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世界聖餐日・世界宣教の日 主日礼拝
  説教 「主イエスの言葉から始めよう」

日本基督教団藤沢教会 2018年10月7日

【旧約聖書】ダニエル書       3章13~26節
【新約聖書】マルコによる福音書 14章53~65節

「主イエスの言葉から始めよう」
 世界聖餐日のこの日、私たちは、世界中の主にある兄弟姉妹と共に主の恵みを分かち合い、主の温もりを感じるものでありますが、ところで、1936年にアメリカの長老教会で始まったこの試みが、当初目指したところとは、一体何だったのでしょうか。敗戦直後の1946年、昭和21年に日本で始まったことからも分かるように、単純に言えば、人と人とが仲良く暮らすこと、それが、この試みの最大の目的であったということです。つまり、神様に似せて造られた私たち人間が、互いにその尊厳を冒すことなく、平和で豊かな生活を共にすること、そのことを願い、主に執り成し、始められたものが、この世界聖餐日であったということです。しかし、ご存じのように、その当初の目的は、必ずしも果たされたわけではありません。それは、依然として、人と人とが仲良く暮らすことができずにいるからです。それゆえ、今日のそれぞれの御言葉は、裏切りと不信、独善と傲慢、弁解と自己保身によってでしか生き得ない私たち人間に向かって、神様の真の平安に与る上での道筋を示してくれているように思います。そして、その道筋とはつまり、今日の説教題として記したように、「主イエスの言葉から始める」ということであり、つまりは、主イエスにも人にも、そして、もちろん、神様にも、私たちがその心を閉ざさないということです。なぜなら、この日の御言葉は、私たちの心を常に主イエスと、主がその御心を置かれた人々とに、その心を開くべく、今日のそれぞれの出来事を伝えているからです。ただし、ここに記されていることは、私たち人間の心の有り様にただ訴えるに留まるものではありません。

 十字架の直後の週の初めの日、すなわち、主イエスが復活なさった日曜日のことですが、ヨハネによる福音書によれば、その日、自らを裏切った弟子たちに向かって、復活の主イエスが仰ったことは、「あなたがたに平和があるように」というこの一言でした。そして、主がそのように仰ったのは、弟子たちとの関わりを決して断たれることがないからです。従って、そうである以上、心を閉ざさず、関わりをも断たず、主に倣い、「あなた方に平和があるように」と、自ら進んで主の幸いを世界中の人々に告げ知らせるのが、こうして御言葉に聞く私たちの使命でもあります。そして、私たちがその使命に生きることができるのは、御言葉に聞くだけでなく、聖餐という主の命に与り、主の命そのものを生きる者だからです。だから、私たちは、私たちがこうして生きている現実が、たとえ私たちの目にどのように映り、その心にどのように響こうとも、主と共にしっかりと物事を見つめているがゆえに私たちは、主への感謝の言葉をもって、御言葉にふさわしく生きることができるのです。たとえどんなに、人と人との間に溝があり、わだかまりがあり、憎しみがあろうとも、そこで、心を痛めつつも、人と人との間に立って主イエスに執り成し、愛に生きることができるのです。それが、こうして主の御言葉に聞く私たちでもあるのです。

 それゆえ、私たちは、主の平和を築くべく、あらゆる関係性を見つめ、主の御言葉から新たな一歩を踏み出すことになるのです。ですから、それだけにまた、御言葉と聖餐は、私たちが私たちであるために欠かすことのできないものとなります。そこで、皆さんに一つお尋ねしたいのですが、聖餐の度に私たちが聞いている日本基督教団礼拝式文では、御言葉に聞きつつ主の聖餐に与る私たちに向かって、なんと語りかけるのでしょうか。皆さん、覚えておられますか。その序詞のところでは、こう語りかけられています。「ふさわしくないままに主のパンを食べ、主の杯を飲むことがないよう、自分を確かめ聖餐に与りましょう」と。このことはつまり、私たちが聖餐の恵みに与る上で先ず問われることは、そのふさわしさであるということです。そこで、もう一つ皆さんにお尋ねしたいのですが、では、そこで語られているふさわしさとは、一体どういうものなのでしょうか。

 そこで、今日のそれぞれのみ言葉に聞きつつ、そのことを考えると、聖餐の際に私たちに求められているふさわしさとはつまり、バビロニアの王ネブカドネツァル、ユダヤ教指導者の対極の立場に身を置くということでもあるのでしょう。けれども、私たちが彼らのように振る舞うことは、まずありません。彼らのような地位も力も、私たちにはないからです。従って、そうしたくとも、そもそも端からできるはずもないのが私たちなのですが、けれども、なのにどうして、私たちは、そのように「ふさわしさ」を問われ、胸を張って、主をまっすぐに見つめることができないのでしょうか。そのわけは、様々言えるように思いますが、そこで、私たちが、自分自身、ふさわしくないと思ってしまうのは、弟子たちがそうであったように、主に心を閉ざし、主と共にある交わりに背を向けた経験があるからです。また、それだけではありません。主にある交わりにこうして生きていながらも、自分のことばかりに心を砕くことの多い私たちは、互いの関係性を大切にし合い、他者に対して配慮することが少ないのを知っているからです。つまり、大小の違いはあれど、御言葉が批判的に扱うここに登場する人々と、大差ないのが、私たちであるからです。

 ですから、世界聖餐日のこの日、御言葉が、ここに登場する人々と私たちとを重ね合わせ、主の御前に立つ上でのふさわしさを問うているのは間違いありません。大祭司はじめ、ユダヤ教指導者たちが、主イエスという、神様が与えられた恵み、その新しさを拒んでいるように、慣れ親しんだものに拘り、自らの殻に閉じこもることの多いのが私たちだからです。それは、変えられることよりもそのままでいることを、また、前向きにと言いながらも、後ずさりし、過去にしがみつくことを、無意識の内に、生理的に本能的に、それこそ、主の言葉に対してさえ、拒否反応を示すことがあるのが私たちだからです。それゆえ、私たちには、ここでのユダヤ教指導者たちの姿を、自分とは違うといって、見下す資格はありません。むしろ、ここに記されている人々の姿を、自分と重ね合わせ、積極的に受け止めるべきなのです。けれども、ユダヤ教指導者たちが、そこで様々な理屈をつけ、正論を吐き、主イエスを責め立てているように、主イエスの新しさに生きることは、私たちにとっては、どこまでも生理的本能的拒否反応、抵抗感を持ってしまうものでもあります。それは、ある意味で痛いし、苦しいし、辛いことだからです。そこで、ここで批判的に取り上げられている人々の姿をこう考えることはできないでしょうか。

 ここで批判的に取り上げられている人たちは、自分自身の思いや考えに拘り、そう言う自分自身にしがみつくことでしか生きられない人々であるということです。それは、主イエスの新しさを受け入れ、主の恵みに向かって新たな一歩を踏み出すことよりも、現状のままでいる方が安心できるからです。ですから、理屈にもならない理屈をまくし立てる彼らを見ていて分かることは、彼らが、本当にイエス様のことが嫌だったんだな、ということです。そして、そのように、主イエスに対する生理的拒否反応を彼らが示すのは、変えられること、変わること、今のままでいられないことへの恐れと不安、もっと言えば、ここに記されていることは、自分自身にしがみつくしかない人と悲しさ、切なさ、この自分ではどうすることもできない人間としての弱さであり、愚かさであり、醜さです。主イエスの十字架の出来事を前にして、彼らが隠しておきたいと思うその本性が明らかにされているということです。それゆえ、それだけにまた、私たちは、主のふさわしさを身につける必要がありますし、ふさわしくあるように、主の御言葉から新たに歩み始めなければならないのです。ところが、それを知っている私たちが、ふさわしさを問われると、下をうつむくしかないのは、どうしてなのでしょうか。ならば、十字架は、救いようもない私たちの姿をただ明らかにするだけなのでしょうか。もちろん、そうではない。ならば、どうすれば、私たちは、ふさわしく、堂々と、主の御前に立つことができるのでしょうか。

 そこで、皆さんにもう一つお尋ねしたいのですが、私たちは、主の御前に立つ上での「ふさわしさ」を誤解しているということはないでしょうか。主の御前に立つことのふさわしさを「身綺麗である」ことのように思っているところはないでしょうか。ただ、もちろん、だから、身綺麗でなくていいということではありません。世間から見向きもされないような姿を、主が喜ばれようはずもないからです。けれども、だから、自分で身を整え、身綺麗でなければならない、それが、「ふさわしくある」ことの必要条件かというと、そうではありません。そこで、主イエスがここで仰った一言、主がたった一言語ったその言葉に注目したいのですが、主はこう仰っています。

 主イエスは、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と問う大祭司に向かって、「そうです」ときっぱりとそう答え、そして、こう言うのです。「あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれてくるのを見る」と。つまり、「あなたたち大祭司、律法学者らは、主の栄光を見る」と、主が仰ったということであり、このことはつまり、天の御国は、神の子イエス・キリストを冒涜する者にさえ、閉ざされてはいないということです。ふさわしさのその対極にある者すら拒まないのが、私たちの主イエス・キリストであり、そして、このことは、大祭司、律法学者、ファリサイ派と同じように、主イエスとその弟子たちを拒んだパウロのことを、主イエスが拒むことがなかったように、ふさわしくないと思う者こそ、ご自分の御前へと招かれているのが、主イエス・キリストというお方だということです。

 従って、主イエスを冒涜する者を、主イエスも、また、御言葉も、これらの人々の罪を糾弾することによって終わてはいないように、こうして御言葉に聞き、主の聖餐に与りつつ求められている、そのふさわしさとは、主の御前にあって明らかにされるその罪深い姿を、自ら引き受けるところで現されるものだということです。そして、それは、自らに負い目を負わせることではありません。負い目を負うしかない私たちでありながらも、主がその私たちをその眼差しの中に置かれているように、主の御心の中に置かれている自分自身の姿を見出すということです。そして、それは、そこに現されるその罪をあたかもなかったかのようにすることではありません。ユダヤ教指導者たちの欺瞞、その罪が主イエスの前において明らかにされているように、罪は罪として、そのままが明らかにされる必要はあります。けれども、そこでまた私たちは知らされるのです。罪深い自分を主が受け止めてくださっているということを。ですから、私たちが先ず目を留めるべきことは、その罪深い人々をも、主イエスは、ご自分の交わりへと招いておられるということです。罪ゆえに排除するのではなく、「あなたたちは、人の子が・・・見る」と仰っているように、主の交わりへと招き、神の国へと導こうとされているのが主イエスの御心であるということです。従って、私たちに求められるふさわしさとは、そのように主に思われていることを深く自覚することであり、つまりは、聖なる領域、聖なる時間と空間に生きることが許されていることを深く深く自覚すること、ふさわしさとは、そこから、そこで、与えられるものであるということです。

 今、私たちが招かれているところは、どういうところなのでしょうか。私たちが、この日招かれているのは、主を礼拝する場であり、そして、この礼拝へと、主は、すべての人々を招いてくださっているのです。それゆえ、こうして礼拝を共にする人々が、人の目にどのように映ろうとも、それ自体、問題とされることはありません。主が、聖なる領域にそのような私たちを招き、聖なる命に与り生きる私たちに対し、礼拝を通して、新たな道筋示してくださっているわけですから、だから、主イエスの御言葉から一歩を始めることが大事なのです。それゆえ、私たちは、自分のわかりやすいところ、受け入れやすいところに閉じこもるわけには参りません。一歩を踏み出し、そして、送り出されたところで、主の御言葉を自分だけで味わうのではなく、主イエスがそうであるように、たとえ、大祭司、律法学者のように主と敵対する人々と出会おうとも、主の「ふさわしさ」に生きる私たちは、その人たちとも主の御言葉を分かち合うべく、歩まねばならないのです。ですから、そういう意味で、教会は、主の御言葉を通し、人と人とが出会う場でなければなりませんし、それゆえ、こうして新たに備えられた3階の集会室も、御言葉によって人と人が出会う場として私たちが用いるべく、私たちに与えられたものであるということです。

 主の御言葉に導かれ3階改修を終え、新たな歩みを始めた私たちでありますが、それが今までのままでいられないのは明らかです。何から何まですっかり変わってしまったからです。けれども、主の御言葉によって始められたこの新たな一歩は、主のふさわしさを身に帯び生きる私たちにとって、主の恵みとその温もりを感じるものとなるのは間違いありません。なぜなら、主に招かれ、主を礼拝し、主のふさわしさに生きているのが私たちである以上、主は、これからも、その御言葉をもって私たちを導き、恵みと温もりとを与え続けてくださるからです。ですから、その恵みとその温もりとを大事にし、私たちが出会う大勢の人々と、その恵みと温もりとを丁寧に感じ、分かち合っていきたいと思います。

祈り




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