの中に明日を迎えることが許されている、それが分かっているのが私たちなのです。だから、この貧しい寡婦のように、私たちもまた、その同じ姿をもって、神様とイエス様の御心を信じ、信頼し、我が身を委ねることができるのです。主にすべてを委ね、喜びの中に明日を迎える私たちでありたいと思います。祈りましょう。

祈り




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