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降誕前第8主日礼拝 説教 「世の人々と私たちとの違い」

日本基督教団藤沢教会 2018年11月4日

【旧約聖書】創世記 9章8~17節
 8神はノアと彼の息子たちに言われた。
 9「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。10あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。11わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」
 12更に神は言われた。
 「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。13すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。14わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、15わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。16 雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」
 17神はノアに言われた。「これが、わたしと地上のすべて肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」

【新約聖書】ルカによる福音書 11章33~41節
 33「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。34あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。35だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。36あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。」

 37イエスはこのように話しておられたとき、ファリサイ派の人から食事の招待を受けたので、その家に入って食事の席に着かれた。38ところがその人は、イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、不審に思った。39主は言われた。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。40愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。41ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。


「世の人々と私たちとの違い」
 その人がいるだけで、その場がぱっと明るくなる、皆さんの周りには、そういう方が、何人くらいいるでしょうか。また、人からそう言われる方とは、どういう方でしょうか。朗らかな人、愉快な人、大方の人が抱くイメージとは、大体、そういうものであろうと思います。ですから、そういう方と毎日を一緒に過ごすことができたら、どれほど楽しいことかと思いますし、きっと明るく毎日を過ごすことができるでしょう。ちなみに、皆さんは、そういう方とどこでご一緒なさったのでしょうか。教会でしょうか、それとも、教会の外でしょうか。主イエスの今日の御言葉に聞いていくなら、それは、間違いなく、教会の中のことだと言えるのでしょう。なぜなら、36節で、主イエスが、「全身は輝いている」と仰るように、主イエスの言葉に真面目に耳を傾け、生真面目に応え、生きるのが私たちであり、その私たちががこうして集められているのが主の教会でもあるわけですから、その人がいるだけで、その場がぱっと明るくなる人で満ちあふれているところとはつまり、それは、教会以外にないということです。

 従って、そういう明るさで満ちあふれているのが主の教会である以上、自然と人が増えるようにできているのが、主の教会というところだとも言えるのでしょう。なぜなら、主イエスが、「灯火を灯して、それを穴蔵の中や、枡の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」と仰り、しかも、「あなたの体の灯火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身は明るいが、濁っていれば体も暗い」と仰ってもいるように、火を灯し、周囲を照らし出すのが、私たち主の教会に生きる者の使命でもあるわけですから、教会が明るくないはずはありませんし、人が増えないはずもありません。

 それゆえ、私たちは、その役割を担い、使命を果たすためにも、私たちの目は澄んでいなければなりません。澄んでいるからこそ、全身を輝かすことをその使命、役割としている私たちが集まる教会に、もし、初めて人が訪ねて来たなら、その人は、間違いなく、灯火が灯されているゆえの明るさ、その温もりを感じることにもあるからです。ですから、教会に初めて足を踏み入れた人は、恐らくは、皆が皆、こう思うに違いありません。「教会ほどいいところはない」と。このように、教会とは、そもそもそういうものであるわけですから、自ずと人が集まり、増えるようにできていると、多少乱暴な言い方ではありますが、そう断言していいのだと、私はそう思います。

 ただ、その私たちが発する明るさですが、それは、私たちすべてに、独りでに始めから備わったものではありません。灯火は、火を灯されてこその灯火であり、火が灯されることがなければ、それを灯火と呼ぶことはできないからです。では、私たちに火を灯し、私たち自身を輝かせてくださっている方とは、一体どなたなのでしょうか。それは、もちろん、主イエスでありますが、では、主イエスは何のために、私たち一人ひとりに火を灯そうとされたのでしょうか。それは、その輝きの中に私たちを置くだけではなく、私たちに灯されたその灯火によって、世を明るく照らし出すためです。それゆえ、私たちは、自分が輝いてさえいればそれでいい、自分たちだけが明るければそれでいい、そのように考えることはありません。私たち一人ひとりに火が灯され、その灯された一つ一つの灯火によって、世を照らし出そうとされている、それが、主イエスをこの世へとお遣わしになった神様の御心でもあるからです。ですから、私たちは、この自らの使命、役割に徹せねばなりません。灯された灯火を輝かし続けること、そして、その灯火をもって世を明るくすること、この御心に従い生きるのが、こうして主の教会に集められている私たちでもあるからです。

 そこで、この光景を少し想像していただきたいのですが、時期的にまだ早いようにも思いますが、それは、私たちにとって馴染み深いもののように思います。一つ一つの灯火に火が灯され、温かい光で照らし出されるその光景とはつまり、クリスマス・イブ礼拝におけるキャンドルサービスの光景でもあるのでしょう。では、礼拝堂全体を包み込むその光を間近に覚え、そこで感じるものとは何なのでしょうか。それは、神様の御心であり、この神様の御心に、私たちは、その時、触れているのです。それは、主イエスによって実現したものが神様の御心でもあるからです。だから、光を間近に感じる私たちは、そこで、この神様の御心を実感することになるのですが、主イエスがここで語っていることも同じです。その時、私たちが感じることと同じことをここでも同じようにこの譬えをもって語っているのですが、まただから、「入ってくる人に光が見えるように」と主イエスが仰るように、クリスマスイブ礼拝に訪れた人々の多くが、主が近くにいますことを感じ、そこで、主イエスというこの灯火に照らし出されることで、その光を通し、人々は、世界全体が神様の祝福の中に置かれていることを知らされるのです。

 それゆえ、その時人々が感じるこの祝福の光ほど、具体的なものはありません。一つ一つに、一人ひとりに火を灯される神様の御心の明るさとその温もりとを、灯火が広がりゆくさまを見て、具体的に覚えることになるからです。そして、その明るさは、その場しのぎの、その場限りのものではありません。主イエスという灯火を灯された人々は、主が輝いている以上、どこまでも明るいし、それゆえ、その私たちがこうして集められている教会も明るいし、さらには、世界には、数え切れないくらいの数多くの教会が立てられているわけですから、主という灯火に照らし出されているこの世界も明るいと、そのように言うことができるのです。従って、それが、キリストをこうして灯す私たちであり、教会であり、そして、私たちが生きるこの世界でもあるわけですから、この事実から、私たちは、すべてのことを見つめなければなりません。そして、今日の創世記において語られているように、このことが実現したのは、すべての肉なるものとの間に立てた契約を、神様が忘れずに常にその心に留めてくださっていたからでもありました。

 そこで、神様は、その事実を現すため、そのしるしとして世界に虹を置かれたと、御言葉は語るのですが、それゆえ、私たちにとって、虹は、ただ美しいだけのものではありません。虹が神様と私たちとの永遠の契約のしるしである以上、私たちは滅びへと引き渡されることは絶対になく、しかも、神様は、主イエスの十字架の出来事を通し、その強い意志をさらに強く明らかにされたわけですから、私たちが生きるこの世界も、そして、そこに生きるすべての命あるものも、何があろうとも、神様の祝福の外に置かれることなどあり得ないのです。従って、私たちが立つべきところは、この神様の約束の上以外他になく、そして、その約束の上に立つ者の姿を明らかにするために、御言葉はまた、37節以下の主イエスのそのお姿をもってそのことを語るのです。

 そこで、御言葉が伝えるように、神様の約束の上に立つということは、主イエスのように厳しい態度をもって臨むべきことであり、私たちが、そう受け止めることは、正しく、間違ってはおりません。ましてや主イエスが別のところで「然り然り、否否と言いなさい」と仰るように、それは、イエスとノーと、はっきり口にすることでもあるからです。それゆえ、私たちは、いかなるものにも、毅然とイエスとノーを言葉にしていかなければなりませんが、ただし、その場合、一つ留意すべきことがあります。主イエスは、その正義を振りかざし、また、自らの主張を強引に通そうとして、イエスとノーを明確にせよ、とそう語ってはいないからです。

 主イエスの毅然とした態度は、どこに立って現されているのでしょうか。そのことが分からず、私たちがいくら何かを語ったところで、その言葉に意味はありません。ただ、私たちが無意味だと思うことをも意味あるものとして語るのが御言葉であり、そこがまた、御言葉のすごいところでもあります。39節に「自分の内側は強欲と悪意に満ちている」とあるように、自らの思うところの正しさを振りかざすファリサイ派の人々のその態度に対し、主イエスは、このように意味を与えているからです。けれども、主イエスのこの厳しい態度は、主イエスと相対する者にとっては、それこそ、無意味なものとしか映らないのでしょう。それゆえ、彼らと同じところに立つとき、主イエスの言葉が、その人の心の奥深くに届けられることはありません。しかし、その人の心に主イエスの言葉が届かないのは、その人が罪深い愚か者だからではありません。ファリサイ派の人々に向けられた主イエスの強欲、悪意と言う言葉は、自分のことを棚上げする者にとっては、まったく正反対の意味を持つものであり、それは、私心なき善意の現れであり、自らの正しさをどこまでも現すものでもあるからです。

 そこで、わたしは、幼い頃、先生始め、大人たちから言われたある言葉を思い出します。それは、「あなたのためだから」というこの一言です。ただ、そう言われ、素直に納得することはできませんでした。どこかモヤモヤした気持ちになったのですが、それは、もちろん、私の幼さゆえのことでもありました。けれども、幼さだけがモヤモヤを感じた理由でなかったように思います。それは、その言葉の裏側に見え隠れするものを子供心に感じないわけではなかったからです。ですから、主イエスが強欲、悪意と意味づけていることは、もしかしたら、それと似ているように思うのです。けれども、主イエスは、私たちが感じるそうしたモヤモヤを解消しようとして、ここで毅然とした態度で臨んでいるわけではありません。もしそうであるとしたら、主イエスのここでの態度は、結局は、ファリサイ派の人々と同じように、「あなたのため」と語り、自らの正しさ、清さを主張する人々と何ら変わらないものとなってしまうからです。

 ところで、ファリサイ派の人々が、何故、主イエスの行動に疑義を呈したのか。宗教的不浄というものに、普段から余り注意を払うことの少ない私たちにとって、彼らの言動は、理解に苦しむものでもあるのでしょう。私たちにとって、それは、どちらでもいいことだからです。ですから、それに拘る彼らの態度は、主イエスが仰るように、強欲、悪意に満ちた愚かな行為だと、そう私たちの目には映ることでしょう。けれども、彼らの拘りには、理由がありました。それは、バビロン捕囚という、イスラエルの人々にとって忘れ難い出来事が、彼らをして、執拗とも思えるほどの拘りを生じさせているからです。つまり、もう二度とあのような思いはしたくない、してはならない、バビロン捕囚は、彼らにそう思わせるものでもありました。それゆえ、その思いの強さが、彼らをして、必要以上に、宗教的正しさを求めさせることになったのですが、それは、幼い頃より彼らが、「あなたのためだから」と、そう言われ続けてきたからなのかもしれません。ところが、同じ民である主イエスは、そのことへの拘りを見せないどころか、まったく気にも留めていない様子なのです。それゆえ、主イエスに向けて語られるファリサイ派の人々の言葉は肯けないわけではありません。けれども、彼らが求める正義、清浄さ、それが信仰的にどれほど利があることだとしても、彼らが拘りを見せれば見せるほど、そんな彼らの態度に息苦しくさえ覚えるのです。主イエスの態度は、それゆえのことでもありますが、ただ、主イエスのその毅然とした態度から分かることは、主イエスが、「だから、お前たちの考えは間違っている」と、頭ごなしに怒ってはいないということです。そのことが、主イエスの最後の御言葉から分かるのですが、では、主イエスは、そこで、何を語っているのか。「ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる」と、こう語るのです。

 主イエスが彼らに対し、語ったことは、喜んで自らを捨てて空っぽになるようにということでしたが、それは、一切を手放すことが、わたしたち人間の平安に繋がることを、主イエスはご存じであったからです。ただ、このことはまた、人にとって苦痛でしかありません。ですから、それがどうして平安へと繋がるのか。主イエスの仰ることは、ある意味で、人の理屈に合わないことでもあります。けれども、それを強く、訴えているところに、主イエスの伝えようとされている真実が現されていることが分かります。それは、この平安こそが、主イエスご自身が、その身をもって経験することであり、また、それを毅然とした態度で語っているところに、私たちが聞かねばならないただ一つの真実が現されてということです。

 それゆえ、私たちは、主イエスが立つところに同じように立って、この主イエスの言葉を聞かなければならないのですが、ただし、そこは、『あなたのためだから』と、自分だけに都合のいい世界を作り出そうとして何かを否定し、息苦しさを生じさせるような場所ではありません。すべてを受け入れ、受け止める、神様の平安に満たされた場所であり、この神様の完全なる肯定の中に立ち、語られているものが、主イエスのこの言葉であるのです。ただ、ユダヤの人々が必要以上に宗教的清さを求めているように、この神様の完全なる肯定の中に立とうとして努力したのが、ユダヤの人々でもありました。それは、バビロン捕囚を自らの失敗体験、自己否定の契機として捉えていたからです。

 ですから、かつての同じ過ちを繰り返さないために、あれもダメ、これもダメ、全部ダメと、彼らは主張し、そして、それが「あなたのためだから」と、自分にも人にもそれを求めることになったのです。そして、それは、御言葉に照らし合わせれば、間違いではないのでしょう。けれども、そこで語られ、求められることがどれほど正しいことであっても、そこに立ち続けることで、平安がもたらされることはありません。なぜなら、「あなたのため」と彼らが語るところには、受け止められ、肯定されているという実感が欠落しているところでもあるからです。それは、彼らがバビロン捕囚を自己否定の契機として捉えていたからでもありますが、それゆえ、それが、そもそもの間違いの原因でもありました。なぜなら、人々が捕囚において味わったことは、永遠の約束を立てられた神様の御心であり、バビロン捕囚において、ユダヤの民が知ったことは、何があっても見捨てないという神様の約束、この御心でもあったからです。従って、主イエスの毅然とした態度の中に、私たちが見るべきところは、主イエスが、この神様の御心の中に立って、ここでのことを語っているということです。

 このことはつまり、私たちは、必要以上に失敗や過ちを恐れる必要はないということです。神様を甘く見るのはもちろん間違っていますが、けれども、失敗や過ちを犯すことがあったとしても、主イエスの立つ神様の御心の中へと私たちが立ち帰るなら、そこで、私たちは知るのです。主イエスという灯火を灯された私たちは、神様の完全なる赦しの中に置かれ、その命は守られ、祝福されていることを、私たちも、そして、ファリサイ派の人々も、主イエスによって、この神様の平安の中へと招かれていることを、主イエスという灯火を灯し、この灯火を人から人へと灯し続けることで知るのです。そして、それが、あのクリスマスイブの夜に感じる平安であり、この神様の御心の中に立てばこそ、私たちは、この平安を自分のものとして味わい知ることが許されるのです。

 従って、世の人々と私たちの違いとは、このことに気づいているかいないかの違いであって、宗教的清さ、正しさの優劣を競い合うことで得られる何かではありません。私たちの命そのものが神様の完全なる御心の中に、主イエスと共に立つことが許されている、このことを知っているのが私たちでもあるわけですから、だから、すべてを献げることができるし、また、すべてを神に信頼し、お任せすることができるのです。ただ、それでもと思うようなことをしでかしてしまうのが私たちでもあるのでしょう。けれども、過ちを繰り返し、神に遠ざけられていると思うしかない私たちであっても、神様の御心に立ち帰り、そこに立ち続けようとするからこそ、私たちの進むべき道は、御心に適う形で、必ず開かれていくことになるのです。

 私たちがこうして御言葉に聞いているところとはつまり、主イエスという、私たちのすべてを受け入れ、すべてを認めてくださる、この神様の御心であり、この御心の中に立って、私たちは、こうして御言葉に聞いているのです。それが、すべてを失ったその時にも許されており、そして、ユダヤの民がかつて経験したように、私たちが求める幸いと喜びは、ここから始められて行くものなのです。私たちには、そこに立つために、主イエスという灯火を灯していただいたのであり、だから、私たちは、失敗や過ちを恐れずに、主イエスという灯火を、一つ一つ、一人ひとりに灯し、そして、その私たちの歩みが、また、世を照らし出し、主の平安で包むことになるのです。それが私たちであり、それが主の教会であり、それが、主イエスを通し見つめる神様が作られたこの世界でもあるのです。ですから、そのことを心に留め、主の幸いの内に、この喜びを分かち合う歩みを、今週も共に歩んで参りたいと思います。

祈り




曇 15℃ at 10:30