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神学校日 主日礼拝 説教 「主に仕えること」

日本基督教団藤沢教会 2018年10月14日

エフェソの信徒への手紙 4章11~13節
11そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。12こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、13ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。

ヨハネによる福音書 6章1~15節
 1その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。2大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。3イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。4ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。5イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、6こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。7フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。8弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。9「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」10イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。11さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。12人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。13集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。14そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。15イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。


説教:
 ケイティ・ジン神学生
 (東京神学大学大学院1年/日本同盟基督教団横浜上野町教会伝道師)
「主に仕えること」
 今日の聖書箇所は皆さんがよくご存知の「五つのパンと二匹の魚」の話です。イエス様は五つのパンと二匹の魚で五千人をたべさせ、さらに余ったものは十二かごがいっぱいであったというでき事は本当に多くの人々、特に飢饉や貧しい時期を経験した方たちには大きい慰めを与えたと思います。ですからイエス様の奇跡を見た人々がイエス様を「世に来られるはずの預言者だ」と思い、さらにイエス様を王としようとしていたその気持ちも理解できます。今日はそのパンと魚をいただいた人々の側ではなく、彼らの中で熱心に奉仕しているイエス様の弟子たちの側からこの聖書箇所を皆さんと一緒に読みたいと思います。

 ガリラヤ湖の向こう岸で、病人を癒されるというイエス様のしるしを見た大ぜいの群衆がイエス様につき従って山に登ります。男性の数が五千人ですから子供と女性を加えると多分1万人以上の大勢の人の群れでしょう。そこでイエス様は続けて病人を癒されたり、神の国について語られたりしていました(ルカ9:11)。時が経ち、夕方になり、人々はだんだん疲れてしまい、お腹も空いてきました。弟子たちはますます心配になります。こんな多くの人の食事をどうしたらいいか分からずに悩み始めたのです。マタイ14章に記されている同じ箇所を読んで見ると弟子たちはイエス様に「群衆を解散させてください。そして村にいってめいめいで食物を買うようにさせてください」と提案しています。これは一番簡単な方法でした。しかしイエス様は人々を解散させるつもりは全くありませんでした。むしろ弟子であるフィリポに聞かれます「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」。イエス様は解散ではなく、人々に配る食物をどのように手に入れるか、その方法を弟子たちに聞かれています。6節には「こう言ったのはフィリポを試みるためであって、ご自分では何をしようとしているか知っておられたのである」と書かれています。イエス様はその方法を知らないから、弟子たちにきかれたのではありません。イエス様はご自分ではしようとしていることを知っておられましたが、直接それをなさるのではなく、弟子たちに聞かれていました。聖書は、イエス様が弟子たちを試みるためだと教えています。つまり、イエス様はこのことを通して弟子たちに何かを教えられる、あるいは悟らせようとしていたのです。一体それはなんでしょう?

  イエス様は弟子たちに聞かれています。
    「どこでパンを買えばよいだろうか」。

 皆様はもしその場所にいたらどのように答えますか? 私はフィリポとアンデレの答えを読みながら笑いました。なぜなら私が準備した答えと全く同じだからです。もし、私がその場所にいたら私もフィリポと同じように、パンを買うための予算を計算するでしょう。「先生、こんな多くの人を食べさせようとしたらどのぐらいのお金が必要か先生はご存知ですか? 二百デナリオンですよ」。聖書によると当時労働者の一日の賃金が一デナリオンですから(マタイ20:2)二百デナリオンとは約200日分の給料にあたります。決して少ないお金ではありません。また、私はアンデレのように、今の自分たちの状況を確認させようとするでしょう。「先生、今私たちが持っているのは五つのパンと二匹の小さい魚だけです。これでこんな多くの人々を食べさせるとはあり得ないことですよ」。

 普段私たちは何かをしようとする時、現実に基づいて全体的な予算と自分が調達できるリソース、例えば財力、物力、人力などを計算します。イエス様は全体的考え、十分に備えることを否定されているのではありません。むしろなんの考えもなく、準備性がない行動を責められていました。しかし、ここで私たちは忘れてはならない非常に重要なポイントがあります。それはクリスチャンの人生は一人ぼっちの人生ではないということです。クリスチャンがイエス様を信じると告白する時、それはイエス様を主として受け入れるということです。つまり、イエス様を王としてその支配を受け入れ、これからの生を主と共に歩むということです。イエス様と共に歩むことが信仰であれば、その信仰は現実と切り離れて言うことができなくなります。むしろ信仰こそが私たちの現実になります。現実という時、そこには自我が強調され、その主語は「私」です。私が置かれている状況、私が持っている能力、私の考え、私の立場、私の利益等々。けれども信仰の主語はイエス様です。イエス様のみ心、イエス様のご計画、イエス様の力と権威、イエス様の栄耀です。私たちの現実が信仰と結びつかれた時こそ、イエス様の主語に私が加えられ、その生は主と私が共にする生になります。イエス様は私たちが自分の現実だけにこだわることなく、更に広くて高い視点、謂わば霊的視点から問題を考え、もっと霊的なものを追い求めることを教えられています。

 ヨハネの福音書6章の前の箇所を少し振り返って見ると、2章でイエス様はユダヤ人に「この神殿を壊してみよ。3日で立て直して見せる」(2:19)とご自分のからだのことを言われていましたが、ユダヤ人は「この神殿は建てるのに四十六年かかったのに、あなたはそれを三日で建て直すのか」とあざけました。3章でニコデモとの会話の中でイエス様は「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3:3)と言われ、それは御霊によって新しく生まれることを示していますが、ニコデモは「歳をとったものが、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」と不思議な顔をしています。4章でイエス様はサマリヤの女にこのように言われます。「わたしが与える水を飲むものは決して渇かない」(4:14)。イエス様はご自身だけが与えられる「命へ至る水」、すなわち、命を与えられる神様の力と聖霊の御臨在を言われていますが、サマリヤの女は、「ここにくみに来なくてもいいように、水をください」と言い、ただ目の前の水の問題だけに集中しています。皆さんも気がついたと思いますが、イエス様と彼らの会話はどこか微妙にずれています。それは何かと言いますと、イエス様はいつも霊的な、神の国の話をしておられるのにユダヤ人も、ニコデモも、サマリヤの女もいつも眼の前のこと、現実的なことばかり考え、イエス様の教えに耳を傾けることができなかったのです。いや、聞いても分からなくなりました。私にも無理だと、私にもありえない、と言っている人々に、イエス様はこの地上のことだけではなく、目を上げて、霊的視点から霊的なこと、神様の御心をみなさいと語っています。

 今日の聖書箇所に戻って、確かに1万人以上の食物を用意するのは簡単なことではありません。普通、私たちが教会で100人分の食事を準備するのも大変なことですから、その時代に、しかも山の上で1万人の食事を用意することは想像以上に難しいことだと思います。弟子たちが言ったように群衆を解散して彼らが自分で食事を解決するのが一番簡単にできる方法かもしれません。でもイエス様がなさろうとしたことは単に食事の問題ではなかったのです。

 弟子たちの答えを聞いたイエス様は、それ以上問わなかったのです。ただ人々を座らせ、パンと魚を取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けられました。「無理、だめ」だと言っている弟子たちにイエス様は、神様に感謝をささげ、神様に寄り頼むだけでどういうことが起きているのかを自ら教えてくださいました。また、感謝をささげてからパンを分けられたイエス様の姿は最後の晩餐の時のイエス様の姿と重なっています。つまり、現象的にイエス様は、お腹が空いている群衆に食べ物を用意してくださいますが、それが全部ではなく、もっと重要なことを提示しておられます。それは続けての6章でもっと明確になります。6章24-40節で、イエス様の「五つのパンと二匹の魚」の奇跡を見て従って来た人々にイエス様はこう言われます。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」(27節)、「わたしが命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない」(35節)。イエス様は食べるパンだけではなく、人々に命のパン、イエス様ご自身を信じることを通して永遠の命を持てることを教えようとしたのです。この日、イエス様のしるしを見て、イエス様が配ってくださったパンを食べた人々は、この方には本当にその力があるとことを実感することができました。もし、弟子たちの提案のように人々を解散したら、そして若干のパンと魚で1万人以上が満腹させた経験がなかったら、命のパンをあたえるというイエス様の話は遠い話に聞こえたかもしれません。表面的には単に食物を用意する問題に見えましたが、実はその中で主の豊かなご計画と祝福があったのです。

 ここで一つ考えてみましょう。イエス様は何故しるし、つまり奇跡を行われたのでしょうか? イエス様は、五つのパンと二つの魚で5千人に食べさせたり、七つのパンと少しの魚で4千人を満腹させました。また湖の上を歩いておられたりし、様々な病で苦しんでいる人々を癒されました。けれどもパリサイ人がイエス様のもとにきてしるしを求めた時、イエス様ははっきり断りました。なぜでしょうか。それはイエス様はただ御自分の力を見せるためにしるしを行われたのではないからです。イエス様が徴を行われたのはイエス様が伝えた神の国の到来、という知らせと緊密につながっています。イエス様は奇跡を通して神の国とはどのようなものであるかを、人々に少しでも吟味してほしかったのです。そこは飢饉や病などの苦しみがなく、イエス様ご自身が王になっている国だというメッセージを伝えたかったのです。パンと魚の奇跡を行われた背後には、神の国ということの不思議さ、そしてその国に至る命のパンを与えようとしているイエス様のご計画とみこころがあったのです。

 ここで課題は霊的な視点を持つためにはどうしたらいいでしょうか? 今日の聖書箇所は方法を教えています。それは主に仕えることを通してです。今日の話の中で一番恵まれた人は誰だと思いますか? パンと魚を食べさせていただいた群衆だと思うかもしれませんが、私は弟子たちだと思います。なぜなら、彼らは主に仕えることを通して実際に直面した問題がどのように主によって解決されたのか、その主の力を経験し、イエス様が語られた神のみ国についてリアリティーを感じることができたからです。満腹させた群衆は解散して帰って行ったが、弟子たちはイエス様に従うことを通して何度も、何度も繰り返して教えられ、イエス様が十字架で死に、復活して昇天した後にはそのリアリティーを持って宣教の働きを始めることができました。

 私は今年の4月から教会の伝道師として主に仕えることができました。毎日感謝をもって奉仕しながら私は自分ができることに限界を感じています。日本に来て今年は四年目、言葉の壁はまだ高いし、全く異なっている異文化の中で育てられた私が皆様のために、子供たちために何ができるかいつも悩んでいます。けれどもその一つ一つの悩みの中で主のご臨在を感じ、いつも主に助けられ、慰められています。主を信じたから主に仕えることを決心しましたが、主に仕える毎日が主を経験し、そのリアリティーによって信仰が堅固される日々でした。そして悟らせました。主に仕えることは恵みを伝えるに先立って、自分自身が恵まれていることだと。

 主に仕えるというと、それは牧師や伝道師、献身者、役員、執事だけのことだと思っている方がいらっしゃるかもしれません。しかし聖書は、教会はキリストを頭としている一つの体であり、その体をつくりあげるのは牧師だけではなく、信徒全員だと教えています。エフェソの信徒への手紙4章11〜13節で、使徒パウロはキリストが使徒、預言者、宣教者、牧師と教師を立てあげるのは、「聖なるものたちが奉仕の業に適したものとされ」るためであり、そしてその聖なる者たちがキリストのからだ、つまり教会をつくりあげるのだと語っています。言い換えると、牧師や教師の役割は全ての信徒が主に仕えるものとして成長するように助けること、そして全ての信徒がお互いに仕えることを通してキリストの満ち溢れる豊かさになるまで成長することです。

 教会の成長というのは人数の成長ではありません。規模の拡大ではありません。教会の信徒一人一人が神の国の民としてリアリティーを持って生きること、そして一人一人がキリストに満ちているものとして信仰的成長をすることです。教会の成長はまだ一人や、一部分の人に限られているのでもありません。体の成長は全体的な成長であるように、教会全員が共に成長することです。そのためには主の前でお互いに仕え合いましょう。主に仕えることはまた人に仕えることでもあるからです。主にそして人に仕える時、イエス様は昔弟子たちを悟らせてくださったように私も悟らせてくださり、徐々に成長させてくださいます。教会の中だけではなく、また出て行って家族、友人、隣人に仕えることを通して私たちが信じている方は生きている方であり、私たちの信仰は生きている信仰であることを証し、神のみ国が私を通してさらに広げられるようにお願いつつ、この一週間を過ごしましょう。
お祈りします。





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