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終末前主日礼拝 説教 「急がば回れ」

日本基督教団藤沢教会 2018年11月18日

【旧約聖書】出エジプト記 3章1~15節
 1モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。2そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。3モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」
 4主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、5神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」6神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。
 7主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。8それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。9見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。10今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」
 11モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」
 12神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」
 13モーセは神に尋ねた。
 「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」
 14神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」15神は、更に続けてモーセに命じられた。
 「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。
 これこそ、とこしえにわたしの名
 これこそ、世々にわたしの呼び名。
 
【新約聖書】ルカによる福音書 20章27~40節
 27さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。28「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。29ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。30次男、31三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。32最後にその女も死にました。33すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」34イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、35 次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。36この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。37死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。38神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」39そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。40彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。


「急がば回れ」
 主と共に一巡りの歩みを過ごした私たちが、こうして主に招かれ、その御前にかしずき、共々に主の御言葉に聞こうとしているわけですが、この時、主というこの言葉、この一点に結び合わされているがゆえにまた、私たちそれぞれの心は、主にあって一つとされている、このことを実感させられてもいるのです。ですから、礼拝において、御言葉が語ることは、主と共にある私たちは、主にあっては一つであり、それが、事実であり、真実でもあるということです。そして、先週も私たちは、愛する姉妹をご家族と共に天へとお送りすることになったのですが、その際、私たちが知らされ、また、実感させられたことも、この、主と共にある私たちは、主にあっては一つである、ということでした。

 それゆえ、主にあって、私たちが一つである、そして、生にあっても、死にあっても、同じ一つの命を生きている、この一つの命、一つの歩みを続ける私たちだからこそ、私たちは、御言葉を通し、多くの慰めを受け、癒やされることになるのです。そして、それが事実であり、真実であるから、だから、また大胆にそのことを牧師も口にすることができるのです。そして、それが許されているのは、それを語り伝え続けてきた教会というコミュニティーの中に、私たちがこうして置かれているからであり、まただから、私たちは、そのことを実際に、そうだ、そうだ、そうなのだと実感させられることにもなるのです。そして、今日のそれぞれの御言葉が、こうして礼拝に望む私たちに向かい語りかけてくれていることも、それと同じことです。それゆえ、一番肝心なことは、私たちの父なる神様と子なるキリスト・イエスが、御言葉を通し、共にあると言うことを語りかけているということであり、そして、それが事実であり、真実であるということです。復活云々、召命云々といったことは、そこから派生するいわば枝葉の部分に過ぎないということです。

 では、この事実、真実を示され、つまり、真実に触れた私たちを全体として一つとして包み込むこの主の御心の中に置かれ、私たちは、何を思い、何を感じているのでしょうか。そこで、みくに幼稚園の子どもたちに、みんなの心の中には何が見えますかと尋ねれば、声をそろえて「神様、イエス様〜」と大声で叫んでくれるに違いありません。それは、本当にそう思い、感じているからで、そう尋ねる牧師を喜ばせようとしてのことではありません。ですから、このことを謎解き、あの、「何々とかけて、何々と解く、その心は」という謎解きですが、子どもたちに尋ねたことを謎解きに置き換えるなら、つまりはこういうことだと思います。「礼拝とかけて、御言葉の説き明かしと解く、その心は、神様とイエス様だ」と、子どもたちはそう叫ぶということです。そして、聖書の御言葉が子供だましのものでない以上、子どもたちと同じように同じ事を口にするのが礼拝における私たちであり、また、それが正しい答えでもあるということです。けれども、礼拝とかけて、牧師の説教と解く、皆さんのその心は、では、実のところどうでしょうか。

 皆さんの心の中で大きな位置を占めているこの時の思い、この時の気持ち、それぞれの感情において、その心の中で大きく支配しているものとは、一体何なのでしょうか。それが神様とイエス様であればいいのですが、必ずしもそうとばかりは言えないのではないでしょうか。もちろん、私たちも、そう言いたいし、そう思いたいのです。また、だから、礼拝を通して、そのように気づきが与えられることを、私たちは願ってやまないし、そもそも、神様もイエス様もそれを心から願ってやまないように思うのです。けれども、実際はどうでしょうか。正直、今、この時、皆さんの心の中に大きな位置を占めているものは、次のようなことなのではないでしょうか。

 一番多いのは、恐らく、長いのはいらない、コンパクトに、美味しいところだけ語って、早く説教を終わって欲しい、そういうことなのではないでしょうか。そして、次に多いのは、恐らく、眠いなあ、と言うことなのでしょう。そして、その次はというと、お昼ご飯何食べようかな、ということなのではないかと思います。けれども、もちろん、礼拝に集められているすべての人がそう思い、そのような気持ちであるわけではありません。愛する者との別れを経験したばかりの方は、その悲しみでその心は一杯でありましょうし、また、様々な思い煩いを抱えている方々にとっては、それぞれの具体的な課題、問題がその心を大きく支配してもいるのでしょう。ですから、そのような具体的な課題を抱えている方々に、一つであり、その心は、イエス様であり、神様であると、ましてや、だから、神様とイエス様がすべていいようにしてくださるからと、オウム返しのようにそれだけををいくら語ったところで、それでそうかそうかと、どれだけの方が納得することができるのかとも思います。また、もし、私がそれだけを繰り返し語り続けるなら、そもそも、早く終わって欲しい、眠いなあ、何食べようかな、そう思っている方たちが、はっと何かに気づいて、神様とイエス様だけを見つめるなどといったことは、起こりようもないことでもあるのでしょう。なぜなら、神様とイエス様が共にいます以上、必ずいいようにしてくださるからと、それだけを聞いているだけでは、何の解決にもならず、返って、疑いを強くするだけだからです。まただから、「礼拝とかけて、牧師の説教と解く、その心は」とそこで問うなら、「短かければ短いほど人に喜ばれる」とそういうことにもなるのでしょう。

 ただ、短くスッキリ分かりやすく話をして欲しい、説教については、確かにそれに越したことはないと私も思います。では、神様と共にある私たちがイエス様ゆえに一つであるという、御言葉の中心的なメッセージについては、それぞれの心にある、その時々の思いが満たされれば、自ずと伝わるということなのでしょうか。もちろん、それぞれの思いや気持ちが満たされることは、大事なことではありますが、けれども、礼拝者である私たちが何に納得し、何に満足するのか。それは、やはり神様であり、イエス様である、それしかないのではないでしょうか。ただし、先ほど、「何々とかけて、何々と解く、その心は、神様であり、イエス様である」とそう申し上げたように、礼拝を献げる私たちが、神様とイエス様しかないと、そう思えるためには、正しいこの一つの答えに加えて、もう一つ、そこには、別の意味があることを知っておく必要があるように思うのです。

 その答えが神様とイエス様と言うことは、確かに正しい答えではあるのですが、この答えは、私たちにとっては、同時に問いでもあるのです。このことはつまり、礼拝とは、私たちが、答えを知るだけでなく、それ以前に、この問いの前に立たねばならないということです。そして、それは、この問いの前に立つというよりも、立たされることになるということでもありますが、それは、私たちがこうして生きているからです。だから、モーセは、神様に向かって、「私は何者なのでしょうか」、「その名は一体何か」とこのように問うているわけで、まただから、イエス様も、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」と、イエス様に問うサドカイ派の人々に対し、そのように答えてもいるのです。

 短く終わって欲しい、眠いなあ、お昼何を食べようか、また、どうして自分はこんなに苦しい思いをしなければならないのか、どうしてこんなに悲しい思いをしなければならないのか、礼拝を献げる私たちが、そんな思いに駆らるのは、私たちがこうして現に生きているからです。ですから、皆さんそれぞれの心の中で大きな場所を占めている様々な思いは、私たちがこうして生身の体をもって生きているがゆえのものであり、そうである以上、人にとやかくは言われたくはありません。けれども、そうであるからこそまた、その思いに直ぐに答えていただきたいし、また、そうであるからこそ、その思いに直ちに答えてはくださらない神様に向かって、まさに、モーセのように、また、イエス様の前に立つファリサイ派の人々のように、私たちもまた、疑問を投げかけることになるのです。

 ただし、この疑問を投げかけるということについては、私たちは、後ろ暗い、後ろめたい気持ちを抱える必要はありません。それについて負い目を負う必要はまったくないのです。それは、思ってしまったのだから仕方ないと言うことではありません。イエス様があなた方の心の中にあるものが悪いのだと仰っているように、だから、何を思ってもいいと言うことではもちろんありません。しかし、そうではなく、神様とイエス様と相対する中で、そこで、私たちが何を思うものであるのか。それについて、マタイによる福音書の一番最後には、次のようなことが語られています。すべての人々を弟子とし、それらの人々に洗礼を授け、命じられたことのすべてを守るようにと伝えなさい、とイエス様が仰った、あの、いわゆる、主イエスの大宣教命令と言われていることが語られているのですが、この言葉を聞くその直前の弟子たちの様子について、御言葉は、次のようにも語っているのです。そこには、「主イエスにひれ伏す者がいる一方で、疑う者もいた」ということが語られているのですが、つまりはそれが、主イエスに御言葉を宣べ伝えるように命じられたその時の弟子たちの姿であるということです。そして、このことはつまり、主イエスのなさったことに対して疑いを初めから抱いた者がいたというのが、私たち主の教会の姿でもあったということです。

 それゆえ、それが主の御前における私たちのある一面を現すものであり、その人たちに向かって、主イエスの大宣教命令が語られている以上、疑うことに必要以上に後ろ向きな思いを感じる必要はありません。そもそも、神の御前に主イエスと共に立つということは、そういうものであり、むしろ、神様とイエス様がなさろうとしている事への疑問、自らが発するその問いの前に、私たちがしっかりと立つことが、御言葉を宣べ伝えると言うことでもあるからです。そして、その私たちの姿がいかなるものなのかを教えてくれているものが、ここでのモーセであり、サドカイ派の人々であるように思うのです。では、そのそれぞれの有様を通し、先ず私たちが知らされることは何か。それは、まさに、後ろ暗く、後ろ向きな姿です。それも、神様もイエス様も、そのことについてはまったく気にしていないにもかかわらず、そのことが気になって気になって仕方ない、そんな姿です。それは、私たちがこうして生きているからであり、けれども、この日、御言葉が語ってくれていることは、その後ろ向きで後ろ暗い者に向かって、神様もイエス様も、一つも咎め立てることなくその御心を明らかにしてくださっているということです。それが、それ以上でもなければそれ以下でもないと先ほど申し上げた、主が共にある私たちは一つであるという、この事実であり、真実であると言うことです。

 出エジプト記3:1に記されているモーセの姿は、2:11以下に記されていることと合わせて読むならば、モーセのその後ろ向きで後ろ暗いその時の有様をよく理解することができるのでしょう。なぜなら、この時のモーセは、逃亡者であり、殺人者であったからです。しかも、そのことに後ろ暗さを感じていた、つまり、ささくれだって、気持ちも定まらずにいたのがこの時のモーセであり、だから、恐らくは、仕事にも身が入っていなかったのでしょう。ですから、そのように考えれば、生ける屍のごとく、無為徒食な暮らしを繰り返していたのがこの時のモーセであったということです。それゆえ、そのような姿は、神の御前に立つことも進み行くことも、到底許されるものではないのでしょう。もし、私たちがこのモーセと自分自身とを重ね合わせて見たらどうでしょうか。喜び勇んで神様の御前に進み行くことができるでしょうか。けれども、そのモーセを神様ご自身が招かれた。私は、ここに礼拝の意味があるように思います。つまり、主イエスが、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく、病人である。私が来たのは正しい人を招くためでなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と仰るように、神様の御心の外にある人々を御心の内に招こうとされているのが、主なる神様であり、私たちの主イエスであると言うことです。けれども、それを私たちは誤解しているところはないでしょうか。

 今、イエス様のお言葉に少し触れましたが、イエス様がこうして私たちを招くその意図を、つまり、「正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と仰ったその言葉を、私たちの後ろ暗さにさらに追い打ちをかけるようなものとしてのみ理解してはいないか、ということです。神様の御前に立たされた私たちは、弱く、儚く、もろいものです。それは、その自信のなさや愚かさゆえのことでもありますが、それゆえ、自らの苦しみや悲しみに溺れ、自分を見失い、まるで、捨てられた子犬のように、ブルブル震える姿を神様の御前に現すことにもなるのでしょう。また、だから、そういう自分を見たくないし、知りたくない、そう思うから-それがまさに私たちが生きていると言うことでもあるのでしょう-、自分の中に異質なものを取り込んだときに起こる免疫反応のように、神を拒み、あるいは、見ないようにする、それが、主イエスの御前に立つここでのサドカイ派の人々でもあるのでしょう。だから、神様のなさることにもイエス様のなさることにも、疑いを抱き、不満をぶつけてしまうのです。また、だから、こうして生きているがゆえに、神様とイエス様を見ないがゆえに、生きる事への不安、生きる事への恐れを募らせることにもなるのです。しかし、そのようにしか生き得ない、それが生きることだと思い込む、そのような私たちを御心の中へと招いてくださっているのが、私たちの主なる神様であり、私たちの主イエス・キリストなのです。

 神様のその御心の外に置かれていると思い込む人々のその苦しみをつぶさにご覧になり、その叫び声を聞き、その痛みを知り、私たちがこうして生きているところに自ら下って来られたのが私たちの神様であり、また、その私たちの下へとイエス様をお遣わしくださったのが、私たちの神様なのです。従って、低きに下り、私たちを救い、ご自分のいますところに導いてくださっているのが、私たちの神様であり、つまりは、礼拝をこうして共に献げる私たちは、この神様の御心の内に置かれ、そのことを知らされているということです。しかも、神様は、大きく線を引いて、お前たちの居場所はここ、と大雑把なことを仰るのではありません。主イエスの十字架と復活の出来事を通し、御心の内に置かれている私たちの命が、また、私たちの人生の道筋が、主という言葉のゆえに守られ、支えられ、導かれている、このことをはっきりと知らしめてくださったのが、主イエスの出来事でもあるのです。だから、疑い迷う者が信じる者へと変えられていく、不安や恐れに包まれている者が平安へと導かれる、それもこれも、私たちが主というこの言葉につなぎ合わされ、神様の御心の内に置かれ、こうして歩む者だからです。このように、主の御心の中に置かれ、それぞれの人生を歩むのが私たちである。ただ、そのことが時に分からなくなり、見えなくなる。そのために不安になり、恐れを抱くことになり、神様を疑い、神様から離れてしまいたくもなる。けれども、その私たちのことを御心の中に置き、なお、ご自分のいますそのところに招き、導こうとされているのが、私たちの神様なのです。

 私たちは、子どものように、それを言われたからといって、子どもと同じように直ぐに「はい分かりました」と答えることはできないのかもしれません。だから、神様とイエス様という、この問いの前に立たねばならないのです。けれども、恐れずこうしてこの問いの前に立つなら、私たちは、それが私たちの求める答えであることを知るのです。主にあって共にある私たちは、主にあって一つとされている、そのことをこうして生きる中で知らされているのが、礼拝を献げる私たちなのです。

 このように、神様の御心の中に置かれている私たちの姿、そのことにどれほど疑いを抱き、どれほど不安に思ったとしても、それが、御言葉が私たちに語りかける真実であり、また、事実でもある。それを御言葉を通して知らされているのが、こうして神様を礼拝する私たちなのです。そのことをしっかりと心に留め、また新たな一巡りの歩みへと送り出されて参りたいと思います。

祈り




時々曇 13℃ at 10:30