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聖霊降臨節第17主日礼拝 説教 「結んで、開いて」

日本基督教団藤沢教会 2018年9月9日

【旧約聖書】申命記       15章1~11節
【新約聖書】マルコによる福音書 14章1~  9節

「結んで、開いて」
 9月に入り、朝晩、窓を開けることが多くなって参りましたが、そこで思うことは、窓から吹き込む心地よい風は、窓を開ければこそのものだということです。そして、今日のそれぞれの御言葉において語られていることも、同様のことであるように思います。申命記15章で、「心を頑なにしない」、「手を大きく開きなさい」と、「心を開き、目を開き、手を開く」といったことが繰り返し語られているように、神様と隣人に対し、心、目、そして、手を開くことなければ、私たちが、いいものを手にすることはないからです。そして、それは、4節で、「あなたの神、主は、あなたに嗣業として与える土地において、必ずあなたを祝福される」とあるように、開けばこそ、神様と共にある私たちは、神様の祝福を受け、大きな喜びに満たされることになるからです。ですから、そういう意味で、隣人、つまり、顔の見える人々、こうして神様からの恵みを分かち合い、共に暮らす人々のことですが、そうした人々に対して、私たちは、常に心と目、そして、その手を開く用意がなされていなければならないのですが、ただ、それが、こうして、戒め、掟として語られているのは、それが、とても難しいからです。なぜなら、開くことは、多くを与えられると同時に、時に、多くを奪われるものでもあるからです

 それゆえ、開くことよりも、固く閉じられている方が、人間にとっては、都合のいいことなのかもしれません。閉じられたままであれば、管理しやすく、気分を害することもなく、また、損することもないからです。そして、それは、個人的なことだけに限ったことではなく、家族、地域、職場、国家などの共同体についても、同様のことが言えます。開くことは、利益ばかりでなく、無秩序、混乱などの原因となるものが、もたらされることもあるからです。国家間のことで言えば、経済然り、防衛然り、防疫然り、さらには、日本ではそうした状況にありませんが、ヨーロッパ諸国、EUでは、流入する移民によって二分する状況にあります。そして、それは、ヨーロッパだけでなく、アメリカと中国の貿易摩擦を見てもそうですし、世界中が、協調から孤立、対立へと向かいつつある昨今の世界情勢を見て行くと、これは皮肉なことだとは思うのですが、様々な国々が開かれていった結果として、そうした事態が生じているということです。さらに、私たちにとって身近なものでもある、教会についても、同様なことが言えます。

 世間には、キリスト教の教会という看板を掲げているものは、五万とあるのですが、そこで、よく言われていることは、教会という看板を掲げているだけでは、それが本当に教会かどうか分からないということです。つまり、カルトまがいの教会と称する集団がいて、外から眺めているだけでは分かりにくいということです。ただ、そうした人々もそこに籠もって、外に出てこなければ、私たちも、その人たちと自分とは違うと、そう言っていればすむだけの話です。けれども、これは、カルト問題に詳しい方から聞いたことですが、最近は、そうしたカルトまがいの教会が、その信徒を集団で私たちのような教会に送り込み、乗っ取りのようなことまでが起こっているそうです。だから、うかうかしていてはならないということなのでしょうが、じゃあ、どうすればいいのか。人を見たら泥棒と思えと言わんばかりに、新来会者をうさん臭そうに眺め、その素性を確かめればいいのでしょうか。それとも、門を固く閉ざして、素性がしっかりしている人、気に入った人だけを招きさえすればいいのでしょうか。ただ、それでは、伝道が進むわけもありませんし、そもそも、そうした閉じた姿勢によって、教会が形作られることもありません。私たちに求められていることは、あくまで、開かれた姿勢を保つことだからです。

 けれども、だから、どうぞ、どうぞ、いらしてください。何でも好きにしていいですよというわけにも参りません。私たちにもしきたりがあり、やり方があるからです。ましてや、突然現れた者に好き勝手に振る舞われて、それを喜んで見ていることなどできるはずもないからです。ただ、世間でよく言われるように、あなたの常識は、世間の非常識など言われることがあります。慣れすぎてしまっていると、これは、私にも身に覚えのあることですが、自分自身を見失うことがあるからです。ですから、そうならないためにも、教会も私たちも、外に向かって開かれた姿勢を保たなければならないのですが、ただ、その場合、開く開かない、変わる変わらないということをいくら口にしたところで、それで何かが変わることはありません。開くことも、変わることも、理屈の上でのことではなく、様々なリスクが伴う、現実そのものでもあるからです。

 ですから、そこでもし、私たちが動き出そうとするなら、そのリスクをしっかりと見極める必要がありますし、何より、腰が引けてしまう私たちの気持ちをすべて分かった上で、その背中を押し、支えてもらうことが大事なのだと思います。そして、そのために与えられているものが、私たちにとっての御言葉であり、ここでは、それが、貧しい人々のことを忘れずにその人たちのために何かをするということが言われているわけです。それは、富める者も貧しい者も、共々に神の家族、神様の恵みを受け、分かち合い生きる者だからです。ですから、そう考えるなら、申命記で言われていることは、特別なことではなく、当たり前のことだと言えるのでしょう。だって、そうだと思いませんか。負債というと、ああお金のことか、ということにもなりますが、もっと普通に考えれば、こういうことだと思います。誰だって、恩に着せられ、負い目を負わしたり負わされたりして、そして、そういうことが家族の中で当たり前になったとしたら、それで気持ちよくみんなが毎日を過ごすことができるでしょうか。また、もし、親の見ていないところで、自分の子どもたちが、途方に暮れている一人のことをまったく見向きもしないとしたら、それでいくら兄弟同士がごたごたせずに毎日を過ごしていたとして、それを平安な暮らしと呼べるでしょうか。ですから、そういう意味で、申命記で求められていることは、家族であれば、特別なことではありません。けれども、それが、兄弟間の新たな火種となって、現れているわけで、それが、ナルドの香油と言われている高価な香油を惜しみなく主イエスに注いだ一人の女性の振る舞いであったのです。このように、開かれるということは、こちらを立てれば、あちらが立たず、という状況をもたらすことがあるのです。

 ここでのことは、弟子たちが、主イエスの招きに素直に応え、従ったことを思えば、弟子たちが、御言葉を素直に受け止めたゆえのことであり、それゆえ、何だよ、この人は、と、そう思ったのも不思議ではありません。むしろ、御言葉に照らせば、弟子たちの言い分の方が、分があるようにも思うのです。けれども、そうした弟子たちの振る舞い、つまり、神の家族としてイスラエルの伝統に生きようとしている弟子たちに対し、神の子であるイエス様は、ここで否定的な評価を下すのです。しかし、イエス様がそのように仰っているのは、イスラエルの伝統に生きる弟子たちの言動そのものを否定したいからではありません。7節で「貧しい人々はいつもあなた方と一緒に居るから、したいときに良いことをしてやれる」とあるように、イエス様にも、弟子たちがどうしてそんなことを言っているのかは、はっきりと分かっていたからです。

 イエス様は、弟子たちの言動、さらには、弟子たちが従った律法そのものを否定されたわけではありません。では、弟子たちの何が問題であったのか。問題と言うと、弟子たちの何が悪かったのかと言うことにもなりますが、イエス様は、ここで、弟子たちが悪かったとは仰ってはおりません。このことはつまり、イエス様の頭に高価な香油をかけたというこの一人の女性の取った行動、それは弟子たちにとっては、意味不明の振る舞いに思えることでもありましたが、けれども、「この人はできる限りのことをした」「世界中どこでも、福音が述べ伝えられるところでは、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」と、イエス様がそう仰っておられるように、そのことを、イエス様だけは、無意味なことではなく、実は意味あることだと考えた。つまり、ここに心、目、そして、私たちが後生大事に握りしめているものを置くこと、開くこと、それが、弟子たち、私たちに求められていることだということです。

 そこで、この一人の女性のなした行為の意味を私たちは考えるのですが、それについて、イエス様は、こう仰っております。「前もって、私の体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」と。そして、この出来事があったのが、イエス様の十字架の出来事の2日前であり、まただから、御言葉も、祭司長、律法学者たちがイエス様のことを殺そうと考えいていた、と語るわけですが、つまり、私たちが自分自身にしがみついているものを置くべきところ、その心、目を開くべきところ、それは、イエス様の十字架だということです。そして、そうすることの意味については、私たちにはよく分かっていることです。私たちの救い、解放、こうして生きていることに意味を与えるもの、それが私たちにとってのイエス様の十字架であるからです。

 けれども、この十字架は、弟子たちがそうであったように、始めからそのすべてが分かっているわけではありません。それどころか、十字架と復活の出来事が伝えるその全貌については、終末が未だ訪れてはいない以上、すべてが明らかにされたわけではないのです。それゆえ、私たち人間が、イエス様の十字架の死のそのままを見つめるとき、その死は、どこまでも忌まわしいものであり、それだけに、その前に立ち続けることは、自らの汚れ、この世の汚れ、さらには、それを克服できずにいる私たち人間の限界、そのことを如実に現すことにもなるのです。しかし、この十字架の前に立ち続けることを、主イエスは、あえて私たちに求めるのです。弟子たちに向かい、「なぜ、この人を困らせるのか」と,イエス様が仰るように、この女性と同じことを、十字架の前に立つ私たちに求めるのです。それは、十字架の前に立つ私たちにとって、十字架と復活の出来事を理解するためには、分かることが大事なことではなく、分からないこと、問い続けること、十字架に向かって、その心、その目、その手をただ開くこと、そして、そこに自らを置くこと、それが重要であり、だから、主イエスは、それを私たちに求めるのです。

 ただ、この十字架の前に身を置くことはまた、その全貌を知らされていない私たちにとっては、混乱の原因となります。十字架の全貌を掴み取ろうとする自らに破れるしかなく、そのため、分からないとの思いを募らせるしかないからです。そして、それは、十字架が、普通に眺めているだけでは、忌まわしく、汚れたものとしか見えないからでもありますが、従って、十字架の前に立つ私たちに求められていることは、十字架が清らかだと、分かったようなことを口にすることでもなければ、もちろん、十字架を磨き上げ、きれいにすることでもありません。十字架の前に身を置くことは、人間である私たちには、どこまでも、無駄なことであり、無意味としか思えないことなのです。ですから、そのことを私たちが自分自身で意味づけようとすることは、それこそ、無駄な悪あがきするに過ぎないことなのです。けれども、だからこそ、それに付き合うことが大切なのです。付き合うからこそ、そこで明らかになるのが、十字架の意味であり、また、だから、主イエスも、この無駄で無意味な振る舞いをなした女性のことを賞賛したのです。この女性がなしたことを、主イエスが、「世界中のどこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」と仰ったのは、そういうことでもありました。

 けれども、だから、それでその全貌がすべて明らかにされるということではありません。「語り伝えられるだろう」と、イエス様が仰ったように、それは語り伝えられることもあれば、語り伝えられないこともあるからです。つまり、分かることもあれば、分からないこともあるということです。けれども、だからこそ、この女性のなした、無駄で無意味だとも思える振る舞いが大事なのです。なぜなら、私たちにとっては忌まわしく汚れたものでしかない十字架は、そこに立つからこそのものでもあるからです。その前に立てばこそ、人はまた、主イエスの十字架の計り知れない可能性を知ることになるからです。

 十字架を見据え、無駄で無意味としか思えないこの女性の振る舞いを、ここで主イエスが賞賛したように、主の十字架は、クリエイティブなものなのです。だから、救いを求める私たちは救われるのであり、抑圧に苦しむ人々に開放と自由をもたらすことになるのです。そして、私たちがそのことを知るのは、人の目には、「無駄で無意味」としか思えない、この十字架の上に立つからであり、まただから、私たちは、神様のこの恵みに満たされることになるのです。ただ、こう申し上げて、皆さん、分かったような分からないような心持ちにさせられているように思いますが、私は、それを、主日礼拝に先立ち行われた早朝礼拝において、知らされたように思います。それは、つまりはこういうことです。

 ありがとうと言えないとき、ありがとうと言いたくないとき、それどころか、もっと口汚い言葉を吐き出し、神様に恨み辛みをはき出しそうになるとき、十字架の上に立つ私たちは、自分がどこに立っているかが分かっていれば、どんなに口汚い言葉を吐いたとしても、自ずと、次の言葉を口にできると言うことです。それは、ありがとうという言葉、ごめんなさいという言葉です。このことはつまり、汚れた、そして、忌まわしくもある主の十字架の上に私たちが立つとき、その時、十字架について、私たちが無駄で無意味だと思ってもいいということです。けれども、そこに立てばこそ、十字架の創造性、可能性ゆえに、ありがとう、ごめんなさい、と言うその言葉が、私たちのその口から素直についてくることになるのです。そのことを私は、主日礼拝に先立つ早朝礼拝において改めて知らされたのですが、つまり、それが、こうして十字架の上にすでに立っている私たちであると言うことです。意味を問い、正しさを求める私たちは、自らの思いや考えをもって、その答えを導き出そうとするのですが、十字架の上にこそ、私たちの求めるその答え、その正しさが置かれているのです。ですから、私たちは、堂々と、そして、喜んで、無駄で無意味としか思えない十字架の上に立てばいいし、また立てばこそ、主の御前へと、私たちは、進み行くことが許されるのです。つまり、それが、こうして礼拝を献げる私たちであると言うことです。祈りましょう。

祈り




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